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『山岳』剱岳測量史関連記事

『剱岳・点の記』に関して、参考になる雑誌『山岳』の記事を集めました。吉田孫四郎の文章については別途評しましたが、剱岳頂上に岩窟があったする記述などは注目です。

「劍ヶ峰の最初登山者」『山岳』第3年第3号(明治41年)

劍ヶ峰の最初登山者

越中の劍ヶ峯は、昔しから登ることの出來ない山としてある、余は昨年密々に此山に攀躋を試みやうと、野心を起してゐたが、病氣で中止した、去年の越中の新聞に、陸地測量部の役員が登攀せられたことが載せてあつて、余等同人は山岳會で先鞭を着けぬのを、非常に遺憾に思った、然るに一昨年(三十九年)十月刊行の『風俗畫報』第三百五十號に據ると、一昨年九月に佐伯某が探険してゐる、余等同人は、今年五月の山岳會第一大會紀念繪端書の解説に、千古神秘の劍ケ岳などゝ記して、東京の眞中で発行した雑誌の記事を、一年八ヶ月餘も知らないでゐたのは、誠に汗顔の次第である、左に全文を掲げて参考に供する。(式)

○越中劍山の探険    瓦山人

越中の劍山は立山と並立して、而も刀鋒の如き奇岩を以て組み立てたる如く、いかに苦心するとも之を登攀する方便なく、住古より其絶頂を極めたる者無き事は、世人の皆知る所なり、然るに上新川郡蘆峅寺村の佐伯某と稱するは、先年來鑛山事業に従事し専ら其鑛脈を探險の爲め、越中の諸山を蹴渉するものなるが、今度(本年九月)同村志村徳助(二十二)なる者を倶して、鑛物を探り遂に大日ヶ嶽の絶頂に登れり、(是も立山に等しき高山なり)此處より劍山を望み視るに、数層の巉岩累々として、其さかしさ言ん方なし、されど此山いかに嶮なりとも、又人間の登り得ざる事よもあるまじと、好奇心勃々として起り自ら禁ずる能はず、やがて志村にも其旨語りければ是も亦同じ志し在て、共々に其登山口を百方調査しけるに、此の山の裏毛手勝谷の東北面に當る所、案外にも傾斜の緩なる所を認めける故、兩人勇を皷して此所より登り行くほどに、傾斜やゝ緩なりと思ひしは比較的の言に過ずして、進む事暫時忽ちに塹岩掌を立てしに似たる所に出たり、尋常の岩石なりせば到底登攀するに由なしと雖ども、断岸一面に高さ尺餘のハイ松の鬱茂せるを幸ひ、之を天然の梯子に代へ、辛うじて此難所を登り盡せば、約半里の傾斜地あり、之を過れば頂上に出づ、絶頂は平坦なる所なきにあらねど、奇岩大小となく此所彼處に屹立してあり、先づ携ふる所の握り飯を喫して、暫く疲勞を休めたるが、鑛物は銀鉛銅の類多く、鐵の如きは全山殆ど一帶をなせる位にて、實に劍岳は鑛物豊富の山なるを認めたり、里數は毛勝谷より絶頂まで約三里半、いかに健脚と雖ども辛うじて登山に一日、下出又一日を要す、登降とも猿猴の所爲を擬する事なれば、食糧は腰にするの外、一物をも携ふる事能はず、此劍山の麓に一大洞穴あり、我等は此洞穴に四日の宿泊を爲したるが、是より更に黒部谷に向はんと思ふなりと語り、さて此冐險談を聞し人々、兩氏の壮行を稱讃し、斯る深山を徒渉するに毒蛇悪獣の難ある事あらん、之を防ぐにいかなる武器を所持せらる乎と尋ねけるに、我等は固より武器を所持せず尤も斯る高山の深林などには、彼等の食すべき木の實もすべての動物も、甚だ稀なるゆゑ、其食すべき物なければ、又彼等も栖せず、偶々熊などを見る事あれども、予等が姿たを見れば、忽ち影を隠くして再度出づる事なし、依て斯る煩はしき物は所持するの要なきなりと答へしとぞ。

【編注】『山岳』第3年第3号(明治41年10月25日発行)。「瓦山人」は寺野守水老(宗教1836-1907)の筆名とされている。その場合、大正3年8月の同誌に出ている「伏木名勝」の「瓦山人」は誰であるかなど不明な点がある。

小島烏水「越中劍岳先登記」『山岳』第3年第3号(明治41年)

越中劍岳先登記

越中の劍岳は、古來全く人跡未到の劍山として信ぜられ、今や足跡殆んど遍かられんとする日本アルプスにも、この山ばかりは、何人も手を著け得ざるものとして(事實然らざりしは前項を見るべし)愛山家の間に功名の目標となれるが如き感ありしに、會員田部隆次氏は、『劍山登攀冒険談』なる、昨四十年七月末『富山日報』に出てたる切抜を郵送せられ、且つ『先日山岳會第一大會に列席して諸先輩の講演、殊に志村氏の日本アルプスの話など、承はり、頗る面白く感動仕候、その中に、劍山登り不可能の話有之候に就きて、思ひ出し候間、御参考迄に別紙切抜き送り候、……猶小生の其後、富山縣廰の社寺課長より聞く所に據れば、蘆峅寺にては、劍山の道案内を知れる者有之候へ共秘傳として、漫に人に傳へず、極めて高價の案内料を貪りて、稀に道案内をなせしことあるのみなりしが、今回の事にて、全く其株を奪はれたる事になりしとか申候、此記事が動機となりて、今年より多くの登山者を出すを得ば、幸之に過ぎずと存候、と言へる書翰を附して編輯者まで送付せられたり、(其後辻本満丸氏も、この記事の謄寫を、他より獲て送付せられたり)聞く所によれば、『富山日報』のみならず、同縣下の新聞にも大概出でたる由にて、劍岳を劍山と、新聞屋の無法書きは、白峯を白根、八ヶ岳を八ヶ峯などゝいふ筆法と同じく、可笑しく感ぜらるれど、ともかくも登山史上特筆する價値あれば、左に全文を掲ぐ(K、K、)

以下略

【編注】『山岳』第3年第3号(明治41年10月25日発行)。筆者のK、K、は小島烏水。『富山日報』の当該記事は明治40年8月5日3面と6日3面が正しい。『劍山登攀冒険談』は誤りで、『劍山攀登冒険譚』が正しい。富山県庁の社寺課長は石坂豊一(1874-1970)であるが、明治42年夏に知事代理で雄山神社奉幣使を務め、仲語(山案内人)批判をした人物である。「『富山日報』のみならず富山県内の他の新聞にも大概出た」という点が最も注目されるが、2016年現在、『富山日報』以外に剱岳測量登山について詳述した記事は見つかっていない。劍岳を劍山と書いたのは新聞屋の無法書きであるというのは、逆に無知をさらけような記述である。富山県内では当時公文書などでも「劍山」がよく使用されていた。

辻本満丸「越中劍嶽先登者に就て」『山岳』第4年第2号(明治42年)

越中劍嶽先登者に就て

今歳三月下旬、余は某友人の紹介に依り、彼の越中劍嶽先登者として有名なる、陸地測量部測量官柴崎芳太郎氏と會見し氏の登山談を拝聴せり、登山に關する事項は「山岳」 第三年第三號所載のものと大差なき故、今之を再記する必要なし、只だ一言記し置くべきは同氏が明治三十九年に於ける佐伯某なるものゝ登山(前記「山岳」参照)を否認し居らるゝことなり、其理由とする處を聞くに凡そ左の如し。

(一)柴崎氏は、右佐伯某と、立山温泉に於て會談したるが、某は劍嶽山上に關する知識を缺く。

(二)柴崎氏の経験に依れば、大日嶽方面より登攀することは、到底不可能なり。

(三)佐伯基が實際山頂に達せしとすれば、必ず彼の錫校の杖の頭と、槍の身とを發見すべかりしに、然らざるは如何。何。

山頂の遺物よりして論ずる時は、柴崎氏若くは佐伯某の登山は眞の先登山(First ascent)に非ず、然れども記録ありてより以来、最初の登山なれば正否を決定すべき價値は充分あるべし、余は柴崎氏の論點に就き、批評を加ふべき能力を有せざる故、單に之を讀者に紹介するに止めむ。(辻本)

【編注】『山岳』第4年第2号(明治42年6月)。

吉田孫四郎「越中劔岳」『山岳』第5年第1号(明治43年)

越中劔岳   吉田孫四郎

同行者 石崎光瑤 河合良成 野村義重

一 豪壯なる山岳

中央日本の大連嶺が、南、駿甲の界に起りて、信飛境上九宵を長驅する六十里、北、日本海の巨濤を瞰下する所、絶塞の龍城をなすか、山勢餘りて峨々天空を衝き、朔風そが巓頂の尖巖を軋り、幽澗窮谷に四時不滅の雪深し、あゝ偉なる哉、北方の峻嶺。

これを越中の平野に立ちて仰ぐ時、誰か畏敬の感に撃たれぬ者があらう、鍬崎山は最右翼に近く臥し、龍王、浄土、さては立山本峰、皆臺場の如き形の同じ扮装に打ち重り、大日岳は其寄手を固め、之につゞくは大汝、富士の折立、尚左すれば別山の居顔が遠き眺めは殊に神々しい、白馬岳はあれぞと、萬重の奥に遠く望む手前に當り、別山を右側に控へしめ、英風颯爽たる、それよ劔嶽が、あたりの群雄を壓して、威丈高にそそりたつて居る、危巓鋭く嵩く、右肩には横腹に迄達する一大雪溪が見える―早月川の、みなもと―、あはれ陣頭の戦士が、馳突奮闘の功を飾るもいたはしや、深き傷痍を包む白布とも見るからに、殺氣立てり、劔ヶ嶽―劔ヶ嶽…眞に魔神の太阿か、雪鋒の光芒爛々、霜鍔の清輝皎々―何人の敏感を竢つて創めて、かく呼びなさん。

遮莫、劔嶽の威力は近く居寄り、其紫電の氣圏に入るに及んで、愈々痛激なり、白馬嶽頂上より西南を、針木嶽絶根より西北を、若くは立山嶺上別山山巓より正北を看よ、劔嶽の山容、如何に魅偉に、如何に非凡に、如何に威壓的に、如何に向上的なるか、峰頭は巉々然こして虚空に閃めいて居る、四面より之を築き上ぐる峭壁は、殆んど皆同一の鋭角をなし、轟々平として突つ立て居る、巨大なる疊岩は、肩衝き合はれて、犇々を上に向つて、昇天の氣勢を示して居る、絶大の垂直線美は、烈しき尖痛を感ぜしめる、煌々する大雲谿は、黒部川の幽谷より踊り出でゝ、蒼穹に迸つて居る、若し活動する大自然が…金色の光をばゆき旭日…紅燃ゆる夕日…澄める月…寄せては渦巻き返す暗雲…神技を盡して五彩七色に、明暗の妙を恣にして、山の膚を鏤めたる時、蓋し壯美の極に達したるものであらう、怪奇絶持の風貌、姿態、海内峻嶺の雄、其右に出づるものあらうか、寔に崇高嶮巖犯すべからざるは劔嶽なり、古來不可侵の霊境をせられたるも宜べなれや。

二 積年の宿望

世に冐險の聲を誇るものあり、探險の名を衒ふものあり、マッターホーンの絶頂へ、嬰兒を籠に入れて引き上げしと云ふが如きに到つては、無暗に虚榮心に驅られたるもの、餘り同意すべき心情とは思はれぬ、然れども植物學の薀蓄あり、地質學の素養ありて、始めて山岳跋渉が意味あり目的ありと云ふを得べきか、是等の學識なき汝等は、何の志圖あつて登山するやと問ふ人あらば、余は答へむとす、これ尊ぶべき趣味、たゞ衷心の要求に出づるのみと、其結果としては、或は品性の陶冶ともならう、心膽の鍛練どもならう、要は華美軽薄な紅塵の巷を去つて、崇高神厳な大自然の懐に入るにあり。

されば威風堂々たる劔嶽の容姿を、遠きより、近きより、森の蔭より、雲の隙より、または野にありて、山にありて幾度も、幾度も、御ぎ見、伏し拝みたるうちに、吾等が眞摯なる畏敬の念は、崇拝の至情となり、行つて其洞裏をうかゞはんとの希望を抱くに至つた、加之、青年の血氣の若々しや、人跡絶えたる神域と聞きては、勃然たる好奇心も胸裡に燃えて來た、かくては脳中にたゞ劔嶽てふ總括的の観念あるのみ、恐怖する餘地も、戰慄する間隙も見出し得ない、只劔嶽の絶巓きはめざるべからずとの決心は余に實行を促して止まない、茲に途に今夏を期し同志四人愈々大望の決行に従事したる次第なり。

他人はいざ知らず、余等に執りては、これ積年の大宿望である、されど森厳なる此峻嶺は今尚有史以前の神秘状態にあるのであつた、これ劔嶽登攀の價値趣味の最大なる由因ならんが、また困難危險の最大なる原因である、茲に稍依頼すべき唯一の記録は「山岳」第三年第二號所載の「劔嶽先登記」である、即ち参謀本部陸地測量部員が去る四十年夏、非常なる危難を冒し、職務に殉するの覺悟を以て登攀して、遂に目的を果し、尚ほ幾世の昔何人の所持に属したるものとも知られざる、鎗身一片と錫杖の頭部とを、頂上に於て發見したりとの談片の概要である、されど筆記者の不熟練なりし爲めか、此記事を仔細に熟讀するに随ひ、多くの疑問生じ來りて、只一縷の望みは之に掲げられたる、功勞ある古の人夫一名なりとも、傭ひ得ばやと云にが繋れた、登山準備の主力は先づ此方面に向けらる。

三 立山温泉―人夫の選定

越中國上新川郡小見郵便局管轄區内立山温泉場は、所謂北日本アルプス跋渉の一根據地、振り出し地なり、劔嶽に到るにも此處を以て立脚點とすべし、(此地及び立山に闘しては「山岳第二年第三號、大平氏の「越中立山の偉観」に詳細なり)富山市より上瀧町迄三里半は、人車を通じ、其より三里半、原村に至りて、人家盡き、尚五里の山路を登りて、温泉に着すべし、海抜已に四千二百尺を出づ、温泉場は年を追ふて改良せられ、昨年よりは巡査の駐在するあり、郵便物は毎日一回集配せらる、宿料は一泊中等六十銭、通り一遍の登山客を、待つにも決して冷淡ならず、登山食糧品は大抵の需要に應じ得る、余等の今回、此地にて購求したるは、牛魚肉鑵詰、白米、味噌、梅干、漬物、鹽鮪、砂糖、鹽(一行七名三日分)にて、尚山中暴風雨等の障害により、到底焚火を得る能はざる時の、應急食糧として、軍用パン一立方尺、麥熬粉二升、鰹節四本とを、豫め携帯し行けり。

さて幾度かの蹉跌を経て、選びたる人夫は、左の三名なり、

富山縣上新川郡大山村字和田村 宇治長次郎(三九)
同   大山村字宮地村  立村常次郎(三四)
同  中新川郡岩峅村 佐々木淺次郎(三八)

淺次郎は岩峅寺、山口作之助氏等の推擧により、常次郎を共に各々其住宅より、伴ひ來り長次郎は温泉にて、常願寺川砂防工事に従事し居たるを特に傭ひ入れたり、渠こそ、陸地測量部員に随ひて、劔嶽先登の功を擔ひし剛の者、此一行の指揮者ともなり、保護者ともなり、忠實に勤め呉れたり、渠に邂逅するに到つた苦心は一通りならぬものであつたが、餘りに冗長に亘るを以て、是を略す、賃銀は食料を除き、渠には一日一圓、他二名には九十銭と契約す、當地方に於ては廉價なる方にあらず。

松尾坂―彌陀原野

明治四十二年七月二十二日午前七時、大鳶山の赭顔、曙光を迎へて、いやが上に紅色なせる頃、河合野村二兄と、余と、三名の人夫は相前後して温泉場を出發す、石崎兄は已に立山山上に在るなり、湯川に架せる釣橋を打ち過ぐれば、間もなく松尾坂(或は待雄坂とも記す)に掛る、逶迤曲折を極めつつも甚だ急斜にして頗る長き此坂路は、所謂立山参詣者流にとりては、一大難嶮であつて、白根葵や、其他艶麗な植物の路傍に咲き誇つて居るが彼等の一瞥をも受けない、懸涯に差し出でた、闊葉樹の隙間よりは、秀麗なる薬師ケ岳が、髯鬟を白く青く装ふて、見えつ隠れつする。

坂を登りつめて、少しく下れば、闊然として坦々たる彌陀原野が展開して來る、鷲羽嶽附近にあるてふ雲の平は知らねども、海抜六千五百尺上、崎嶇嶕〓の間に介在して、獨り渺々たる曠野をなす、その温乎として、圓満に、悠々迫らざる所、自然の襟度尤も大なるものか、此意味に於て高嶺の裾野は、世人の愛着にあづかつて居るが、數少き、大高原は、殊に敬愛すべきものではないか、廣袤數千町歩、見渡す限り、青々たる草原…丈低き笹…柔き芝生…數多の澤には清冽な水が瀦められ、紫や、白や、黄の優しき草花が影を映して居る、只所々の窪地には、矮少なる栂、白檜、唐檜、這松等が薄い日光を受けて、淋しげに寒風に嘯いて居る、宛として寒帯の景致、併し日照り出でゝは金色の菅草の咲きつめたるに、無數の深山紋黄蝶なんど飛び交ふて、忽ち、薫風の頃の光景を呈す、實に高原の美観を遺憾なく發揮して居る、之をば単に立山其ものに隷属する一名所として措き度ない、此原に家を構へ、テニスコートを設け、夏季寮でも作つたらばと、一行の一人が希望についで、トナカイの牧畜は面白からん、地獄谷より硫黄熱泉を引き浴場を造りては、などゝ種々の意見が湧いて出た、或は數十年の後世に到り、實行せらる可きやも知らねども、余等が設計は一陣の山颪に吹かれて散つて了つた。
残雪を踏んで正午室堂に着す。

四 室堂の半日

數日前に登山したる石崎兄は、今朝早く、人夫と共に浄土山に登りしが、濃霧の爲め、已むなく歸堂して、恰も午餐の處、余等を出迎へて、「昨日別山より見たるに、劔岳の裏面には頂上近く迄、一大雪谿が這ひ上つて居る、目指す針路は必定かしこならめ」と新來の客を屋外寒風に晒し捨てゝの氣焔である、遅れたる人夫、間もなく來着す、何は兎もあれ、立山名物薊の味噌汁を仕立つるやう請求す、由來蘚は馬の嗜肴として知らるゝ、高嶺の地、融雪の間より萌え出づるものは、茎葉軟く、採りて以て無比の香羹をなし得べし、即ち平地の薊は馬腹を満し、高山の薊は馬食に適すとも謂ふべきにや、這般の最趣詩興、愛山の士にあらずして、いかで知り得べき。

午後二時頃より、各自思ふが儘に、スケッチブックや、胴藍を携へて、堂後の芳園へ散策に出づ、地獄谷上の岩角に腰打ち掛けて休み居れば、日本海から吹き寄する、無限の積雲が、波濤のやうに追ひつぎ、追ひつぎ、驀進し來り、前なる大日岳を隠したり、暈したりする、その極まりなき變化に、恍惚たること數時、振返り見れば、今迄厚き、厚き、密雲に閉ぢられて、見えなかつた、劔嶽の鋭鋒が、ギラを双眸を射る、余は思はず突つ立つた、其鋒頭更に五尺の身長を加ふるも、もはや二日を出でじと思へば、意氣軒昂、既に六十二峰を壓す。

立山室堂は他の諸高山に多く見る、石室、小屋に比すれば、屋宇の廣闊にして堅牢なる、諸設備の完全なること、宵壊の相違あり、實に三百人を容るゝに足る、寧ろ餘りに軒を高くして、苟にも自然の威力に誇らんとする人間の、衒氣顯はれて、ものものしく、森厳なる四圍の光景と、よく調和すとは思はれぬ、而して此處は立山温泉に次ぎ、劔嶽登攀第二の立脚點とも謂ふべく一泊せざるべからず。毎年七月二十五日山開きの祭典ある。凡そ一週間以前より、室番、神官等の登山するあり、其頃より、米、漬物、草鞋の貯あり、供給を仰ぐことを得、但一般立山登山客は皆これ等の品々を山麓より携帯す、尚、當所所属の機械器具は一切他へ轉ずべからざる規定なるを以て、余等劔嶽行に使用せん爲めの大鍋をば、再三の交渉により漸く借受けたり、故に此器もまた温泉より運搬するに如かざるべし。

五 別山表の雪谿攀踏

時移つて、七月二十三日、今日ぞ神秘の霊域に吾が第一歩を踏み入るゝなれ、破天荒の快擧は、之よりぞを思へば、血に湧く雄心抑へ難く、昨夜蚤軍の襲撃に會ひたる不平も何處へか消えて、未だ薄暗きうちより、各々發程の準備に忙がしい、扉を排して天候如何にと仰げば、何事ぞ恠雲、雄山の一角に出でしよと見る間に、浄土山を蔽ひつくし、容赦なく下降して來る、今後の経過甚だ案じらるれど、變幻出没極まりなきは高山氣象の常則なれ、かゝる折には好恰の慰安、まゝよ行けと、立ち出でたるは午前七時であつた、

地獄谷へ通ずる小逕を辿ること二町、東道の主、長次郎は、右方の靄深き谷を指して、眞直に、タカ子ナゝカマドの茂り合へる中を貫ひて降り初む、雪谿途渉の幕は、これよりぞ開かる、此處の雪、二町にして盡き、沮洳心地悪しき浄土川の流れに出づ、川を渡りて、更に雪田を進み行く程に、趾端漸く仰ぎ、別山にかゝれるを知る、時に七時三十分。

茲に少しく一行が携帯せる鐵カシジキに就て説明せざるべからず、其應用すべきは之よりなればなり、他の嶮峰は兎に角も、劔嶽に登攀せんとするに缺くべからざるはカシジキなり、余等の用備し來れる五足分は、従來富士雪中登山に使用せられ居るを模型したるにて十字架形をなすものなり、形状頗る堅牢にして合理的に見ゆ、實用の程度如何は、後に雪谿の最急斜面を昇降したる實驗に徴して記する所あるべし、反之、人夫常次郎の穿用したるものは、三本の長さ二寸に餘る刄を有し、縦四寸五分、横三寸、一個の重量優に百二十匁目あり、前者の如く小鐵環を備へざれども、紐を以て緊しく足裏に結びつくれば、決して脱落する憂なし、これ余の羨望に堪えぬものであつた。

天候は益々不良、空合次第に暗澹となる、渾身の勇を新にして、今登りかけし雪谿は、室堂附近にて見る時、別山表山の障壁にかゝる、數流の雪谿の最西方のものにて、地獄谷の正東北に當る、遙かに望めば、一條の白布の如きも、近寄り見れば甚だ複雑なり、余等は右へ、右へとすゝむ、小憩四回、十二三町許を登りて後、雪上登攀の危嶮なるを避けて、カンジキを解き、犖角たる削岩流を攀づ。衝きは尚一町餘、大急斜をなして左側を奔つて居る、人夫淺次郎は、足場を失してした、雪見えすなりて、二町にして分水嶺に達す(九時十五分)。

密雲四邊を塞ぎ、茫々漠々、展望更に許されねども、此處は、馬鞍形をなせる山峠で、直ちに東方にある別山峯頭の一端が、蜿蜒、西に延びて大日岳連脈を起す、其發足點なのだ、余等が次ぎに踏むべき雪谿は、此山峠より、直ちに北に向つて發し、雲を穿つて消えて居る。

風のあたらぬ、峠の北側の岩角に凭りて休憩す、劔嶽の偉観、眼前に迫つて居る筈なるが、奈何せん、白妙の雲幔、あつく霊域を秘して終つた、温厚着實なる長次郎は懐舊の情に堪えぬらしく、「夫の劔の絶嶮へは二度を行くまじと決心せしに、亦何の縁因ありてかくは導者の役を勤むるか」と言へば、「一度行つたならば三度は行かにやならぬ約束のもの、今一度覺悟せよ」と片傍から交ぜ返されて、微笑むも面白く、尤も沈黙を守る淺次郎が、「劔嶽の三角臺が倒れてるさうだ、みんなで起して來ますまいか」ど細からぬ頸を傾けて相談する、など、主従七人の懇談は中々に趣き深い。

六 別山裏の大雪谿

九時三十五分、山峠上、ヒメクワガタやコスミレなどを摘み採りたる後、雲靄の裡、雪を踏んで、降路を辿る、人寰は益々遠くなれり、寂然たる幽邃、其處に何物か潜める、魑魅、幾庶くは逆鱗せざれ、魍魎翼くは加護あれよ、行くに随つて雪谿の廣袤、愈擴大す、其側壁の傾斜、割合に寛闊なるより、所々に谿間の積雪、長く廣く、壁腹を這ふて、丘上に達し、右眄左顧すれども、悉く白皚々たる雪の壯景あり、雪深き北日本アルプスの長所を發揮して遺憾なし、すゝみ行く七人の一行は蟻よりも小さい。

遽然、幽寂を破つて、一聲の咆哮、耳朶を打つ、續いて一聲また一聲、餘韻、潤に當つて反響す、これ人夫が發したる叫喚、何の爲か、猛獣の防御警戒!あゝ何人か多く、かゝる策のあるを知れる、否、之を知るとも、其必要あるを信ぜん、余の経驗少き、今初めて之を耳にし、異様の感あり、我内地の深山幽谷に於て、猛獣と云ふもたゞ熊あるのみ、其性、極北地に産するものの如く、獰悪ならずと雖も、不意に接近して彼が安眠を破る如き場合ありては、不測の追害を蒙むる事珍しからずと云ふ、只人聲と聞きては遁れ避くるを普通とするが故に、熊追の叫喚を以て、警戒するを要す、珍らしき妙策哉と、之を眞似んと欲すれども、調子更に合せず、徒らに喉頭の疼痛を覺ゆ、余等はこれより猛獣圏に進み行くなり、靄霧のしぶきを浴びつゝ歩度を速めて、ひた降りに降り、凡そ一里も走つたかと思ふ頃。前面、空蔽ふ雲蓋の下より、峨々として截つ立ちたる一大障壁が、斜めに顯はれて來た、問ふまでもく、これ劔の山腹が、其東面の一端を閃かして居るのだ、峭壁には幾條ともなく、稍左に傾きたる襞あり、各襞は純白の糸帛を以て綴られてある、近づくに従つて、峭壁は愈々高くなる、第一の襞が、正面に聳へて來た、看よ千尋の懸崖が屹立する勢を、雪は蛟龍の如く銀甲を輝して、黒雲の裡に驅け入つて居る、岩根にかゝる灌木の葉色も變せて見える、清浄なる劔嶽の四周は、必ずや、かかる險絶極まる襞、皹皺の幾十百かによりて衛られてあるのであらう、

皹皺の巨大なるものを左方に送り迎へること四度、尚も降れば、最後に最も大規模の襞が顯はれた、其内面を埋むる雪も亦特に立派である、是ぞ、陸地測量部員が、幾多度の登攀を試み、失敗を重ねたる末、終に撰んで成功し得たる劔嶽唯一の登路なれ、其位置は別山峠よりの雪谿途上にて望見する劔嶽山腹の右端、U字形をなす絶壁の南側下なり、余等之を長次郎谷と命名す。

尚降ること十五分間にして左方に雑草や、矮樹の欝蒼たる平坦地……露営地……に着す、時に十一時、降路約一時間半を費したる、厖然たる別山峠裏の大雪谿は……白馬尻の雪谿の凡そ三倍ありと推考す……此所に來りて崩壊し、南が來る一澗流を共に、鞺鞳の音を立てゝ、白檜、栂などの大樹欝欝たる虚谷の奥へ、北を指して押し出して行く、劔澤とはこの二溪流の合點附近を指すにや、北南より來る谿を溯れば、富士の折立に達すと云ふ、雲隙を仰げば、雲より出でゝ雲に入る幾百丈ともあらう、雪瀑の上に稜々たる山骨が、灰色に微かに露はれて見える。

七 劔澤の露営

人夫は直ちに小屋掛に就事す、伐木の音、丁々と數時やまず、平坦地の北側、山荷葉の叢生するを、踏み分けて、降り行けば、雪融の清水〓々たる涓流あり、飲料に供するに充分なり、余は野村兄と力を協せて、小屋より通ふ小逕を開く、かゝる間に先刻より何處へか行ける、石崎、河合兩兄が、手に手に爛漫たる櫻花數枝を捧げて、出で來る、聞けば、兩兄が、白樺の茂みに別け入り、余の立てる尚先方の小渓に沿ふて、白根葵や、大葉黄菫や、山荷葉や、衣笠草など素艶濃薫とりどりなるに、物のあはれを忍びつゝも、紀念のためと採集に餘念なかつた時、不圖渓の上流を眺むれば、参差たる梢の間、一株の紅雲靉靆として棚引けるに、不思議に思ひ、近寄りて見、かくはと、下界は沙石も爛るゝ暑熱の季節なるに、深山は今が弥生の春か、炎節、高山にて山櫻の咲くを見るは、敢て大珍事にあらされど、とにかく瑞應よしと、皆欣ぶこと限りなし、石崎兄は苦心惨憺意匠を凝して撮影にかゝる、櫻を主人に、他の四五の珍草の伴ひ並べるも能く似合ひ、武骨なるカシジキ、鳶口の其間に堅苦しく、陣取りたる可笑し。

小屋は熟練なる人夫の殆んど機械的動作により約一時間にして完成せり、方一丈、北向きにして屋根は四枚の油紙を以て蔽ふ、雪谿に向ふ側には巨巖あり、寒嵐を防ぐに足る、火は入口にて焚くなり、枯草の褥も暖かく、一夕の夢を結ぶには、贅澤にすぎたるも、此所を根據として、劔嶽に攀づべく、天候の如何によりては數日の龍城を豫期したることゝて、なほ其不完全なるを感じ、天幕の用備なきを恨みたり、尤も立山室堂へは暴風雨にあらざる限り、一日にして往復し得らるゝを以て、食糧不足の爲め、危險に瀬することなしを信ぜらる。

暗雲稍々霽れしかと、思ひしも束の間、四時頃より、雨蕭々と降り來る、日暮方よりまた恢復し、軈て星も見る初めぬ、爲すべき仕事も果てたり、明日の氣力を養はんと、一同早く、楚火を足元に、半圓を畫き、横臥す、誰が優しの情にや、床柱とも謂ふべき處に、櫻花一枝、掛花瓶ならぬアルミニュームの水飲器に挿されてある。

五更の巖威、膚骨を裂くは夢は破らる、凄陰幽寂のうち、〓々たる谷風の音に誘はれて、小屋を立ち出で見れば、弦月いま山の端を離れたるところ、清輝いやが上に朗々、一際白き雪の流れには、大きな峰が、くつきりと黒き影を宿して居る、高嶺にて迎へる朝日、峰頭にて送る夕日、みな希望の榮光である、巓上にて仰ぐ月、よし爛々たる光芒なしを雖も、なほ高遠雄大の氣溢る、幽谷の月に到つては……あゝわが今、疊嶂深き窮谷、潜龍の窟底に佇立して見つめつゝある……、これ或は大自然が活動の裏面の悲愁を覗ひ得たるものか、悲壯沈痛 げに此光景ぞ、萬生を冷化せねばやまぬであらう、杜鵑一聲に駭きて吾れに反れば、はや夜も明けそむを見えて、蒼溟東の方より漸く淡くなつた。

今日は上等のお天氣様でと、飯焚の役目なる常次郎が火を煽りつゝ云ふに、再び小屋を出で、仰げば、成る程、狭溢なる谷の天空ではあるが、聊かの曇翳をもとゞめず、ほがらかに霽霽れ亘つて居る。

八 劔嶽の登路――惡絶險絶海内無比

四時半、装を整へて發ず、快晴を期して、茣蓙其他の雨具をも着けず、能ふ限り携帯品を減じ、人夫の背にも、只辨當と寫眞器と胴藍とを分膽して乗せられたるのみ、カシジキを固く緊め、手には各々六尺の力杖を携ふ、其内三本には大鷲口を附着す、此器具亦「劔」の絶險にあたる最要具たり。

夜中の高寒に冰り付ける堅雪を踏み鳴らしつゝ、昨日の途を溯り、右に轉じて長次郎谷に入る、空を窺へば太雪谿の、みなかみは遙か、遙か中天に白の空線を畫いてる、耳殻を切る暁風も心地よく、絶えず熊追の叫びに行手を警戒しつゝ進む、傾斜は追時に其急を増し、左右の峭壁、愈々嵩峻を加ふ、六時十分、一呼吸を容れて氣力を付けんと、鳶口に身を支へて立ち留まり、不圖、七八町の遠き頭上を見れば行手の絶壁の下、眞白き上に何物が蟠動するものあり、其色黒し、巖石の落下か、忽ち一人夫は叫べり、聞けよ!其聲……廻はれや!廻はれや!上へまわれや下から追ひ廻はせ!漸くにして余等は熊を知れり、一分を経、二分を過ぐれども容易に去らず、其巖角に片寄りし時は、正に四肢の鋭鋒をあげて、われを目懸けて驀進する如き氣勢あり、流石に悚然とせざるを得ない、軈てかれは右側の絶壁を攀ぢんとせしが、叶はざりしにや、ものゝ四分も過ぎて、進路一轉、更に雪を上へと蹴立てゝ、我等の進路を導くものゝ如く、攀ぢ上り去つた。

熊を追ふて、三十五度許の急斜を攀づれば、稍々勾配の緩慢なる所あり、(六時二十分)突き當りに巨巖の雪を衝いて立てるあり、名付けて熊の岩と稱すべしとの建議直ちに可決す、雪谿は此所にて二分せらる、兩者の高さ及び傾斜度、相似たる如く見ゆ、熊の彷徨し居たるは右の股にして長次郎谷の入口より遙か雪空線をなすを眺め得たるもの亦これなり、余等の進むは左股とす。

豪抜雄健なる劔嶽は、一歩一歩、千變萬化の壯景を披瀝して來る、巉々然と屹立する左右の峭壁は神鑿鬼斧の偉大を極め、其鋒芒並んで列をなし、天漢を鋸る姿、奇絶怪絶、海内無比の大奇勝である。

熊の岩より十五分、三十六七度の急坂を横這して右岸の巖上に着す雪上攀縋の危險之より極度に及び、富士式カンジキは最早何等の役をなさず、即ち腰にせる細引綱を取出し(各自三間許のものを一筋宛二重にして用ふ)各々腰に結び、数珠繋ぎの登攀法を應用す、列の先頭に立つたるは完全なるカシジキを有する常次郎なり、殿軍をなせるは淺次郎なり、長次郎のみはカシジキをも穿たず、列外に遊戈して、單身登攀をつゞけた、其異常なる熟練と自信とは驚嘆の他なし、されど屡々轉倒辷下、幾度か我等の心を寒からしめた、一行の一人が、如斯登攀法は協同的精神を涵養するに適すと云へるが、實に一名が中心を失して辷ち落つると其影響前後に及び、二人三人と相次ぎて直りに倒される、少しく隔つて未だ影響を受けぬ者が、聲に應じて咄嗟の間に鳶口を深く雪に打ち込み危く噛り付くと云ふ順序である。

かくて輾轉又輾轉、此最急坂を攀ぢ行くと、雪谿の大罅裂に遮ぎられ、餘儀なく左岸の厳壁に飛びついて刄の様な巖と雪との間隙を蝸附して通過す、斷巖より滴り落つる雪融の水の、麗らかな日光に照らされて稍暖かきを、巖根に唇あて、渇を醫し、再び雪の上に這ひ出でゝ登る、此罅裂は一直線をなして、横に雪谿を切斷せるものなり、或部分の雪が上部の壓迫によりて押潰され、縮少するより、生ずるならんが、かゝる巾廣くして深き雪谿にありては非常なる急斜ならずば起らざる現象なりと推察する、惟ふに劔嶽登攀の時期はこの罅裂の未だなき頃を選ふべきならむ、人夫の語る所に依れば今年は此地方一帯に積雪の量、五年來なき深さなりと云ふ、今七月の下旬に於て己に一條の大罅裂あり、通過するに少からぬ時間と冒險とを要せり、恐らく今後雪の薄らぐに従ひ、各所に此罅裂を見るに至るべく、アルプス登山の様に二間梯子を用意せねばならぬかも知れぬ、故に登山期は七月十日頃、梅雨期終りて天候の安定したる時より、一週日許を尤も適當なりを信ず、八時雪谿の頂上に着す。

雪の盡くる處、南北に崎嶇として延びたる劔嶽の嶺績にして、開かれし關門の形をなす、稜岩の閾に腹這ひながら俯瞰すれば、眼下直ちに薙ぎ落ちて、凄愴極まりなき大峨壁を作り、其下には削り下げたやうな雪谿幾條あり、末は早月川の水となりて白く流れ、左岸に伊折村が芥の如く附着して居る、此危景に接し、意氣大いに揚つたが、嶮絶は之よりの巉嵓攀踏にあり、最早團體の協力に待つ能はず、各自が各自の度量と技倆の全部を傾盡してすゝむべきのみ、陸地測量部員に従ひたる一人夫が、落伍したるも此地點なりと聞く、ウエストン、チアンバレンが、悪絶險絶無比と呼稱せる針木峠、白山裏山を息もつかずに踏み切つたりとの得意もあらん、満天下の登山家よ、此所に雲と集り來つて卿等が登山の能力と膽力とを試せ!

(三本爪カシシキは急斜面を登攀する時はAの處を踵に當て、下降する時は、反對としてBの處を踵に當つ此點に於て四本爪は前者に劣る可し、爪頭きは朝夕温度低く雪面堅き時は効力あるも正午雪の軟くなりたる時は殆んど効力なさず、環の装置あるものは一見至便なるが如きも結びたる上に於て却つて足に密着せず寧ろ蛇足なり、常次郎のを襷結びに足に着くる時は甚だ都合よし、爪は極めて堅牢ならざる可らず、一〓の鐵を以て造りしものは懸念なきも爪を更に附着せしものは堅氷の上にて折れ落ちたり)

一、佐伯治重氏所持のカシジキ

ニ、一行の用びし富士式カシジキ

三、人夫常次郎の用ひしカシジキ

關門の南の扉を攀づ、稜岩刄礫、積み重なりたるを、不安定を見るものは跳ね越え、安定と見れば飛びつき、縫りつき、辛うじて六十間許登れば、僅かに佇立するに足る處あり、三角臺が見える、針の如くに天を刺してはゐるが、悄然と人戀しげに恨める如くも思はれる、左もあるべし、人跡不到の此絶巓に置き捨てられて、満二ヶ年、訪ふものとては己が膚を削る風雲雪あるのみ、暫らく休みて山頂を目掛け、危巖を攀づ、此邊に僅かながらの偃松あり、岩間に裊娜なイハヒゲ、イハウメなど咲いて居る、石岩の鋭利なる宛然、刀利のやう、常次郎を見れば、股引を破つて臘の如き血が流れて居る、相警戒してすゝむこと六十間、夢中となりて終に絶巓に登り付く、此刹那の吾れ、感窮まりて、涙滂沱と双頬を霑はした、關門より頂上まで三十分を要せり、登嶽の危險恐怖は其上巻を終了せり、余等は其下巻に亘るべき運命をも打ち忘れ、巖上に立ちて展望を恣にす。

九 絶巓

悠々たる晴空に大瀾なす萬重の峰々が、威武堂々たるたゝずまひ、立山は正南方に別山と重りて、上半部を見せ、其左肩に「槍」の穂先輝き、之より右には赤牛、御岳、笠岳、薬師岳、白山なんど、蜿蜒起伏、高底參差、ずらつと並んで空線を畫き、無數の深山幽谷が其内側に包容せられて居る、更に立山の左方を眺むれば、芙蓉の秀峰のみは、あつき積巻雲に叮嚀に包まれて居る、針木嶽は高く大きく屹ち、淺間の烟は例によりて例の如く、白馬の嶮峰が杓子、鑓を鼎峙して覇を争ひ、白兀赤兀、大窓の面々は、截先鋭く、吾れこそは劔嶽が郎黨と云はぬ許りに、正北下に属従して居る、紫に、緑に、
赤に、藍に、白に、濃く、淡く、連りたる峰巒翠黛を、風雅比びなき、こゝ絶巓にたてる三角點標を隔てゝ望む時、孰か其壯美に恍惚とせざるものがあらうか。

されど絶頂の違観は、この大展望につきて居るのでない、脚下を看よ!殊に西北面を!天神の巨斧をもて地軸を殼竹割に切り割りたらんやうの峨壁が、なだれも打たずに落下して居る、之ありて「劔」なるかな、其下浮雲の遙曳する間より、猫額大の富山湾が、水色濃く見える。

忙がしき眼を以て、次に微細に絶巓を檢するに、三角點標を中心として、南北に長き平坦をなし、優に五六十名を容るゝに足る、三角點標は高さ僅かに一丈の細き材木一本に過ぎず、其中央邊に二枚の板を、十字形に打ち付け、三方より針金を引きて、岩根に結び付けてある、十字形板の直ぐ下には短冊形板一枚打ち付けられ、「明治四十年云々」の墨汁も、勁風豪雨に磨霏せられてよくも判らぬ、劔の峰頭、一二等三角點標よりも、此少さき帆柱の如き形が、如何にもよく調和して、痛快を極む、之より西南に方り二間程下れば、奥行一間、巾四尺程の岩窟あり、人工を加へて造られたりとも見ゆ、此絶頂附近、砕岩の間に僅かながら哀れに優しき草花が點綴せられて居る、即ち、チシマアマナ、チングルマ(白色)、イハキリシサウ、ミッバワウレン、イハタケ、イハウメ、イハヒゲ、ミヤマウスユキサウ、タカネウスユキサウ、小さい黄色スミレが特に珍しく思はれたが、大躰に於て立山と大差なきが如し、此度の獲物として、長さ二寸、巾七分の小刀身を發見したり、赭錆堅く、幾十百年の古物とも知られぬ。

静かに吹く嵐もさして寒からず、三角臺の前に環座して中食をなす、斷續して聴ゆる蜂の啼音は、其昔此絶嶮に、緇衣飜したらん錫杖の主が、看経の聲とも思はれて哀れ深し。

十 下山

鑵詰の空殻に一同の名刺を封じ、巖窟に納めて紀念とし、名残を惜むで、十時三十分下山の途に就く、三十分にして雪谿に達し、珠數繋の單縦陣を作つて下る、降路の困難と危險とは、登攀よりも遙かに大、先驅のものが鳶口を打振つて階段を作る、一段作りては、一歩を下し、遅々としてすゝむ、雪は日射の爲め軟かく、辷り倒るゝこと數を知らす、熊の岩まで一時四十分間を要せり、險難は已に通過し終へり、恐怖は全然過去のものとなれり、岩に猗りて午睡の夢を結ぶ。

今日は無風無雲快晴と云ふ、高山に於ては稀有なる好天候なりしが、若し一朝恠雲渦巻き寄せて、天颷岩に咽ぶことあらんか、到底一歩をも前後する能はず、進退谷まるの窮境に達せしならんに、余等一行一名の落伍するものなく、首尾よく絶巓を極め得たるは、寔に天祐多きに因らずんばあらざるなり。

熊の岩を出でゝ、轉びつまろびつゝ而も一瀉千里の勢を以て驅け下ること僅かに三十分、三時温かき小屋に着き、茲に最終の凱歌を擧ぐ、櫻花は平和に頬笑んで居る、晩餐には人夫の探し來れる薊、竹の子の味噌汁に、花鰹を振りかけて、山海の珍味、大牢の佳肴なれど大に祝ふ。

明くれば二十五日、昨日に似氣なき雲天なり、六時可懐しき小屋に丹精を凝らして作りし自在を其儘遺して、歸途につく、八時二十分別山の峠に達す、南風峠を眼かけ、黒雲を運んで吹き荒び、劔岳の仰望遂になすこと能はず、躊躇せず降り、地獄谷を一巡して、室堂に入りて、中食し、直ちに長驅して、夕方温泉場に到着し、茲に全く劔嶽行を終つた。

餘記 柴崎測量員登山の眞偽

劔嶽の先登者は何人なりや、之が解決は劔嶽の歴史的研究として、甚だ興味ある問題であらう、往昔、弘法大師が、草鞋六千足を費したるも、遂に登ること能はざりしと云ふが如き、行者役の小角が狂熱的信仰心に導かれて終に登りたりと云ふが如き、また立山神官佐伯有久翁の談話によれば、五十年前、加賀前田侯にて立山雄山神社殿堂の大修繕をなしたる時、藩士増崎藤左衛門なる人が、単身此山に登攀し來れりと云ふが如きは、劔嶽の口碑傳説時代をなして居る、而して其神秘の鎖鑰を披き、之を記録時代に入れたるものは、實に近く二年前に登攀したる、陸地測量部員柴崎芳太郎氏一行である、併しながら柴崎氏自身が、果たして登攀したるや、今遽に斷言すること能はず、氏の登山冐險談一篇、余等の登嶽を企劃するに際し、唯一の材料として、如何に裨益したるやは姑く云はで措き、余等が瞥見したる所を以てして、同記事に就き、恠訝に堪えざる點、一にして足らぬ、就中尤も明確に、事實の相異したるは、劔嶽頂上三角點標に關してなり、氏の談話には「二等三角點を設けんとせしも、名にし負ふ嶮山とて、機械及材料を運上ぐる事能はず、止むを得ず、四等三角點を建設する事とした、其も四本を接ぎ合せて、漸く六尺位になる柱一本を樹てたにすぎない」と、余等が見たるは然らず、高一丈許りの一本の自然木の皮を剥ぎしにすぎない、柴崎氏は何の思慮あつてかく誤言せられしか、且又、柴崎氏の行動については、氏が第一回登山に伴ひたりと云ふ人夫宮本金作の談話こそ不思議なれ、渠宮本は上新川郡小見村に住し、温厚寡言の壯夫なり、本年は郵便脚夫として、立山温泉場原村間五里の山路を毎日往復しゐたり、余は立山より下山の折思掛けなくも渠に邂逅し、其語るを聞けば、渠は第二回目登山、即ち造標観測の作業に、上瀧町山崎幸次郎、和田村野入常次郎(死亡)他二名と共に登りしものにて、之れを引卒したるは、技能抜群なる測夫木山、生田兩氏なり、生田氏は第一回登山に宇治長次郎等を指揮したるにて、かの古器二品を發見したるも亦同氏なり、柴崎氏は前後兩回共に参加せざりしと、事の眞否は尚世評の判断に任せんか、今聞知したるまゝ、採録す、もとより敢て紛議を惹起すの意にあらず、物云はざれば腹ふくるゝの感あればなり。

劔嶽の地理的研究に關しては、今後の探險範圍、實に廣大有望なり、余等菲才、今回の擧により、僅かに絶巓に達する一登路の隔離と、登攀時間との概要、併に急坂攀縋の準備と、方法との實驗を、世に公にし得るのみ、植物の分布、岩石の成立状態等に就ては、充分捜査したる確信を有せず、後日専門家によりて必ずや、驚くべき報告に接するを期す、また劔澤の露営地より(其所より半里谿を下らば左岸に一大岩窟ありと云ふ)黒部川本流に亘りての人跡未踏界の探險は、劔嶽の他の登路發見と共に、日本山岳界の二大事業なり、勇敢なる吾曾員諸君の、大に技能を振はれんことを渇望す。

さるにても余等今回の擧によりて、三名の好案内者を推薦し得たるは無上の光榮とする所である、三名共に過去二十年間、或は木荷(木負人夫)として、或は探鉱家の従者として、或は陸地測量部の人夫として、此地方一帯の深山絶澗を跋渉し來り、登山の技倆界隈に聞ゆるものなり、但し常次郎、淺次郎にとりては、劔嶽登攀は今回が初めなれば、非常なる好奇心を以て、一行に加はり、些の争氣なき長次郎と共に、熱心に働いた、淺次郎は正直な無邪氣な男、常次郎は蛮勇家で、荷を擔ぐ點に於ては、立山人夫中の首位に居る、長次郎は一點の非難すべからざる資性を有し、余等年來の登山に於て、未だ嘗て見ざる好漢である、はじめ三名共に吾等の、何の目的あつてかくは登山を企つるにやと、問ふて止まなかつたが、土木役人にもあらぬ、探鉱家にもあらぬ、所謂漫然たる登山家の役目を知らざりしならん、三日間の實地説明によりて、漸く吾等の目的とする所も、腑に落ちたるものゝ如く思はれた、今後とても、劔嶽の案内者として登山家の爲め、何分頼む、若し充分の準備なく、血氣にのみ逸る無謀者には、大事なからん様殊に注意せよ、賃銀も今度を標準として、多くを貪る勿れと命じたるに、渠等も欣然として誓約したり、尚前記、山崎幸次郎、もまた劔嶽の地理を知るもの、其性質善良、一般人夫の及ぶ能はざる能力を有すと云ふ、一好案内者として推擧するに足るを信ず、(完)


【編注】『山岳』第5年第1号(明治43年3月31日発行)

柴崎芳太郎_剱岳登頂疑惑への反論『山岳』第6年第1号(明治44年)

本誌五年の第一號所載  劍嶽登山の記事に就て

余は昨年東北某地の測量に従事し、四月出發、十一月業務の完成を得て、皈京せり、爾来多忙を極め、毫も書冊に親むの機會を有せず、頃者僅かに少閑を得て、聊か渉猟の事に従ふに方り、偶々本誌五年の第一號を得て、之を通覧するに吉田氏劍嶽登山の報文あり、而して文中余が同山攀登の事に關し、其の一二を議せらる、由て聊か茲に之が辨を爲す。

越中立山は、本邦高山の中に於て、特に其の險岨を以て稱せらる、而して該山の險や、其の支峰たる劍嶽の崔蒐峻峭、麋鹿も殆んど其の足跡を容れざるの概あるに於て、其の名を成すものゝ如し、劍嶽の攀登に就き、種々の傳説ありと雖、其の事蹟は一向に定かならずして、近時に至るまで、未だ的確に之が實踏を爲し、江湖の現認を経たるものあるを聞かざりしなり、劍嶽は果して然かく人跡を絶するの天險なるか。

僚友某氏、嘗て越前の一地に、三角測量の任を帯びたる當時の事なりき、氏は其の選點に際し、某部落の直西に孤立する五百米内外の一小峰を踏査するの要よりして、偶々其の麓山の民家に就て、之が通路を糾すに、一老媼は出て、答ふらく「未だ全く登山の経験なし、又更に人の登臨せしあるを聞かず」と、次に他の一戸に至り、一老翁を捉へて之れを糾すに、彼れ曰く「十五六歳の折只一度登山せしあるのみなるを以て、近時の状況の如何なるかを知らざるのみならず、登る者絶てなければ道などの有らう様はなし」との答を得て、氏は之を訝かしみながら、一名の測夫と共に別け入るに、全山雑樹密布し、荊棘縦横、攀登に艱むも、更に危險の個所なく、標高は僅かに五百米を出でず、此の一事は以て、當地民状の一斑をとするに足る如何にも牛馬の飼料は、之を畦畝の間に求め得て餘りあり、新炭の料、又高地を遠く探ぐるの要なければなり、依て己が朝暮頭上に頂く、一小岳にら六十の老翁末だ容易に登渉せずと云ふ、該地區到る所嶺上は、雑樹の鬱蒼するに任せ、斧鉞を入れざると共に、人跡を絶するの有様なりしは、其の測量の選點に際し、甚だ迷惑を感じたる所なりとて、同氏北陸作業の一該柄として、今に繰り返へさる。

用なきの山として、雑樹の鬱生するに任ず、之を別け入るに又多少の困難あり、則ち之をしも險とし云ひ得べくんば、這は之れ寧ろ天爲の險にあらずして、人爲の險とせん、世の所謂傳説的天險なるものに對し、右の事實は聊か以て之が消息を解説するの一資たらざらんか、乍去彼の劍嶽の險や、方に人爲の險にあらずして、眞に其の天險たるに於て、傳説と實際と共に、余も又之を認容するに憚からず、但し其の程度に至りて、傳説は往々事の善悪險夷を事實以上に伸長するの傾きあり、劍嶽の險、之を始めにしては弘法大師、草鞋千足の一説傳はりて以来、傳説は茲に一種の権威を有するに至り、爾来同山の險阻は、事實以上に持ち運ばれたるの感なくんばあらず、抑も人跡播布の程度たるや、地の南なると北なるとにより、其の疎密を異にするの事情あり、四國九州の山地に在りては、人跡に親まざるの地、殆んど之れ無に拘らず、北陸より東北に進むに従ひ、人跡の寥々たるは、特に余輩の眼裡に映ずる所なりとす、若し夫れ劍嶽をして之を四國九州の一地に措かんか、二千有余年の歴史の民は、之を今日の秘密に貽さずして、夙に早く之が攀登の能否を判定すべかりしや必せり、南にありては千米の高地も、尚能く鋤犂の痕を容るゝに係らず、北にありては朝暮己が頭上に頂く丘山にすら、登るを忘る、此の種民相異は、又方に傳説の権威と、相須ちて、劍嶽の險を増伸せしやを察せらる、加ふるに同山は磽埆なる大古層の片麻岩より成り、一樹の以て斧鉞を向ふるの利なく、又猟夫の貼財に佳ならず、山上更に珠玉珍奔の人意を牽くものあるなく、由来只宗教的信念に騙らるゝ者、或は一種の好奇心に熱奔するものゝ外、之が攀登を庶幾したるものあらざりしや、知るべきのみ、斯く如くして傳説的天險は、一種の人爲的天險を加味したるの感なくんばあらず、劍嶽は果して、眞にしかくの人の攀登を遠ざくるの天險なるか。

余偶た去る四十年、任を此の地境に得て、立山を測地の中央に措き半歳以上に亘り、其峰巒窮谷の際に棲遲せり、就中劍嶽は之れに登るの前、已に其の四周を前後縱横に跋渉し、以て同山登渉の而かく難ならざるを判知せり、當時余の顧念する所は、唯測量の建標、及標石運搬の能否如何の一事にありしのみ、則ち測夫、生田に命じて、之が査察を爲さしめしを、登山の第一回とす、然るに果して地勢不可にして、三等建標の布設を許さず然るに此の好地點を委棄して、空疎の儘に措かんか、我か測量の効果に多大の影響あるを以て、測量上の判定を下すべく、則ち第二回に測夫木山を率ひて、自から登山し、以て四號三角點の建標を建設することに決定したり、登山の事實は、夫れ只此くの如きのみ、然るに登山の事、忽ち俚耳を聳破し、方隅其の噂を以て喧傳せられ、遂には二三新聞社の聞知する所となり、同地新聞社の一記者は、余が所在を探踏して、立山温泉宿に其の來訪を見たり、當時余は約三週間の連續幕営作業を以て、高嶺幽谷の際に起臥し、漸く作業に一段落を得たるを以て、堆積せる測量の成果を校算し、其の他煩鎖なる経理交渉の等、急施を要するの用務を辨ぜんが爲、下山し、右温泉宿に宿泊し居たり、温泉と云へば一面過勞の躰躯を醫するに足ると思ひの外、砂防工事の監督者たる、縣官吏其他僅か計りの浴客の爲に、各室は充塞する所となりて、一旦は謝絶せらる、余等の宿泊は、業務の性質上、所謂紳士的なる能はざる故に、歓迎せられざるは勿論なるも、他に旅舎なきを以て、當時の事情を懇説して、僅に其の一室を得たるも其の陋や實に言語に絶せり、記者の来訪を得しは、實に其翌日なりとす、業を海嶽の險に遺るの却て與みし易くして、内業を民舎裡に展するの甚だ苦慮多きに辟易するの際なりき、此の際記者の來訪を見るも、詳細を悉くして、登山の實情の縷述するの餘裕、之れあるなし、業間草茫として、其の一汎を陳述せしのみ、固と記者の来訪たるや、全く余が意料の外に存し、事の而かくの珍なるに一驚せり、超えて數日、新紙は余の所言と、従属人夫等の陳言、乃至途説を束て之を採録せり、載するところの數節、事實に相異するものありしも、之が正誤を加ふるの要なきを以て、其儘不問に措けり例へば其の登るに際し、鋼を亘して攀ぢたりとか建標にあたり、數本の木片を繋ぎ合せりと云ふが如き、誤傳の主たるものとす、本誌五年の第一號に於て、吉田氏の疑問とせらるところ思ふに、是等新紙の誤報に胚胎するものと察せらる、初め測夫生田を登陟せしめし事は、攀登の能否を驗するにあらずして、建標の能否を査定するに存せしのみ吉田氏報文中、人夫宮本金作を以て、温厚寡黙の壮夫とせられしも、隴上偶語、未だ俄に其の眞性を判るすに難し、彼が言として紹介せられたるところ、已に一二の相違あり、登山の事、余に於て何等之を珍異とするの感念なし、斯の如き事は、余輩職に海嶽の際に奔馳する者としては、日常の事たるのみ、吉田氏報文の末尾に於て「敢て紛議を惹起するの志にあらず、物を云わざるは腹皷るのに感あればなり」と述べられしは、畢竟一場の戯言ならん、近時地極の先蹤を以て、相争ふの輩、世界某々所々出現するの今日、庭丘の一蹴にすら其の一二を争ふの陋を學ぶの迂を敢てするの意にあらざるを信ず、然りと雖ども、山嶺の研究は、之れ世を益すること大にして、且つ趣味亦深し、殊に博學の諸賢が、其踏査上の詳説によりて、世人の山嶽志想を鼓舞せらるゝは、余等亦其恩恵によりて、此の程の智識の開拓するの榮を感謝するものなり。(柴崎芳太郎)

【現代語訳(意訳)】

私は昨年、東北地方の測量に従事した。4月に出発し、11月に業務を終えて、東京に帰った。それ以来、多忙を極め、書物を読む機会がほとんどなかった。最近になって少し暇ができ、いろいろ読んでいたらたまたま『山岳』第5年第1号を手にした。そこに吉田氏の劍嶽登山の報告文が載っていて、私の剱岳登山に関して議論をされていたので、これに対してここに弁明を記す。

越中立山は、国内の高山の中で特に険しい山として知られている。特に立山の支峰である剱岳の峻厳さは、高山にすむ鹿の足跡さえないほどだ。剱岳の登山についてはさまざまな伝説があるけれども、事実は定かではない。最近まで、実際に登ったと社会に認知されているたという話は聞いたことがない。剱岳はやはり人を寄せ付けない未踏の山というべきなのだろうか。

友人はかつて越前のある場所で三角測量をしていた。測量点を選ぶために、集落の西に孤立する500メートル内外の小さな山を踏査しようとした。たまたま麓の民家で、道を尋ねたところ、年老いた女性が出てきてこう言う。「あの山には登ったことがありません。そもそも人が登ったという話を聞いたことがないですよ」。もう一軒の家では、年老いた男性がこう言う。「15歳か16歳のころに、ただ一度登山したけれども、最近は山がどうなっているのか知らないなあ。登る人がいないんだから、道なんかない」。友人は、いぶかしみながら、測夫とともにその山に別け入った。山全体がに雑木が密生している。イバラばかりで登るのが難しい。危険な個所はなくて、標高はわずかに500メートル未満なのに。この一つの事例でこの土地の状況が分かるだろう。牛馬の飼料は、畦や畝にたくさん生えている。薪や炭は、遠い山まで探しに行く必要もない。だから朝夕に眺める低い山であっても、60歳の人が登ったことがないと言う。雑木がうっそうと茂るままにまかせ、手入れをしないから人跡未踏のありさまになっているのだ。測量の選点の際にとても困ったことだと、友人はいまも繰り返して言う。

用のない山として、雑木がうっそうとして茂っているところに分け入るのには多少の困難がある。これを険しいといえるだろうか。こういうのは天為の険でなく人為の険というべきだろう。世の中の人が言ういわゆる天険ということを考えるとき、この事例は参考になるだろう。さて、剱岳の険しさは、どうみても人為の険ではない。真の天険である。伝説からみても、また実際にも、私は剱岳が険しい山であることを認める。ただし、伝説は事実を大げさにしている傾向がある。剱岳の険しさを形容するのに、弘法大師が草鞋千足とかいう伝説がある。それが一種の権威を有しているのだが、剱岳の険難さは事実以上のことが言われている感がある。そもそも人跡未踏の場所がどのくらいあるかとみると、地方によって疎密を異にしている。四国九州の山地では、人跡未踏の地はほとんどなく、北陸からり東北に進むにしたがって、人跡が少なくなる。

特に私の見たところ、剱岳は四国九州にあるような山ではないけれども、この二千有余年の歴史上、これまで秘密になるような山であったとはいえない。おそらく早いころから登ることができるかどうか議論されて来たに違いない。南にいくと標高千メートルの高地も鍬の跡があり、北にいくとすぐ近くにある山でも登ることがない。こうした地域的な相違がある。

伝説が権威づけられて、剱岳の険しさが増伸されたものと推察する。剱岳は片麻岩からなり、林業の価値のある山でなく、狩猟にとってもいい山ではない。特に鉱物もない。だから宗教者や好奇心の強い者を除いて、人が登るような山ではない。伝説的な天険は一種の人為的な天険の感がある。剱岳は果して真に人が登ることを遠ざけてきた天険といえるのだろうか。

私は明治40年、立山を中心に半年以上にわたって測量に従事し、峰々や谷を歩いてきた。なかでも剱岳は、登る前に周囲を縱横に歩き回って、登るのがそれほど難しくないことが分かった。当時、私が懸念したのは、測量の建標と標石の運搬ができるかどうかの一点だけだった。

測夫の生田に命じて査察させたのが第一回の登山である。その結果は地形から三等建標の設置することはできないというものだった。しかし、剱岳頂上という好地点を断念してそのまま空白のままにすると、一帯の測量に影響が大きい。そこで測量が可能かどうか今一度判定を下そうと、第二回の登山をした。測夫の木山を率い、自から登山し、四号三角点の建標を設置することに決定した。

登山の事実はこの通りである。剱岳に登山したことはたちまち人々の噂になり、二三の新聞社が知るところになった。地方紙の一記者は、私の所在を探し当てて、立山温泉に訪ねてきた。当時、私は約3週間も山中でのテント生活を続けていて、ようやく作業が一段落したので、測量成果を再計算や煩わしい経理交渉など急の用事を済ませるため下山し、立山温泉に宿泊していた。

温泉と言えば、疲労を癒すことができるもの思うが、砂防工事の監督者である県の官吏やわずかな入浴客のために部屋は満員だとして一旦断られてしまった。私たちの宿泊は業務の性質上、見かけが紳士的ではないので歓迎されないのは分かるけれども、立山温泉以外に旅館はないのだから、事情を丁寧に説明した。なんとか一部屋を確保したけれどもその狭さは言語に絶するものだった。

記者が来訪したのはその翌日だった。険しい山岳で測量の仕事をするのはまだいいが、温泉に泊まるという本来はたやすいはずの仕事に苦慮することが多いので辟易していた時だった。そんなとき、記者が訪ねてきたのだが、詳細を全部話して、登山の実情をいちいち説明する余裕はなかった。仕事の内容はいろいろあるが、その一部を述べただけだ。もともと記者が来訪するなど、まったく予期していなかったことであった。記者は剱岳登頂とそこで錫杖頭が見つかったことなどが珍しいことだと驚き、数日後に、私の言葉と人夫たちの言葉を束ねて新聞記事にした。記事のいくつかの部分は事実と違うが、わざわざ訂正を加える必要もないからそのまま不問にしておいた。

例えば、登る際に綱を渡して攀じ登ったとか、建標するとき数本の木片をつなぎ合せたというようなことは、誤りの主たることである。『山岳』第5年第1号で、吉田氏が疑問とされたのは、新聞の誤報によるものだと察する。初めに測夫の生田を登らせたのは、登頂ができるかどうかを試すためでなく、建標ができるかどうかを査定するためだけが目的だったのである。

吉田氏は報告文の中で、人夫宮本金作の談話を紹介した。宮本は温厚寡黙の壮夫だけれども、宮本が話した真意が私には理解できない。宮本の話と事実との間には、一つか二つの相違がある。私には剱岳への登頂自体が珍しいことだという考えはない。このようなことは、私も含めて山岳測量という職に携わるものにしてみれば日常的な事であるとしか言いようがない。吉田氏は報告文の末尾で、「あえて論争を巻き起こそうというつもりでない、大事なことを知っていて黙っているのは我慢ができない気持ちだからだ」と述べられたけれども、それはその場かぎりの戯言だ。

近ごろ、極地への一番乗りを争う人たちが世界にあちこちにいるようだ。剱岳など庭のなかの丘のようなものであり、そこに登るのに一番二番を争うのは狭量なことだと思う。たしかに、山岳の研究は、世の中にとって有益なことだろうし、それを趣味とするのもまた深い考えがあってのことだろう。博学の人たちが、山岳踏査を詳しく報告することで世の中の山岳への関心を高められるのは、私たちにとってもありがたいことで、山岳知識を広めていってもらっていることに感謝するものである。(柴崎芳太郎)

【編注】「鋼」は「綱」の誤植とみられる。原本の『富山日報』は「綱」で正しく表記されているので、『山岳』編集者の単純な校正ミスとみるのが妥当である。

キンポウゲ生「越中劍岳最初の登山者に就きて」『山岳』第6年第2号(明治44年)


越中劍岳最初の登山者に就きて

立山の劍は人間が登れないと云ふので有名なやまであつた、然し同時に何とやら云ふ人が登つたと云ふ樣な口碑も可なりあつたらしい。然し近年での登山者としては柴崎芳太郎氏がはじめてゞあるとして推されて居る、もつとも同氏の登山の事實に就ては前年の第一號で吉田孫四郎氏が疑を挿
まれて居る、これに就ては前號に柴崎氏の辯解があるから對比して見らるれば自ら明かな事ではあらうと思ふ、柴崎氏が新聞記者の爲めに事實を誤り傳へられたと云はれたのは、一寸うつかり聞くと可笑しい樣であるが屹度左樣あるべき事だと自分は思ふ、東京の新聞でさへ少し専門的の事になるとまるで出鱈目な事を書く事が多い、麗々しく何々博士談などゝあるのにさへ記者が捏造したとしか思はれぬ記事を澤山含んで居る處から推して考へれば、それに柴崎氏の前號の記文に依て當時の事態を考へて見れば、充分柴崎氏の云ふ處がたしかである事勿論であらう、但吉田氏の記文によると劍岳の絶頂は可なり廣いらしい、その内最高の一點に柴崎氏が足をふみかけたか否かなどゝ云ふ、愚にもつかない水掛論をやれば無理にけちをつける事も出來やうが、柴崎氏が三角標の處まで行つた事が確かならば、一尺や二尺の事を愚圖ついて何彼と云ふ事は必要はないと思ふ、然し此山の最初の登山者については尚考へねばならぬ事があるやうだ。

山岳第三年第三號一一二頁を見ると劍岳最初の者として佐伯某なるひとがあげてある勿論柴崎の一行より前の事だ、これについては第四年二三二頁に辻本君が柴崎氏の言を引てその事實を柴崎氏が否認されて居る由を誌されてある、その三箇篠を讀むと如何にも一應の道理は聞えるが尚考へる餘地はあると思ふ、第一に佐伯氏は劍岳山上に關する知識を缺て居ると云はれるが、素人がはじめての山に登つてしかも不都した出來心でやつた登山であるからには詳しい事は見取つて來られぬのが當然であらうと思ふ、智識を缺て居ると云ふ事は登山した甲斐がないと云ふ事にはなつても事實を否認するほど重い事とは思へない、第二に大日岳方面よりはとても登れぬと云はれて居るが自分が見た寫眞によるのに此山は峻絶削るが如き山状ではない、どちらから取付いても運のいゝところを目付けたら困難と云ふ考へを抜きにして絶對に登り得ないとは云ひ切りがたくはあるまいかと思ふ、器械や何かを持て準備品等も多いのと、身軽で無鐵砲に登るのとではちと考へが違ひはしまいかと思ふ、第三の錫杖と槍が見付けない筈はないとの難も、注意心が深くないと云ふ非難なら知らず登山を否認するには、ちと軽過ぎはしまいかと思ふ。

自分は吉田氏が柴崎氏に致した非難を柴崎氏の辯解と對比して考へて柴崎氏の言の方が採りたいと思つた、然し如何に柴崎氏を信用しても佐伯氏が登つたと云ふ事實は此山について軽々に觀過すべき事ではあるまいかと思ふ、少くとも佐伯氏は眞の頂上ではなくとも毛勝谷方面のある一支峰(そんなものがあるか如何かは自分はまるで知らないがかりにあるとすれば)の頂上に達せられた位の事實はあるのだと思ふ、恐らくはその頂上が眞の頂上なのではあるまいか、机の上の論はこれだけだ事實の闡明はこれを経験ある多くの方々に願ふの他はない。(キンポウゲ生)

【編注】キンポウゲ生は、吉田孫四郎ではないかという推測がある。
藤平正夫「剣岳の第二登頂 ―吉田孫四郎について―」『山岳』(1979年)
その推測については賛同する。ただし、この藤平論文には、誤記が散見される。1979年時点では十分評価される内容であったろうが、2016年時点で評価すると調査の精度がやや足りない論文である。特に、吉田孫四郎がリーダーであるという見立てなどはまったく感覚的な推論であって、順当にいけば最年長の石崎がリーダーであった可能性が高いと私は見る。藤平論文の引用には注意を要する。

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