見出し画像

(5) ボンベイからスリナガルまで

石崎光瑤の「カシミールの旅」の書きだしはまるで映画のようだ。

地図と参考書 トランクに入れ

1917年4月20日金曜日、インド・ボンベイ。

カエンボクの赤い花が咲き始めた。在留邦人は「ボンベイ桜」とも呼ぶ。これから季節は乾季から雨季へと移り変わる。遠くに層積雲を見つけて、石崎光瑤(33歳)は山が恋しくなった。

1本の電報が届いた。カシミールの山案内をするシカリ(ポーター・荷担ぎの人々を指揮する人)が、スリナガルの町まで下りてきた、どうするか、というのだ。

シカリはふだん辺ぴな山奥に住んでいて、依頼があれば町まで下りてきて、算段するらしい。

「すぐに雇うから待っててくれ」

光瑤はそう返信し、地図や参考書をトランクに入れて慌ただしく出掛けた。そして午後9時発の急行列車「パンジャブ・メール」に乗り込んだ。[1]

『印度行記』の第13章「迦湿密羅王国」の冒頭を要約してみた。実際には漢語が多く、かなりの長文だ。元になった新聞連載の「カシミールの旅」のほうは少しだけ簡潔でテンポがいい。[2]

金井紫雲という美術記者は、約15年後にこの「カシミールの旅」冒頭の一節を引用して、「その細かい色彩感と火焔木の魅惑が、第一回帝展に現はれ特選となった『燦雨』である」と書いている。[3]

光瑤の紀行文は草花や花木が随所に出てくるのが特徴だ。日本の似た花と比較もしている。

この稿では主眼が花にないので、しばしば略する。関心のあるひとは復刻版を読むことをおすすめする。

ボンベイは北緯18度54分、熱帯サバナ気候
スリナガルは北緯34度08分、温帯夏雨気候

焦土を走る列車、募る不安

光瑤の旅に戻る。

ボンベイからカシミール藩王国の主都スリナガルまで2720キロメートル。まずはインド北部の中心都市ラワルピンディまで鉄路で2400キロメートルを移動する。1917年4月20日夜から22日夕にかけてとみられる。

日本に例えると九州熊本から札幌まで移動するようなものだろう。

4月下旬のインド中部は最高気温が35度を超す猛暑だ。冷房列車のない時代である。藍黒色のガラス窓を締め切り、車内はただ扇風機が回る。木の手すりなど触っていられないほど熱い。冷えた感じがするのは自分の肉体だけだ。

光瑤は、扇風機を切って車窓を眺める。「限りない丘陵はもう何ものの生存をも免さないばかりに、焼けただれた」光景が延々と続く。異国の一人旅。言い知れぬ不安にかられた。

3日目の夕方、ラワルピンディ(Rawalpindi;標高508m)に到着した。「気が遠くなるほど」疲れていた。

『印度行記』に掲載された写真としては、ラワルピンディ郊外で撮影したラクダ隊の1枚あるだけ。写生画は確認されていないようである。[4]

ラワルピンヂ附近の駱駝隊
『印度窟院精華』「印度行記」33ページ
高岡市立図書館蔵
光瑤が進んだラワルピンディからスリナガルまでの推定ルート

幌馬車で4日半を移動

このあとは、200マイル(320km)離れたスリナガルまで幌馬車の旅である。先を急ぐため、27キロ離れた郊外のバラカヲ(Barako;Bhara Kahu;バーラカフ;580m)にまで進み、バンガローに泊まった。夜の山並みが見えた。すこし涼しくなったので夏服から合服に着替えた。

翌23日、バラカヲを出発して標高差1400メートルのマリー(Murree;2291m)まで進んだ。カシミールに向かうメインルートの峠である。

この区間は現在、車で1時間弱だそうだ。上記の地図ではまっすぐな点線で表示しているが、当時の25万3440分の1地形図を見ると道はくねっていて、苦労がしのばれる。[6]

当時のマレー旅行ガイドブック『A handbook for travellers in India, Burma, and Ceylon』(1911年)によれば、むろん光瑤がこれをみていたとは限らないが、1911年(明治44年)の時点でラワルピンディからスリナガルまで312キロメートル、道は整っていて、所要日数3日とある。光瑤はそこを4日半かけて移動している。

マリーは英国が1851年に開拓した避暑地である。夕方、マリー市街の北にあるサンニーバンク(Sunny bank;1980m)のホテルに着くと「ストーブを焚く寒さ」だったという。食堂に西洋シャクナゲ(ローデンドロン)が飾られていた。[7]

このマリーでは「ラホールの師団司令部の無数の天幕や駱駝隊の群集」を目撃したともいう。[8]

パキスタンが独立する前のインドはこの時代、英国の統治下にあった。カシミールは「ジャンムーカシミール藩王国」といい、支配する側はヒンズー教で親英国派だったが、国民の多くはイスラム教徒だった。第1次世界大戦が勃発して3年、カシミール国境付近もまた民族対立の緊張に包まれていた。

24日は北上しながら標高を下げていく。高い峰々がそろそろ見えると期待していたが、あいにくの雨だった。午後3時、税関のあるコハラ(Kohala;600m)に着いた。ゼラム川(ジェラム川;Jhelum River)にかかる橋をわたった。この先はカシミールである。ゼラム川に沿ってずっと左岸を進む。

ゼラム川は、インダス川の支流のひとつで、カシミールの盆地を貫流して流れ下る全長725キロメートル、流域面積3万3700平方キロメートルの大河だ。長さが信濃川の約2倍、流域面積は利根川の約2倍ある。この日は濁流となっていて、光瑤は上流部の山々も雨ではないかと気をもむ。

コハラから18キロほど先のドライ(Dulai;650m)まで進んで、河畔のバンガローに泊まった。

翌25日、ドライを出ると、現在のムザファラバード付近にあたるジェラム川の屈曲部を経由したとみられるが、『印度行記』にはそれらしい記述がない。[9]

標高は少しずつ上がり、雪の峰々が雨雲の間にのぞくようになった。この日の宿泊地は、チナール(チナリ;Chinari;標高1150m)だった。夕暮れに到着すると、前方に新雪をかぶった高峰が見えた。

北東の方角に谷があり、その先に標高4388mメートルのカラパハール(Kala Pahar)あたりが見えたものと推測される。ここのバンガローの花壇は冬枯れのままだった。

26日は、交通の要衝ウリ(Uri;1350m)の村を通った。ピル・パンジャール山脈を縦断するため九十九折れの道が続く。ランプール(Rampur;1520m)を通過し、いよいよカシミール盆地の入り口にある町バラムラ(Baramulla;1588m)に入った。ここで宿泊した。

27日。この先は平坦な道だった。「5日目には美しいポプラの並木を通ってスリナガルに着いた」とある。

その美しい手彩色の写真が、2000年復刻版の表紙を飾ったことはすでに書いた。

《バラムラよりスリナガルに入る ポプラの並木》
左が全体、右は部分
Poplar tree-lined road enters Srinagar from Baramulla1917 photo-by-ISHZAKI-Koyo
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載
『印度窟院精華』「印度行記」35ページ

ラワルピンディから320キロメートル、ボンベイからだと実に2720キロメートルを8日間かけて移動したことになる。現代では、ボンベイからスリナガルまで空路でわずか2時間余りである。[10]

1917年4月23日(月)
バラカオ~59.2km~マリー泊(59.2km移動)
24日(火)
マリー~43.2km~コハラ~17.6km~ドライ泊(60.8km移動)
25日(水)
ドライ~16km~ドメル~22.4km~ガルヒ~14.4km~ハッティ~10.0km~チナール泊(62.8km移動)
26日(木)
チナール~8.4km~チャコティ~21.6km~ウリ~20.8km~ランプール~25.6km~バラムラ泊(76.4km移動)
27日(金)
バラムラ~52.8km~スリナガル(52.8km移動)
(計312km)
※区間距離は『A handbook for travelers in India, Burma, and Ceylon』(1911年)を基に推定

看過できない不注意ミス

光瑤のカシミールの旅は、時系列でみると「A=スリナガルまで」「B=マハデブ登山」「C=シェシュナグ登山」の3つに分けることができる。

『印度行記』もこの順で書かれているのだが、元になった2つの新聞連載が「Aの一部とC」「Aの一部とB」になっていて、それを再構成した際に抜き差しならない問題が生じている。

原文を忠実に引用して一例を示そう。

 ラワルピンディより、二百哩の山中、ゼラムの
激流に沿うて驅った、白の二頭立のランドウは五
日目には美しいポプラの並樹を通って首都のスリ
ナガルに着いた其朝は長い雨から霽れた暖かい爽
かな晴朗の天で、ラルマンディのハウスボートの
邊は上流に聳ゆるマハデュー峰の半腹から湧き立
ち騰る白雲が、シンドバアレイを挟む一帯の裾迄
被さった晩雪と共に白い影をゼラムの川面一ぱい
に漾わし連日の雨の底に封ぜられて居た、カシミ
ヤバアレイの水分を川一ぱいに漲らせて此白い影
を、輝く大空と透徹した碧の衣の裡に慈しむ様に
影をも乱さず親しげにゆるく流れて行く。
(『印度窟院精華』「印度行記」36ページ)

(『印度窟院精華』「印度行記」36ページ)

これを読みこなすには相当の辛抱が必要だ。修飾関係がややこしい。当時の句読点の打ち方が今とは違う。句点「。」と読点「、」を逆にすればいいわけでもなく、折り返しの句読点の省略をただ補えばいいわけでもない。文意を読み解かねばならない。

現代の表記法ならやはり「スリナガルに着いた」で句点を打つべきだろう。立山博物館2000年復刻でもそこで句点を打っている、しかし、そこで前後のつなぎが不自然になっていることにも注意を払わなければならない。「ラルマンディのハウスボート」が脈絡なく唐突にでてくるのだ。

元の新聞連載「カシミールの旅」では「着いた、」の後、次のようにつながる。

海抜五千二百尺で周囲は大抵一万二三千尺乃至一万四五千尺の白い群山に囲繞された地で、梨や林檎が妍を競うて、下にはイチハツが自然に一面濃紫の花を敷きつめて居た。名も知らぬ紅紫黄色緑の鮮かな異禽が声高く囀り翔ってゐた。此王國の万象は悉く私をうっとりさせて夢みる間に幾日かを過ごさせた。私の居たラルマンヂの|屋船[ハウスボート]からはマハデオ峰(一三一〇〇呎)とコトワル(一四二五〇呎)とが手にとる様に見えてゐたのでダル湖を横ぎってマハデオ峰へも登って見た。

「カシミールの旅」『朝日新聞』1917年8月24日

スリナガルに着いた後、場面を転換して、その場所の説明を行っている。標高5200尺(1576m)、周囲を高さ約3640から4550メートルほどの山々に囲まれた地域であって、市内のラルマンディLalmandiという地区のハウスボートに身を落ちつけたことが分かる。ラルマンディはスリナガル中心部の南部に位置し、現在も地名として残っている。

『印度行記』では「私の居た」が欠落してしまった。1年後の新聞連載「印度山国の思出」には、『印度行記』に採用しなかった次のような一節がある。

此王国の美しさに最も多く親しまれたのは大谷光瑞師であらう。そして丁度此時徒弟の山本光紹氏が、ラルマンデイにクリンシナパアパンと号する楼船を繋いで、梵語の研究に従って居られた。隣合った船の二〇八号には、日本の工科大学に留学したルイスと云ふラホール生れの男が居て、珍らしく日本語が聞けたりした。

「印度山国の思出」『朝日新聞』大正7年8月24日4面

この文章を読むことではじめて、光瑤がラルマンディのハウスボートにやって来た経緯が分かる。

『印度行記』を美文だとか格調が高いとかという評がこれまでなされているが、分かりやすさという点で高い評価はできない。2つの新聞連載を重複する部分を削除しながら半ば強引にくつけたために、大切なことが分かりにくくなっているのである。

マハデブの標高を脱落してしまったのも、第13章がなぜか突出して長い章になっているのも、編集時のうっかりミスであろう。この点に注意しながら「印度行記」を読み解いていく必要がある。

もっとも弁護もしておかなければならない。なにせ半年間にわたる旅行記を60000字(400字詰150枚)でまとめるという編集作業だ。本業として《熱国妍春》を描く傍ら、200枚以上の写真を整理し、さらに写真の手彩色の指示もしながら、文章の編集も行ったのである。光瑤の性格からしてたぶん他人任せにできなかったろう。トータルで見るならそれは感服の一言に尽きる。

なお、帰国直後の新聞連載「カシミールの旅」では、ラルマンディのハウスボートの後に、マハデブ登山について「3日目に登頂」「ヒマラヤ杉が美しい」「ハラモークが立山と白馬と対峙したように見えた」とわずか4行で済ませて、すぐにシシャナーグ登山の話に入っている。

山岳ガイドとの会話を想像

スリナガルに着いてからマハデブ登山に出発するまでは、5日間ないし6日間と推定される。その間、光瑤は何をしていたのだろうか。

《シカリー(案内人夫頭)アッサドミル》
右が全体、左上下は部分
Shikaree(guide foreman)Assad Mir1917 photo-by-ISHZAKI-Koyo
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載
『印度窟院精華』「印度行記」40ページ

おそらくシカリーShikari(山案内人)のアッサドミルと面会して、話し合ったことだろう。アッサドミルは、かつてスリナガルの北方、6000メートル以上の高山がひしめくカラコルム山脈に入ったことがありヨーロッパ流の登山の経験と知識ももっていた。[11]

帰国1年後に書かれた新聞連載「印度山國の思出」第2回の記述や、「ヒマラヤ縦談」『山岳美』(日本アルカウ会編、大正11年8月1日発行)から想像をふくらませ、英語で交わされたであろうその会話を日本語で再現してみよう。(あくまでも想像による創作です)

…………
アッサド「いや、待ってました、あなたが石崎さん?」
石崎光瑤「はい。アッサドミルさんですね。連絡をいただいて飛んで来たんですが、いやあインドは広い。7日と半日もかかってしまいました」
アッサド「よろしく。遠いボンベイからですから、そろそろかなと思っていました。日本のかたを案内するのは初めてですよ」
石崎光瑤「日本人でヒマラヤに入るのは3人目ぐらいでしょうか、登山目的は私が最初かもしれません」
アッサド「機材がいくらかあるようですが、お一人ですか」
石崎光瑤「ええ、一人です、私は画家が本業ですから、花の絵を描きたいし、写真も撮りたい」
アッサド「そうですか。カシミールで登りたい山、もう決めていらっしゃる?」
石崎光瑤「んー、難しいかもしれませんが、できればコラホイですね。17000フィートでカシミールのマッターホルンだそうですからね」
アッサド「おお、そりゃ厳しいな、今の時期は」
石崎光瑤「いちおう、私は日本のマッターホルンを登ったことがあります」
アッサド「おお、そうですか。その山、高さは?」
石崎光瑤「3180m、10000フィートとちょっとぐらいですか。雨に降られて散々な登山でしたが、ガイドとロープを結んで何とかピークを極めました」
アッサド「ほう、ロープを結ぶほどの岩山なんですね」
石崎光瑤「コラホイは氷河もあってまったく違う世界だとは分かっていますが、チャンスがあればなあと」

アッサド「チャンスがあればね……。石崎さんも高みを目指す人なんですか」
石崎光瑤「いや、自分はヨーロッパの登山家たちとは考えが違います。山頂には登りたいが、そこにこだわりません。天候がだめならあきらめるしかない。日本のマッターホルンで学びました」
アッサド「そうですか。ピーク(頂)を目指すか、パス(峠)を目指すか。パスを行く人はだいたい花や風景、自然を深く愛する人だ」
石崎光瑤「ヨーロッパの登山家たちは今、2万フィートを超える最高到達点で競い合っている。自分はそんな競争を求めてカシミールに来たんじゃない。カシミールは、人々の心のよりどころになるような山に囲まれ、宗教でもって栄えた国でしょう。そこの山に美の真髄というのを見たくて来たんですよ。わたしの生まれ育った日本のトヤマもまさにそんな土地柄です」

アッサド「よく分かりました。インドに来られてからどこかに登られたんですか?」
石崎光瑤「ええ、1月にサンダクプーに登ってカンチェンジュンガを拝みました」
アッサド「そうですか。あそこは13000フィートにすこし届かない高さだったかな。体調はどうでしたか」
石崎光瑤「ちょっと頭痛がありましたが、何とかなりました」
アッサド「いきなり17000フィートのコラホイは無茶だから、まずスリナガルから見えるマハデブに登ってみませんか。13000フィート、古くからの信仰の山ですけども、岩峰は見ごたえがあります。谷あいの雪はまだ多いですが、それでも途中いろんな花がみられる」
石崎光瑤「それはいいですね。標高差で7800フィート(約2370m)ですか」
アッサド「マハデブがうまくいったら、コラホイの近く、シシャナグはどうかと…長くみても2週間あればスリナガルまで戻れます」
石崎光瑤「旅行ガイドの地図にもシシャナグってあった、あそこですね」
アッサド「シシャナグだってけっこう高い山ですし、湖もあって眺めはいい。途中のリッダー渓谷、あそこの花の美しさをぜひ描いてもらいたい。天気が良ければ、シンド谷をぐるっと回ってスリナガルに戻りましょう」
石崎光瑤「ありがとうございます。まずマハデブに行きましょう」
アッサド「分かりました、7、8人は荷担ぎが必要でしょう、カンサマ(料理人)も」
石崎光瑤「そんなに。日本じゃ2、3人いれば十分なんだがなあ。でもこちらのやり方に従いますよ。よろしくお願いします」
…………

Neve, Ernest Frederic『A-crusader-in-Kashmir』(1928年発行)
写真説明には「マウント コラホイ」「カシミールのマッターホルン」
「初登頂の時]と記されている。
コラホイは1912年にアーネスト・ニーブらの英国チームが初登頂。
17799フィート、5425m

ボンベイを出る時点で、具体的かつ十分な登山計画が光瑤にあったとは考えにくい。地図や参考書を集めていたであろうが、当時、現代のトレッキングガイドのような適当な山岳案内書や山岳地図がなかった。

どのあたりにあるどの山に登るか、どのくらい日数がかかるか、何人ぐらいのポーターが必要か、それをどこから調達するのか。

スリナガルに着いてから光瑤はアッサドとともに検討したはずだ。アッサドは登山支援の専門家である。剱岳の登頂に導いた宇治長次郎のような存在であろう。そもそも光瑤の登山経験はどれだけあるのか。どの山なら安全に登れそうなのか。光瑤が持ってきた地図や参考書も見て、アッサドは総合的に判断したであろう。

スリナガルは東洋のヴェニスと呼ばれる水の都である。白い峰々に囲まれていて、マハデブと反対方向、西の方角には遠くピルパンジャールの山並みが見える。光瑤は「トシメタ(Toshamaidan;peak4270m)の高原」「タタクチ峰(Tatakooti Peak;4760m)」の風景が好きだと書き残している。結局、マハデブとシェシュナグへの登山を選んだのは、アッサドミルに2つの山の土地勘があったからかもしれない。

アッサドミルは、自分の村から8人のポーターを手配した。ポーターたちはやって来ると登山用のテントを空地に張って登山に備えた。[12]

スリナガルに着いて4、5日ほどたったとあるから、4月30日か5月1日ごろか。山に降った晩雪はすっかり消えた。望遠鏡でマハデュー峰をみると、雪の中にヒマラヤ杉が針のように立っている。

到着後すぐにカシミール国滞在の許可書を申請しておいたが、それがなかなか届かない。

「もういいから、この天候の変らぬうちに一つでも登ろう」

アッサドは言った。

光瑤にはアッサドが「もう獲物を嗅いだ猟犬のようにいきりたった」ように見えておかしくもあり、自身も久しく試さなかった「隻足は鳴る」のだった。

翌日、許可書は下りて来て「雛鳥の待ちあぐんだ巣立ちのように」ようやくマハデブ登山に出発となった。(つづく)

[1]この地図と参考書が現存すれば分析はもっと正確になるのだが2024年9月時点では不明である。

[2]ボンベイ出発の冒頭シーンは、『印度行記』の第13章「迦湿密羅王国」に収められている。全60000字もある「印度行記」のうち、この第13章は14000字もあり、突出して長い。第13章の次に分量があるのは第4章「エルーラ窟院」5600字、第3章「アジャンタ窟院」4500字、第5章「甲谷陀、博物場、シブプールの植物園、極楽鳥」4300字となる。

『印度行記』のカシミール部分は、2つの新聞連載「カシミールの旅」「印度山國の思出」を再構成して編まれた。再構成の概略を示すと以下のとおりである。

■新聞連載(『朝日新聞』「カシミールの旅」「印度山国の思出」)
 1-①②③④⑤⑥⑦⑧⑨ 2-①②③④⑤⑥
■「印度行記」『印度窟院精華』
 1-追記①②③④ 2-①の一部②③④⑤⑥追記 1-⑤⑥追記⑦⑧追記⑨追記1-⑤の一部⑩⑪⑫

「印度行記」の第13章冒頭は竹内栖鳳と花に関する記述を加筆してあり、これは「印度の自然美」『芸術』1巻1号(大正7年11月)からとったものである。

[3]「南を描ける人々」『国画』3巻3号(1943年3月)。戦前渡印した画家たちをまとめた文章。

[4]パンジャブメールの詳細は2024年時点では未調査だが、デリー・ラポールを経由したものとみられる。下記は1911年の地図にある路線。

『A handbook for travellers in India, Burma, and Ceylon』(1911年発行)の地図に加筆
耕作が行われていない灼熱の大地を列車は進んだとみられる

[5]石崎光瑤「迦湿密羅の並木」『新亜細亜』(1939年11月)には、「郊外のバンガローに泊まった夜は、はや、低いながらも近くの山気に、冬の外套を着る冷涼さであった。ここからカシミールの首都スリナガルまで雇い切りの馬車で四日間、暢然と、ゼラム川に沿うて峡中の旅を重ねる」とあり、幌馬車はいわゆるチャーターしたものと分かる。

[6]当時の地図は、テキサス大学図書館の地図コレクションが参考になる。以下は1915年発行の地図。https://maps.lib.utexas.edu/maps/topo/india_253k/txu-pclmaps-oclc-181831961-rawalpindi-43-g-1915.jpg

赤い太線がラワルピンディからマレーの道
下図は米テキサス大学図書館蔵

現代の地図では、マリーまで2本ルートがあるが、1911年の旅行ガイドに従えば、西側の道のTretを経由したものと見られる。

[7]「ヒラマヤに於る種々の珍花」『日本農業雑誌』15巻3号(大正8年3月)にも触れられている。

[8]「印度山国の思出」『朝日新聞』大正8年8月23日4面

[9]ムザファラバードは2005年10月に発生したパキスタン大地震の被災地である。

[10]4月27日スリナガル着と推定する根拠は、「印度行記」に「四日五日と経るままに」滯在許可書が届かず、翌日それが届いて5月2日にマハデュムへ出発とあることによる。四日五日があいまいだが、翌日が5月1日なのか2日なのかもあいまいである。
 『インドに魅せられた日本画家』(2004年・福光美術館編)69ページにある「4月24日にカシミールへ着きました」という家族宛の葉書の記述(差出は約1か月後の5月27日)とは3日のズレが生じている。これは、カシミール藩王国に着いた時点はコハラの税関を越えてドライに着いた時点と解釈するとスリナガル着は27日ということになる。日程の問題は、新しい資料が出てこれば修正の必要も出てくるかもしれない。

[11]『印度行記』47ページ。

[12]シカリーのアッサドミルがどこの村の人なのかは関心があるところでだ。アルーAru村は一つの候補地である。

(2024年9月22日追記)

いいなと思ったら応援しよう!