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(3) 書名はシンプルがいい

『印度窟院精華』。インド、くついん、せいか。好奇心をくすぐる書名である。

石崎光瑤のカシミールの旅をたどる前に、大正8年2月15日発行のこの本について「全体像」をみておく、と前回書いた。

全体像とはおおげさな、と思われるかもしれないが、この本、調べていくと意外と奥が深い。2000年に復刻された『印度窟院精華・印度行記』は、実は原著の一部分でしかないのだ。

【原作】石崎光瑤著『印度窟院精華』(1918年2月15日発行、便利堂コロタイプ印刷所、38.8×28.7cm)
【復刻】『石崎光瑤』(2000年8月12日発行、富山県[立山博物館]編集発行、21×28cm)

石崎光瑤『印度窟院精華』(1919年) 高岡市立図書館蔵
右上の赤い表紙の冊本に「序文」「印度行記」などが含まれる
左下の写真は写真集の100枚で綴じてない
帙(ちつ)=外箱の傷みが激しい

原著の目次を極力正確に並べてみよう。

一 題字 大谷光瑞猊下
一 題画 竹内栖鳳画伯
一 序文 高橋順次郎博士
一 知友の一人として 竹内逸三氏
一 緒言 石崎光瑤
一 熱國妍春 同上
一 印度行記 同上
一 エレファンター  十三図
一 アヂャンタ   三十四図
一 エルーラ    三十四図
一 カリー     十一図
一 ブダガヤ    五図
一 ワンテープール 一図
一 マルタンド   二図
以上

「印度行記」には写真が割り付けられている

中身として重要なのは、「緒言」「印度行記」、それとエレファンター以降の石窟寺院の白黒写真計100図(枚)(無綴図版)である。

2000年に復刻されたのは「緒言」「印度行記」のほうで、石窟寺院の写真の多くは復刻が見送られた。

「印度行記」には95枚もの写真が割り付けられている。その多くは幻灯用の彩色ガラス板(手彩色写真)としても存在するので、それをカラー写真にして復刻された。

復刻版は、主として「幻灯用彩色硝子板作品」と「印度窟院精華 印度行記」組み合わせて編まれたというわけだ。[1]

ここまで書いても、読み手は理解するのが難しいであろう。

復刻版を編集制作した富山県[立山博物館]は、これを復刻とは見ていないようだ。光瑤が残した「手彩色写真」などを混ぜ込んで、写真71枚と紀行文(小さい白黒写真37枚)を再構成したために元の形態を残していないからとみられる。

たしかに、復刻というのは、1冊の本をまるごと同じように印刷して出版する作業だ。厳密な解釈をすれば復刻は誤った言い方だが、広い意味でこれを復刻ととらえて差し支えないのではないか。

惜しむらくは、この復刻作業で題字や題画、それに100枚の石窟寺院の写真を省いたことである。150ページにあと数ページ追加して、小さいサムネイル画像でもって全収録しておけば、堂々と「復刻」を宣言できたのに、残念である。

それにしても復刻版の編集時の迷いを感じてしまう。

復刻版の書名は「石崎光瑤」である。副題が「幻灯用彩色硝子板作品」「印度窟院精華印度行記」という。角書きが「写真資料集」である。

2000年復刻版の表紙と背表紙

表紙を見ると、「石崎光瑤」という字が大きいのでこれが書名だとは分かるが、サブタイトルがどれなのか分かりづらい。背表紙や扉ページと比べると、副題をどの順で読めばいいか迷ってしまう。

さらに奥付の書名表記は、肝心の「印度窟院精華」を省いてあり印度行記はなぜか意味不明の括弧書きになっている。

左が扉絵の中央部分、右が奥付の書名表記
これだと副題の読み方が分からない

これは、書誌情報をつくる図書館にとってみても悩ましいことだろう。

ちなみに国会図書館の書誌情報は

タイトル   石崎光瑤 : 印度窟院精華印度行記 : 幻灯用彩色硝子板作品
タイトルよみ   イシザキ コウヨウ : インド クツイン セイカ インド コウキ : ゲントウヨウ サイシキ ガラスバン サクヒン
著者・編者   石崎光瑤 [撮影・著] ;富山県「立山博物館」 編
シリーズタイトル   写真資料集 ; 1

著者が石崎光瑤で、書名も石崎光瑤、という奇妙なことになっている。写真資料集なのだから、硝子板を行記より先に書いた方がよかった。

本来「復刻」を意識していれば、

A案)石崎光瑤著『印度窟院精華 ~大正時代のインド紀行~』か
B案)石崎光瑤著『印度窟院精華 ~20世紀初頭インドの美・花・山~』

などと素直に書名を打つことができたのではないか。「窟院精華」と「美・花・山」は連想が似るのでシンプルなA案のほうがいいか。

実は、原著でも似たような紛らわしさがあるのだ。

原著の書誌情報は国会図書館だと

タイトル   印度窟院精華
タイトルよみ   インド クツイン セイカ
著者・編者   石崎光瑶著
出版事項   便利堂コロタイプ印刷所

なのだが、より正確には『印度窟院精華』にひと回り小さな字で『附記行』とつく。「記行」が付属するという意味だ。

「紀行」でなく、「行記」でもなく、「記行」である。中身は「印度行記」なのに、「附記行」である。

ところがここからややこしい。

当時の雑誌『芸術』の広告では『印度窟院精華 及行記』となっている。戦前の早稲田大学の図書分類目録では『印度窟院精華 附印度行記』となっている。

『芸術』創刊号(1918年12月)
国会デジタルコレクション

またまた混乱の極みである。

原著でわざわざ「附記行」などと言う必要はなかったのではないか。「インド、くついん、せいか」で十分響きがいい。あの世の光瑤に提案してみたい。

復刻するなら『印度窟院精華 ~大正時代のインド紀行~』という書名でよろしいでしょうか?(つづく)

前途多難の混乱続き。導入から長くなったので次回もう一度、『印度窟院精華』のうちの紀行文「印度行記」の成り立ちについて記そう。

[1]光瑤の印度関係作品としては、この2つ以外に、写生画(画巻『第一次印度旅行』12巻)がある。これは、2000年の立山博物館企画展『石崎光瑤の山』の図録にいくらか採録された。図録には重要資料として彩色写真と画巻の内容一覧が掲載されている。詳細は復刻版の解説も参考にされたい。

[2]書名をめぐっては「窟」と「堀」などという漢字の問題も復刻版で指摘されているが、ここでは触れない。

原著の書影の撮影を検討しているところです、しばらくお待ちください。それまでは、古書サイトなどで閲覧してください。

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