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(7) 白芍薬と感動の出会い


マハデブ登山から戻った石崎光瑤の一行は、翌々日にはリダル渓谷のシシュナーグ登山に向けてスリナガルを出発した。『印度行記』によれば、5張のテントと1か月分の食料を用意したという。その計画は次のようなものである。

〔スリナガル〜パルガム〜〕タイニン~シシャナーグ(17035ft)~パンタルニ(15980ft)~アムバルナート(17307および16437ft)~シシャナーグ~ペスホウ峰~タイニン谷~アトナルラ~コラホイ(17830ft)~(天気が良ければ)〜シンド谷~ソナマルグ~ハラモーク(16900ft)~ウーラー湖~スリナガル

「カシミールの旅」『朝日新聞』1917年8月

現在の地名により近い表記に改めると次のようになる。ただし標高はフィート表記をメートルに換算したのみで、現代に採用されている標高ではない。[1]

〔スリナガル〜パハルガム〜〕チャンダンワリ~シシャナーグ(5192m)~パンチタルニ(4871m)~アマルナート(5275mおよび5010m)~シシャナーグ~ペスホウ峰~タイニン谷~アトナル~コラホイ(5435m)〜(天気が良ければ)~シンド谷~ソナマルグ~ハラムク(5151m)~ウーラー湖~スリナガル

これらの地名で「ぺスホウ峰」だけが正確に分かっていないが、全体を見ておおよそのルートは分かる。同じ縮尺の地図で日本の北アルプス(飛騨山脈)と比較するとその距離感がつかめるであろう。

左がカシミール、右が北アルプス。約49km四方の範囲を抜き出した。

巡礼路の湖を目指す?

1か月分の食料を余裕を見て準備したとすれば、3週間程度の計画だったのではないか。

交通機関の発達した現代なら3週間でこれだけのエリアを回ることができそうにも思えるが、徒歩の移動を基本とする当時、この計画に無理はなかったのだろうか。

光瑤の一行は、スリナガルを出てまず南東に向かい、ビジビハラから北北東のパハルガムへ、そしてパハルガムからシシュナーグを目指す。うまく行けば、アマルナートまで往復し、さらにコラホイに。このあたりまで3週間で、と考えていたのではないか。さらに「天気がよければ」シンド谷のソナマルグへ抜けてシンド谷からスリナガルに戻るという算段である。

タイニン(タニン)はベースキャンプで、チャンダンワリ(標高2835m)とも呼ばれる場所だ。ここは今日、アマルナート巡礼の重要なチェックポイントとして有名だ。2024年は夏の2か月間に数十万人がここからシシュナーグ(3575m)経由でヒンドゥ教の聖地アマルナート洞窟(3888m)をめざした、という。インターネット上の写真や動画を見ても、富士山と変わらぬほどの行列ができているのがわかる。[2]

石崎光瑤が目指したシシュナーグ。実は、アマルナートヤトラAmarnath Yatraと呼ばれる巡礼の途中にある湖なのである。この事実は本来、『印度行記』が復刻された2000年時点でもっと注目されるべきだったが、雪のためシシュナーグ登山を断念したため、マハデブ登山のほうに光が当てられ、本命であるシシュナーグ登山が深く調べられることはなかった。

107年前に石崎光瑤が訪れた時に果たして、同じように巡礼が行われていたのか。シシュナーグは湖なのに登山として記されるのはなぜか、標高の表記が現代とは違う、など、さまざまな疑問点をこれから読み解いていこう。

チナール大樹と雛歌

それではまずスリナガルからパハルガムまでの旅である。『印度行記』では第14章「ゼラム河舟行」第15章「パルガム渓谷」第16章「山芍薬」に記載がある。

スリナガルからビジビハラまでは、ジェーラム川の船旅3泊4日(正味3日)だ。光瑤は60マイル(96km)の船旅と書くが、直線距離では42キロメートル。川は蛇行を繰り返していて、現在の地図で測ると延長66.9キロメートルである。高低差17.1メートル。勾配3900分の1、1kmで25.6センチメートルというゆったりした流れをさかのぼる。船には帆はなく、人力とみられるが、光瑤は「曳船」と記しているので、岸から曳く人か馬がいたのかもしれない。

1917年(大正6)5月7日午後6時にラルマンディを船で出発し、3時間後にバンドラタン Pandrethan というところで停泊した。翌朝から順調に遡行し、パーントチョップ Panthachhok を経て正午にパンプールに着いた。[3]

この町を少し過ぎたところでチナールの大樹を見かけ、「写生欲」をそそられた、という。船を止め、岸に上がってスケッチをはじめた。それが終わると、アッサドと小高い丘に登り、北東の方角に雪の峰々を眺めた。その日はそのまま停泊した。

《ゼラム河畔のテナール樹》は、そのとき撮影したものと推定される。暮色があるので、場所は本文とも一致する。ただ構図はまったく平凡で、暮色がなければ鑑賞するほどの作品でない。

《ゼラム河畔のテナール樹]》『印度行記』51ページ
Chinar tree on the banks of the Jhelum River
1917 photo by ISHIZAKI Koyo
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載

夕食後、アッサドの提案で、ポーターたちが鼓を打ち、鄙歌ひなうたを披露した。髯の濃いアラビヤ人にも似たカイドラという男が音頭をとって歌った。光瑤とポーターたちの距離を縮めようというアッサドの配慮か。

ドンヨリと雲を帯びた朧夜に川の流れの音さえ眠ったようなこの岸辺の天を摩するチナールの巨木の陰につながれた船の内から奏し出す原始的な楽器の響きと、一種の覇気と哀調を刻む彼らの声調は、まことに絵画的であり宗教的なものであった。

『印度行記』52ページ

翌5月9日は、バロー、アワンティポーラ、パトガムプール(パジャンポーラ)を経由してビジビハラに向かった。

アワンティポーラの手前で、《米を搗く農婦》を撮影したようで、『印度行記』に白黒写真が掲載されている。この図柄の色硝子板はないようだ。動く船の上から撮影したらしく、ブレがあり、図柄も面白くない。

《米を搗く農婦》
A farm woman pounding rice 1917 photo by ISHIZAKI Koyo
『印度行記』50ページ

この船旅で光瑤は、雪をかぶった山の名前をいくつも書き残している。

  • 「パストンピーク Pastun Peak を越えて、トラワーラ Trawara の雪峰や、ナアガベルン Nagaberan の連山が白いひだを畳んで連なっていた」

  • 「トラアル Traal 付近雪の峰肩幅広くそびえ、ナールスタン Narastan を越してモストルワンが美しかった」

5月10日午前8時にビジビハラに着き、7頭のポニーに荷物を積みかえる。その間、光瑤は理髪師に髪を切ってもらった。「どこまでのん気な旅行だろう」。このあとは陸路だ。正午近くになって出発、リダル川右岸を北上する。

ランド・オブ・アイリス

『印度行記』では、スリナガルからパハルガムまでの本文の間に、往路でなく復路で撮影したとみられる2枚の写真が挿入されていて注意が必要だ。49ページと50ページの間に挿入された《アイシュマカンの寺院》と51ページの《旧都イスラマバット付近祭礼の日の団欒》である。

《アイシュマカンの寺院》
Aishmaqum Temple 1917 photo by ISHIZAKI Koyo
『印度行記』挿絵写真
《旧都イスラマバット付近祭礼の日の団欒》『印度行記』51ページに白黒写真
左上が全体で、残り3枚は拡大部分図
A festival day gathering near the old capital of Islamabad
1917 photo by ISHIZAKI Koyo
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載

『印度行記』所収の《アイシュマカンの寺院》は、手前にショウブを配した優れた構図の写真である。手彩色の色硝子作品にはない。『印度行記』では、1ページフルサイズ(278mm×196mm裏白紙)でページ番号を振らずに挿入されている。[5]

アイシュマカンはリダル川左岸にある。往路は右岸なので、復路で立ち寄ったのがほぼ確実だ。古都イスラマバットは現在のアナントナグにあたる。往路では立ち寄っていないので、《祭礼の日の団欒》もやはり復路で撮影された可能性が高い。[6]

『印度行記』の写真は、時系列に沿って本文に概ね合わせるように95枚が配置されているものの、この2枚のようなイレギュラーの割り付けが散見されるので注意が必要だ。

《野生の鳶尾花》
『印度行記』54ページに白黒写真
wild iris 1917 photo by ISHIZAKI Koyo
鳶尾花はアヤメ
光瑤はアヤメとショウブの区別をしていないようである
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載

ビジビハラからパハルガムまで陸路約40キロメートルを2日間かけて進む。前半は、傾斜のある広い平野だ。約20キロメートルで標高差300メートル、1000メートルで15mの勾配である。

街を離れて郊外に出ると、右も左もただもう際涯もなき菖蒲の平野であった。径を除いた以外は悉く菖蒲によって満たされて、白いのと濃紫のと薄藤色のとの三種の花がおのおの群落をなして紫雲のように地を覆い、白波のように輝く。その中を多数の家畜が、入り乱れて、長閑なる五月の陽光の下に遊んでいた。『菖蒲の国(ランドオブアイリス)』の称は首都のスリナガルよりも辺土に入ってこの美しさを痛感しうる紫の花において、私は我が南都の春日野において藤浪の虹となり滝と見ゆるまでに咲き匂うのに感激した以外、これほどの美しさに打れたことはかつてなかった。

『印度行記』54ページ

午後6時、ゾアルダールという村に着き、テントを張った。ここまでくるとショウブはまだつぼみである。光瑤は時間を惜しむように日が暮れるまでスケッチをした。[7]

『印度行記』52ページに《一行の幕営》《胡桃樹下の幕営》という写真があるが、この2枚は本文に「クルミ」とあることからゾアルダール村での撮影と推定される。

《一行の幕営 白きタルバンを巻けるはランダルバル(村長)》
『印度行記』53ページに白黒写真
Tent camp of the Koyo’s party.The white talban can be rolled by Randarbal (village chief)
1917 photo by ISHIZAKI Koyo
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載
《胡桃樹下の幕営 右端は著者 他は苦力の用に供せるもの》
『印度行記』53ページ
Camping under the walnut tree.
The author is on the far right, and the others are for the use of the hard workers.
1917 photo by ISHIZAKI Koyo
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載
上の写真はやはり傾いているものとみられ、
その傾きを補正した写真

となると、その1枚前に掲載されている著名な写真《一行の用ひし駄馬》もこの村である可能性がある。《一行の用ひし駄馬》には、6頭のポニーと人の人物が映っている。光瑤とアッサドが並んで立っているのが確認できる。

《一行の用ひし駄馬》
『印度行記』52ページに白黒写真
The spoiled horse used by the party
1917 photo by ISHIZAKI Koyo
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載

5月11日午前8時、アブドラとマハムデューの2人とともに先発した。

ここから先は、水が田ごとに湛えて畝のみはっきりと水田に浮かんで、どうしても故国の景色のように思われてならなかった。ただ水牛の多いことが故国を思う幻影を打ち破った。いろいろの付近の山がスイスの山のような雪と岩の斑を呈して行く手に見えた。もとより名もない山であろう。もっともここらで一万二、三千フィートの峰は一般であって、名前などのありそうのはずはないのだが。

『印度行記』55ページ

異様な白に心が波打つ

この日、カシミールに来て最も感動的といえる花との巡り合いがあった。

それは野生の白い一重のシャクヤクである。『印度行記』に第16章の表題に「山芍薬」と掲げているほどだ。

最初は山腹の緑の間に白いものがちらちら見え、「何かしら異様に力ある白さ」に好奇心が波打った、という。放牧されている羊が草の斜面に転がした石を目で追っていた時、ふいにその白い花が目に飛び込んできた。ヒマラヤに自然に咲く花に、ボタンかシャクヤクの類があるのではないかと直感した。

アブドラとマハムデュを待たせて、光瑤は一人でその丘を登った。

《野生の白芍薬 其一》
『印度行記』55ページに白黒写真
Single-flowered white-flowered peony grows wild
1917 photo by ISHIZAKI Koyo
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載

そこには桑の新緑がけむっていた。その桑の幹に手をかけて一転して丘の上に身を現したとき、うれしさのあまり、自分はグルグルとそのあたりを無意識に回っていた。そこには大輪の一重の白芍薬が幾十輪となく妍を競うていたのであった。野ユリが他の百種のユリに優れて清楚な気高さを備えているごとく、その気高さはこの山芍薬にもはなはだ豊饒ほうじょう煥発かんぱつしていた。ここに四輪、かしこに五輪、山の神秘をでもささやくように芳唇を寄せて黄緑のくさむらに、碧白の羅をかむれる花の美しさよ。下の方から茂りを透かして自分をうかがう苦力の顔の動くのをも無視してスケッチに多くの時を過ごした。

『印度行記』56ページ
《野生の白芍薬 其二》
『印度行記』55ページに白黒写真
Single-flowered white-flowered peony grows wild
1917 photo by ISHIZAKI Koyo
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載

その時とみられるスケッチも残っている。

写生画巻7-14《白芍薬》
左は左4分の1をカットした部分図 右は拡大図
右上に「五月十一日写」と注釈がある
Single-flowered white-flowered peony
1917 by ISHIZAKI Koyo
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
図録『石崎光瑤の山』(富山県[立山博物館]2000年)から転載

光瑤は、2、3輪の花を摘んで丘を下りた。その先、シャクヤクは上にも下にも咲き誇っていた。それは楽園というにふさわしい場所だった。[6]

午後1時半、イスラマバッド(現在のアナントナグ)から来る道と合流する地点に着いた。Khelanを少し過ぎた地点と推測される。

リダル川はこの先いったん峡谷となるが、しばらく行くとパハルガムを見渡す広い谷に出た。

午後3時半にパハルガムに着いた。標高2150m、今も昔もこの山域の登山の拠点となる町で、今風に言うならリゾートである。

スリナガル8日出発とみると、ここまで正味4日を要したことになる。

現代では車で高速道を使って約2時間20分ということだ。隔世の感がある。

[1]この標高の数値と一致するガイドブックが見つかれば、光瑤が参考にしたことが分かるはずだが、2024年10月現在、見つかっていない。アマルナートを「5275mおよび5010m」と記述したあたりがヒントになりそうだ。

[2]巡礼はパハルガム発とバルタル発の2ルートあり、2024年は入り込み数が計51万2000人で過去最高になったという。

[3 ]地名の特定にはジオネームズというWebサイトをがおすすめである。  https://www.geonames.org/

[4]『印度行記』には特別な1ページ挿入写真は全95枚中7枚ある。光瑤として思い入れが強かった7枚ということになろう。カシミールでは、《アイシマカンの寺院》(50ページの後)《シシャナーグ連峰》(58ページの後)《石室内に休養せる苦力》(66ページの後)の3枚である。ただ、それが手彩色によって色硝子作品になったかというと、そうでもなく、この3枚はいずれも彩色はない。

7枚うちほかの4枚は、《尼波羅ネパール国境のチッテリア村附近》(20ページの後)《サンダグフ喬木帯の樹氷》(24ページの後)《バラレスのバーニングガット(白日の荼毘と水葬)》(28ページの後)《インドラスットの荒城の一角》(32ページの後)

[5]写生画集の巻8-13に「五月二十日写」と読み取れるスケッチがあり、建物の形はアイシュマカンの寺院であると断定してかまわない。しかし、5月20日だと復路でパハルガムにまだいた可能性があり、今後さらに検討が必要である。

[6]ゾアルダール村の位置は特定できていない。リダル川左岸のSallarの近辺と推定される。

[7]「印度の自然美」『芸術』1巻1号(大正7年11月)にはこうある。「この山地に長い天幕旅行を続けた中に白雪の鎧々たる峰の傍らに白芍薬が、まるで雪山の雪が直ちに花となった様な清楚な芳唇を集め山の秘密でも囁くようにうなづき合った一帯の自然の花畑の、果してなく眺められた有様は誠に天壇の楽園と覚えずには居られなかった」

「雪のヒマラヤ山に咲ける種々の珍花」『日本農業雑誌』15巻3号(1919年3月)でも同様の記述がある。「実際暫くというものはスケッチすることも撮影することもこれを折り採ることもできなかった。白い大花は果たして立派な山芍薬であった。ヒマラヤの雪が凝って花片となったかとまで思わるる透き通るような花弁の美しさ。ここに五輪、かしこに十輪、芳唇を寄せ、豊頬を並べて永劫の山の秘密をささやくように、相集まり相連らりて咲き誇れるありさまは、醜悪なる私の筆のよく抒べ得るものでなかった。山に咲く笹百合が凡百の百合と離れて清楚なる気品の高きを覚ゆる其美しさは山芍薬の上にもまた、殊に著しい特長を備えていた」

「白芍薬」については、最初期の連載「カシミールの旅」『朝日新聞』(1917年8月)では、パハルガムを過ぎたあたりで見たことになっていて、『印度行記』(1919年2月)とは大きく違っている。光瑤の記憶違いか。『印度行記』の記述のほうが正しいようだ。「カシミールの旅」では、パハルガムでの記述が省略されている。

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