「六根清浄」(立山登山の栞、1908年)
※『富山日報』明治41年7月23日~28日3面 6回連載
六根清浄(一)
(立山登山の栞)
▲立山の山開き は愈々来二十五日である今朝県庁から中野警察部長一行が雄山神社奉幣使として出発した筈だ、これから随分登山者が来る事だろう、アノ青田の彼方から『雄山神社』の赤い吹流しを押し樹てゝ通る処は亦越中の一名物といはねばならぬ今では登山者が
▲白帷子よりシャツ や背広を着た連中が多くなった、随って登山の目的も権現様に参詣する事さへ出来れば願が叶って一人前の男に成れるなど思って帰る人よりは、却って恐ろしい地獄谷で鬼でも生捕りにして来やうといふ手合ひが多くなり、随って権現様の有難味を損するやうに、又立山の霊区を俗化させるやうになる傾きのあるのは誠に嘆ずべきだ
▲昔の立山参詣 となると随分賑やかなものであった、殊に立山の麓近い村々から立山参詣が出たとすると、それはそれは出征軍人の凱旋以上の騒ぎ、僕等も子供の時分は随分上瀧、岩峅あたり迄迎へに往ったことがあるが、相応の農家の忰などとなると、先づ御馬に乗ってかへる訳だ、例の赤い押掛で飾り立て、鈴をチャンチャン鳴らした馬に跨がって『立山権現』の赤旗を、宛然敵の首を槍玉に挙げたかの如く翳し立てて行くすると其の後から六親眷族を初め数百の歓迎人が長柄樽の酒や御馳走の入った長籠などを搬ばして、長い長い行列を造る、而してその中の白い手拭を頬冠りの音頭取りが金切り声を張り上げて、
『目出度ア目出度アの若松様よう
枝もさかえる葉も茂げる』
などゝ俗に木遣節といふ奴を唄って練り行くといふ仕末だ、其れは随分盛んなものであった、兎に角立山参詣の祝ひは又
▲一人前の男になった祝 所謂昔の元服祝ひと同じ事をされて居たものと見える、又十里二十里隔った砺波地方でも勿論権現様の有難さには変り無かったものと見え、先達も東砺波のある故老の話には、其の人が立山参詣を思ひ立ってからは五年の間、立山の方を向いて野小便をしなかったとて懺悔して居た(冷光)
六根清浄(二)
(立山登山の栞)
▲立山参詣の準備 となると、先づ褌から始まって、シャツ、股引、脚袢、呉蓙、笠に至るまで衣類悉く新調のものを用い、次ぎに携帯品としては即ち握飯二日分ばかりに飯米数升、沢庵に干鱈に鯣に味噌に提灯に寶丹に草鞋五六足、其れに室堂で着て寝る綿入が一枚、尚ほ一ツ欠かしてはならぬものが煎粉(いこともいふ)である、煎粉は是非二三升拵えて持って行くべし生杖は比較的造作がなくて青竹の三四尺計りので宜しい以上は即ち今日迄の立山参詣者一通りの登山準備である、而し所謂背広を着た登山者となると
▲大に追加を要す るのだ、第一に杖は青竹では有難くない、殊に数年前から室堂では『立山頂上』の焼印を押して呉れるから、矢張り昔山法師がついた六角の金剛杖、六根清浄などと墨黒々と記して大いに山法師がかり行者振ることである成程其れは悪くはない、だが其の六根清浄で以て地獄谷の団子屋地獄を掻き回したり、途中で地蔵様を引覆したりされるから閉口するのだ、其れから歯磨粉、楊枝、石鹸、ナイフ、筆紙、塵紙、水筒、時計、双眼鏡、磁石、地図、綱、缶詰、果物、砂糖、ブランデー及びチック、香水の如き、有っても困らず無くても済む品物が沢山現はれるのだ、殊に雄山神社社務所にも昨年から粋を利かして登山紀念のスタンプを捺して居るから好事家は絵葉書を沢山持って往ったが宜からう、さて大概の準備は出来たら愈々道案内であるが、先づ都合上其の
▲振り出しを上瀧町 とする、富山市の東南三里二十七町を距てたる山駅にて人口は二千余あり、此町より芦峅寺迄三里、温泉道は原村迄四里、何れも車馬を通ずべし、などゝ案内記の暗誦をする訳ではないが、富山から立山道の町のお終へは此処で亦初めて山に接するのも此処である昔行基菩薩が大岩の不動を彫らぬ前の晩にこの地で矢張り不動明王を彫りかゝると生憎にも夜が明けさうになったので愚図々々して居て俗人に見付かっては大変と直ちに大岩まで飛んだ所だと口碑されて居る、而し其の彫りかけの不動は今はないが其の代りに赤土の崖に刻み込んだ丈余の明王が安置されて其傍に三條の筧瀑が垂れて居る、時雨のやうな蜩の声を聞き乍ら汗臭い体を銀泉の如きに打たして御覧なさい、もう二根や三根は忽ちに清浄されて仕舞ふから(冷光)
六根清浄(三)
(立山登山の栞)
▲上瀧で最も不便 に感ずるのは郵便局以上の通信機関が設けられていない事である、これは誠に遺憾な訳で富士山には絶頂迄電話線が通じて居るのに我が立山は例へ登山者が彼の山の十が一ばかりであったにせよ上瀧迄下りて来て漸く郵便局しかないといふことは甚だ心細い話である、記者が昨年登山した際に、別山の大走り小走りといふ懸崖で一人の学生が走り損なって、遂に数十間蜻蛉返りをやって気絶するに至った、すると其際直ちに家族へ案内せんとて仲語を下界に使はし、雷様のお手を煩はさうとすると、仲語が空嘯いて『お前さん電信たア何んのこったい、上瀧の那様ものがあるものか』といった仕末、実に困りきったことがある、其れで今更室堂に電信局を設置しやう、弥陀ケ原にホテルを、などいふのでない……否寧ろ立山の神聖を保たせやう富士の如くに俗化さすまいとする上から云へは、立山山彙内には仲語以外に如何なる通信機関も謝絶致すべきであるが……兎に角山開き中丈でも宜しいから上瀧町には電信電話の何れかの設備を亦芦峅寺と立山温泉とに郵便局の設置を其筋へ要求する訳である、そこで立山で電信ともなり、郵便ともなり、案内者とも荷担ぎともなる処の
▲仲語に就て お話せねばならぬ、昔は立山参詣にはお『仲語様』といふと参詣者の一命を預って地獄見物までさせたものだから其れは其れは随分威勢のあったものだ、僕等も小さい時分はおちゅうごさまとは束帯をした中納言様のやうな者位に思ったことがある、それでこのお仲語は立山を充分に跋渉せんとするものには是非雇はねばならぬ、雄山神社社務所では仲語の規約を設けて、芦峅寺に八十名岩峅と宮地とに四十名上瀧町に三十名都合百五十名に鑑札を渡してあるので、雇賃は二日間(内一日は食料付)で八十五銭と極め且つ一人の負担量は四貫と制限してある、而し強い奴になると八九貫迄は平気だから掛引き次第で何とでもなる訳だ、近頃学生で仲語の世話にならず登山する連中があるさうだが弥陀ケ原へ出る迄には随分樵夫路に迷い易い路だから嚢中の容す限りは事更に探検がるものではない、寧ろ老魁なお爺位を雇って路々在若左衛門から伝りの珍妙不可思議な物語を聞きつゝ登るのも亦愉快といふべしだ、最も仲語の鑑札を持たぬ人夫を雇ふ時は室堂でも温泉でも飛んでもない継子使ひをするさうだから仲語を雇ふには鑑札に注意すべし(冷光)
六根清浄(四)
(立山登山の栞)
▲上瀧から登山路 が二つに岐れて居る、立山開基有頼公の草分け道、即ち本登山路ともいふべき道順は、先づ常願寺川三百間の釣橋を渡り、老杉神さびたる岩峅寺で頼朝公の造営した岩峅の宮(前立社壇)等を見物して其れから漸次爪先き上りに村や、崖や、雑木林や、桑園やを三里歩けば芦峅寺村である、この村から室堂まで人家なき事八里なれば大抵のものは一泊する処である、戸数百五十戸、有頼自彫の木像を始め、例の頼朝先生の贈物など随分みなくばならぬものがある、さて此処は
▲海抜千二百五十尺 の高原であるから、もう雲とお近親になった心地がして其の、雲や霧が登山者をだまして時々雲の中に封じ込めて了ふ事などあるが、其れは何にも案じることが要らない、而しそれでも空が案じられたなら野良帰へりのお爺に質して見る事だ、『天寶げな、降る事はないぞ、七つ時から北風が山に入ったから明日も明後日も大丈夫、而しこれが夕方から山がベカベカ光るとダチかねど(駄目なり)』など答へるに違ひない、さて愈々降らぬ翌朝の霧の山路を辿り始めると芦峅を四時に出発すると藤橋位で夜が明ける都合、其れからが
▲本当の立山道 となるのである、登山者は十歩に一所、百歩に二所と相次いで現れ来る怪樹奇岩を悉く仲語が捕へて如何にも誇大な説明をするのを聞くでせう、其のいふ所珍妙奇天烈な事ばかり、元より荒誕無稽、牽強附会も甚だしいもので、迚も真面目な顔で聞けぬ話が多いのであるが、而し其れを直ちに『莫迦らしい』と一笑に附し去る登山者が居れば間違って居る、大いに玩味して見なければならぬ、この珍妙不可思議の口碑が、古来我が中越の人間に何程の感化を与えて居るか知れないではないか、立山の俗謡と言ひは甚だ稀であるが、タッタ一つ盆踊り唄に『東は立山の地獄谷、西は西方浄土の阿弥陀如来』云々といふのがあった筈だ、是等を見ても如何に立山が古から
▲中越の迷府 となって居たかは想像さるゝ処ではないか、話が坂に掛って随分小六ツケ敷なって来たが一里目の熊王権現で水売り爺に一杯一銭の水を飲み、二里目の山毛欅平の女茶屋で煮〆位で握り飯を食べ、尚ほ一里奮発すると早や弥陀ケ原の高原となる、如何です、其の楽園宛らなる高山植物の美観は(冷光)
六根清浄(五)
(立山登山の栞)
▲高山植物の美 は近来漸く持て囃され婦人の指輪の模様に迄用ゐらるゝこととなった而し其実際の花葉を見ずして唯其の形状を画位で見る下界の人には決して高山植物の美を語ることが出来ないのだ、其れといふのは其の根より吸ひ葉より取る営養分の資本が下界の花と違ふからである、神代其の儘の土、神代ながらの空気は其の茎葉の緑に其の花の紅、黄、紫に悉く一種の霊気を備へて居るのではあるまいか、其れが雪より雪の僅か二三月の間に一時に発芽し、一時に花をつけ一時に実を結ぶのであるから殆ど其の色彩に濁り気は見ることが出来ぬのも無理はない、立山へ登山するものは弥陀ケ原から上は到る処にこの花の美に迎へらるゝのだ、記者が好く持ち出す句であるが杉風の『名は知らねど草毎に花あはれなり』の句は弥陀ケ原のやうな処を詠んだのに違ひないと思ふ、最も立山は全国中の諸高山に比較すると決して植物の種類に於て
▲豊富とは言ひ得ぬ さうだが而し富士山の赤土勝ちなものとはそれこそ雲泥の差で迚も比べ物にならぬのである、其処で左様な花畳を敷いたやうな弥陀ケ原の楽園には決してイデンの園の魔物の如き動物を発見することが出来ぬのである、最も蝦蟇といふ愛嬌物が路へ飛び出して登山者の玩具になるのは承知して貰ひたい弥陀ケ原の中央の
▲追分で路が三つ に岐れる、中央路を取ると姥懐といふ熊笹の茂みを綴る道で比較的容易き一里を鏡石の前へ出ることが出来るが、『幽渓』といふ文字や『断崖』といふ文字を実際に知り、且つ立山の雪の味を早く試みたき人は是非左りの路を進みなさい、即ち二の谷、一の谷を渡り、獅子ケ鼻に攀ぢて一里を余計に回ったら前記の鏡石の前へチョロリと出ることが出来るのだ、これから後室堂迄一里の路は極く容易であるから案内は要せぬ、但し其の緩慢なる傾斜をなした大きな渓間其の所々に渡るべき大きな雪田、其の隙々を散らし模様の高山花、殊に忽如、濛々の霧は登山者を一呑みにして渾沌の創世期を忍ばしてくれるなどに至っては到底六根清浄の記者の説明し得る限りではないのである(冷光)
六根清浄(六)
(立山登山の栞)
▲次ぎは温泉道 の案内であるがこれは本登山路に比べると甚だ雑作がない、其の代り奇勝、絶景に接することも亦例の神秘的の物語を聞くことも甚だ稀である、即ち上瀧町から大山村の字原村といふ所まで四里ばかりは村に付いて行き、其れから常願寺川の上流湯川に絶えず沿ふて遡るのであるが此道は近年開けたもので随分宜しい(殊に本年大改修をやって居る筈)それを三里計り登ると右手から真川といふ川が流れ出て釣橋が架って居る、其の橋を渡ると道が二つに岐れる、左を取れば湯川の磧伝への新道一里にして温泉に達することが出来る、但し降雨の際は河水が氾濫し且つ崖が崩れ易くて少々危険なことがあるさうだ、亦右手を取れば九十九曲りといふて少々嶮しい阪に掛る、温泉迄は新道より半里ばかり遠いさうだが其れ丈安全で且つ展望の愉快な処もある
▲立山温泉 は一名多枝原温泉ともいふて湯川の右岸の岩の裂目から湧き出す硫質泉其の効能は今更述べずもがな、浴室客舎は左岸にあって従来は随分木賃式のものだったさうなが両三年前より綺麗な浴室も立派な客舎も出来たから雑踏をしない限りは一通りの我が儘は出来る、さて温泉を出て二町あまり登ると愈々
▲有名な松尾阪 である、赤土の崩れ易さうな懸崖に掛る羊腸路で、一里半余の間腰を下して憩ふべきゆとりさへ無い位であるこの阪を登り尽して亦十数町の石径を下った処は弥陀ケ原の追分で、昨紙に記した本登山路に合することが出来る、斯くて鏡石を通り二里にして室堂に達するのであるが其の後の立山、別山、浄土山の三山をかける説明は雄山神社社務所の縄張りであるから此処に改めて述べまいが、唯登山諸君の御参考として二三摘記すれば、第一我が立山は日本全国の山々は勿論欧州大陸の最高山と雖ども真似る事の出来ない程の偉大な展望を有して居ることを誇らねばならぬ、実に其れは南台湾の端から北は樺太島の尻尾迄ともいひたい位に夥多なる山々を眺望し得ることが出来るのは新高とても富士山とても百歩も千歩も立山に譲らなくばならぬのである、而しこれ位偉い立山を持って居る越中に何うして立山程の偉い人が出ぬかは識者も不思議にして居る処だ、オット話は亦外れたが、次ぎは
▲立山の御来迎様 昔善人が登山せば小山大明神の告げよって浄土山に至り一光三尊の阿弥陀如来を拝む、其れを御来迎様といふと記録に見えるが今の御来迎様には其の如来を拝む者が絶えてない、而し絶頂から水平線下の日の出の美観に接する者あらば其れこそ御来迎様以上の幸福を得るのである、先づはこれにて六根清浄の筆を擱く(冷光)
◇
【解説】
「六根清浄(立山登山の栞)」は、明治41年7月23日から28日までの『富山日報』3面に6回連載された記事である。著者の大井冷光は、これとは別に、7月10日に初の著作である『立山案内』(清明堂書店発行)を上梓している。いずれも7月23日からの立山登山シーズンを意識して、前年夏に初めて立山に登った経験をもとに書かれたものである。
六根清浄は「ろっこんしょうじょう」と読み、仏教用語である。昔は立山登山のときに口々に唱えられたという。冷光が明治40年7月30日、高岡新報社立山登山隊の一員として登頂するさい、室堂から一の越に上がる途中の懺悔坂で「六根清浄六根清浄」と掛け声が始まったと「御来迎様」という文章に綴っている。六根とは、私欲や煩悩、迷いを引き起こす目・耳・鼻・舌・身・意の6つの器官を意味し、六根清浄を唱えることで邪念を清めることができるという。現代の日常生活で使う「どっこいしょ」という掛け声はこの言葉が語源だという説がある。
冷光は『立山案内』の中にも「登山案内」という同じ内容の記事を書いたが、これはいかにもお堅い文章で遊びがなくつまらない。地名を順を追って紹介していくあたりは、先行書の浅地倫『立山権現』(明治36年、中田書店発行)を強く意識していたようであり、独創性がほとんど感じられない。これに対して「六根清浄(立山登山の栞)」は、主題を「六根清浄」、副題を「立山登山の栞」とつけたあたりに、著述家としてのセンスを感じさせる。中身はやや短いが生き生きとした筆致でユーモアにあふれ、冷光の面目躍如たるものがある。明治後期の立山参詣を知ることができる貴重な記録としても注目される。『立山案内』はこれまで富山県立図書館の貴重書として評価されてきたが、この「六根清浄(立山登山の栞)」は知られざる「もうひとつの『立山案内』」ともいえよう。
【参考】
※白帷子 しろかたびら
※宛然 さながら
※六親眷族 そくしんけんぞく
※鯣 するめ
※煎粉 いりこ
※宛ら さながら
※忽如 たちまち
※迚も とても