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劍山攀登冒険譚 (つるぎざんはんとぼうけんものがたり)

『剱岳・点の記』に関心のある人はまず読んでみてほしい原文です。当時は、錫杖頭と鉄剣のほかに木炭片やウサギの糞なども見つかっています。この記事から剱岳の近代史は始まりました。


劍山攀登冐險譚(上)(參謀本部陸地測量官の談)

生は去三十日我國三山の一なる立山に攀躋せんと、午前四時室堂を發し、白雲を蹈破して先づ浄土山、權現堂を難無く超え續いて別山の絶頂に到り、双眼鏡を取り富士、淺間、白山、其他飛信の諸山を望み、次て古來人跡の入らざるてふ劍山の絶巓を望むに不思議や三角測量標の建設しあるを見る、思はず快哉を連呼したり、むかし弘法大師が草鞋千足を費してさへ登り得ざりしと傳ふる彼の險峻に登りしは如何なる勇士か、冐險奇譚こそ聞かまほしけれなどと思ひつつ下山せしに三十一日立山温泉塲にて端なく參謀本部陸地測量官柴崎芳太郎君に遇ひ、當時の實況を聞くを得たり、左に其要を掲ぐ、柴崎測量官は山形縣北村山郡大石田町の出身にして三十一歳、沈着の人なり(午山生)

『富山日報』明治40年8月5日3面

余は三十六年頃より三角点測量に従事して居ますが、去四月二十四日東京を發して當縣に來る事となりました、劍山に登らんと企てましたのは七月の二日で、先づ芦峅村に赴き人夫を雇はふと致しましたが、古來誰あつて登つたと云ふ事の無い危險な山ですから、如何に高い給料を出して遣るからと云つても、生命あつての物種、給料には易へられぬと云つて應ずる者がありません併し是非とも同山に三角測量点を建設せざるべからざる必要があると云ふのは、今日既に立山には一等測量標を、大日山と大窓山とには二等測量標を建設してありますけれども、是だけでは十分な測量が出來ませんからで、技術上是非劍山に二等測量標の建設を必要とするのであります、前年來屡次登山を試みましたが毎時登る事が出來ず失敗に歸しましたが、其爲めに今日では同地方の地圖は全く空虚になつて居る次第であります、是れは我々の職務として遺憾に堪えぬ次第で、國家の爲め死を賭しても目的を達せねばならぬ譯であります、其處で七月十二日私は最も勇氣ある

測夫 静岡縣榛原郡上川根村  生田  信(二二)
人夫 上新川郡大山村     山口久右衛門(三四)
人夫 同郡同村        宮本 金作(三五)
人夫 同郡福澤村       南川吉次郎(二四)
人夫             氏名 不詳

の四名を引率して登山の途に就き、同日は室堂より別山を超え、別山の北麓で溪を距る一里半許りの劍澤と稱する處で幕營し、翌十三日午前四時同地を出發しましたが、此處は別山と劍山との中間地で黒部の上流へ落合う渓流が幅三米突許り深さ六七尺もありました、尚其地方は落葉松等の周圍一丈許りもある巨樹、鬱蒼として居ますが幸に雪があつたから渡たれたものの、雪が無かつたら危險地で迚も渡れ無いだらうと思ひます、其れより半里許り東南の谷間を下り、其れから登山しましたが、積雪の消え無い非常な急坂がありまして、一里許りの雪道を約五時間も費やしました、其の雪道を通過すると劍山の支脈で黒部川の方向に走れる母指と食指との間の樣な處に出ました、尤も此積雪の上を徒渉するのに什麼どうしても滑りますから鐵製の爪あるカンジキを穿いて登るのであります。

劍山攀登冐險譚(上)(參謀本部陸地測量官の談、午山生記)

此積雪地よりは草木を見ず、立山の權現堂より峰傳えに別山に赴く山路の如く一面に花崗片麻岩にてガサガサ岩の斷崖絶壁削るが如く一歩も進む能はず、引卒せる人夫四名の中氏名不詳とせし男は此處より進む能はずとて落伍しました、殘りの一行は更に勇を皷し一層身輕にし双眼鏡、旗、綱の外は一切携帯せずに進むこととなりましたが、其苦しい事は口にも述べられぬ程です、上の方に攀登るのに綱を頭上の巖にヒヨイと投げかけ、其れを足代に登りかけると上の巖が壊れて崩れかゝると云ふ仕抹で、其危險も一通りや二通りでは有りません、斯んな處が六十間もありましたが、其處を登りますと人間の稍休息するに足る塲所がありましたからホツと一休みしました、また其處よりは立山の權現堂からフジと云ふ處を經て別山に赴く程の嶮路で花崗片麻岩のガサ岩ばかりであります、斯くて漸く絶頂に達しましたのは、午前十一時頃でありました此絶頂は圓形のダラダラ坂で約四五坪もありましよう、むかし何年の時代か四尺四方位の建物でもありましたものか、丁度其位の平地が三ケ處ばかりありました、しかし木材の破片などは一切見當りません、一行が此絶頂に於て非常に驚いたのは古來未だ曾て人間の入りし事の無いてふ此山の巓きに多年風雨に曝され何とも云へぬ古色を帯びた錫杖の頭と長さ八寸一分、幅六分、厚三分の鏃(やじり)(昨紙に掲げしもの之れなり)とを發見したことである、鏃は空氣の稀薄なる爲めか、空氣の乾燥せる山頂にありしが爲か左程深錆とも見え無いが、錫杖の頭(本紙に圖する物之れなり)は非常に奇麗な緑青色になつて居ります、此二品は一尺五寸ばかり隔ててありましたが、何年の時代、如何なる人が遺して去りしものか、槍の持主と錫杖の持主とは同一の人か、若し違つて居るとすれば同時代に登りしものか別時代に登りしものか、是等は頗る趣味ある問題で、若し更に進んで何故に是等の品物を遺留し去りしか、別に遺留し去つたので無く、風雨の變に逢うて死んだものとすれば遺骸、少くも骨の一片位はなくてはならぬ筈だが、品物は其儘其處に身體は何處か溪間へでも吹飛されたものか、此秘密は恐くは誰れも解くものはあるまい、尚不審に堪えざるは其遺留品ばかりでは無い、此絶頂の西南大山の方面に當り二三間下の方に奥行六尺、幅四尺位で人の一二人は露宿し得る樣な岩窟がある、此窟の中で何年か焚火した事があるものと見え、蘚苔に封せられた木炭の破片を發見した事である、此外には這松の枯れて石の樣になりたる物二三本と兎の糞二三塊ありしのみである(午山生云く兎糞は別山の頂きに於ても之を見たり)、此劍山の七合目までは常願寺川等にある樣な滑澤の大きな一枚岩であるが、上部は立山の噴火せし際、降り積りしと思はるゝ岩石のみである、東南の早月川方面の方は赤褐色を帯べる岩で、北方は非常の絶壁で其支峰も孰れも劍を植てたるが如く到底攀づる事が出來ない、斯くて一行は當日午後一時に下山し始め同四時に前夜の宿營地に無事引上げ茲に第一回の登山を終つた、第二回には三角点測量標を建設せんものをと

測夫 鳥取縣東白郡市勢村 木山竹吉(三十六)
人夫 中新川郡大岩村   岩木鶴次郎(二十四)

其他を率ゐたが、二等三角点を設けんとせしも、名にし負ふ嶮山とて機械及材料を運上ぐる事能はず、止むを得ず四等三角点を建設する事とした、其れも四本を接合せて漸く六尺位になる柱一本を樹てたに過ぎ無い、此接合せる樣にしたのは無論運搬が困難であるからであります、劍山の高さは不明であります、立山に居りて見れは劍山の方が高く見えますけれど劍山では立山の方が高く見えます、大抵同樣の高さかと思はる、立山の高さですか、其れは二千五百米突以上と云ふ事になつて居ます云々

『富山日報』明治40年8月6日3面

午山生云ふ 此測量は危險地でも霊地で處嫌はず跋渉せざるべからず、人夫は熟練を要するものなるに、迷信深き人夫共は兎角同業に従事するを嫌ひ少しく馴れし時分に他に転じて歸來らざるには困居れりとなり、又測量官の一行は目下立山温泉塲を根據とし、多くは露營若しく小屋住居をなし居れるに、偶温泉に歸る事あるも至極不待遇にて余の訪問せし時の如きは押入の如き處に押込められ居りしには見るも同情の感に堪えざりき、職務とは云ひ、死を賭して深山嶮岳を跋渉しつゝある人々なれば、何とか相當の便宜を與ふる事にしては如何

【引用者注】出典 『富山日報』明治40年8月5日3面、6日3面。図版2枚あり=(上)劍山の頂上にて發見せし槍身(原型二分の一縮寫)、(下)劍山の絶頂にて發見せし錫杖の頭(實物大) ※「劍山に二等測量標の建設を必要」は間違い、正しくは「劍山に三等測量標の建設を必要」(2013/06/20 22:21)

より詳しい解説記事→剱岳初登頂記事と〔午山生〕

現代表記版

生は去る30日、わが国三山の一なる立山に攀躋はんせいせんと、午前4時室堂を発し、白雲を踏破してまず浄土山、権現堂を難無く越え、続いて別山の絶頂に至り、双眼鏡を取り富士、浅間、白山、そのほか飛信の諸山を望み、ついで古来人跡の入らざるという劍山の絶巓を望むに不思議や三角測量標の建設しあるを見る。思わず快哉を連呼したり。むかし弘法大師がわらじ千足を費してさえ登り得ざりしと伝うるあの険峻に登りしはいかなる勇士か。冒険奇譚こそ聞かまほしけれなどと思いつつ下山せしに31日立山温泉場にて端なく参謀本部陸地測量部、柴崎芳太郎君に会い、当時の実況を聞くを得たり。左にその要を掲ぐ。柴崎測量官は山形県北村山郡大石田町の出身にして31歳、沈着の人なり。(午山生)

余は明治36年頃より三角点測量に従事して居ますが、去る4月24日東京を発して当県に来ることとなりました。劍山に登らんと企てましたのは7月の2日で、まず芦峅(あしくら)村に赴き人夫を雇おうと致しましたが、古来誰あって登ったということのない危険な山ですから、いかに高い給料を出してやるからといっても、生命あっての物種、給料には易へられぬといって応ずる者がありません。

しかしぜひとも同山に三角測量点を建設せざるべからざる必要があるというのは、今日既に立山には1等測量標を、大日山と大窓山とには2等測量標を建設してありますけれども、これだけでは十分な測量ができませんからで、技術上ぜひ劍山に2等測量標の建設を必要とするのであります。前年来屡次登山を試みましたが毎時登ることができず失敗に帰しましたが、そのために今日では同地方の地図は全く空虚になっている次第であります。これは我々の職務として遺憾にたえぬ次第で、国家のため死を賭しても目的を達せねばならぬわけであります、そこで7月12日、私は最も勇気ある

測夫 静岡県榛原郡上川根村  生田  信(22)
人夫 上新川郡大山村     山口久右衛門(34)
人夫 同郡同村        宮本 金作(35)
人夫 同郡福沢村       南川吉次郎(24)
人夫             氏名 不詳

の4名を引率して登山の途につき、同日は室堂より別山を越え、別山の北麓で谷をきる1里半ばかりの劍沢と称するところで幕営し、翌13日午前4時同地を出発しましたが、ここは別山と劍山との中間地で黒部の上流へ落ち合う渓流が幅3メートルばかり深さ6~7尺もありました。なおこの地方はカラマツなどの周囲1丈ばかりもある巨樹、うっそうとしていますが、幸いに雪があったから渡れたものの、雪がなかったら危険地でとても渡れないだろうと思います。

それより半里ばかり東南の谷間を下り、それから登山しましたが、積雪の消えない非常な急坂がありまして、1里ばかりの雪道を約5時間も費やしました。その雪道を通過すると劍山の支脈で黒部川の方向に走れる母指と食指との間のようなところに出ました。もっともこの積雪の上を徒渉するのにどうしても滑りますから鉄製の爪あるカンジキを穿いて登るのであります。

この積雪地よりは草木を見ず、立山の権現堂より峰づたいに別山に赴く山路の如く一面に花崗片麻岩にてガサガサ岩の断崖絶壁削るが如く一歩も進む能はず、引率せる人夫4名のうち氏名不詳とせし男はここより進む能はずとて落伍しました。残りの一行は更に勇を鼓し一層身軽にし双眼鏡、旗、綱のほかは一切携帯せずに進むこととなりましたが、その苦しいことは口にも述べられぬほどです。

上の方によじ登るのに綱を頭上の岩にヒョイと投げかけ、それを足代に登りかけると上の岩が壊れて崩れかかるという始末で、その危険も一通りや二通りではありません。こんなところが60間もありましたが、そこを登りますと人間のやや休息するに足る場所がありましたからホッと一休みしました。

またそこよりは立山の権現堂からフジというところを経て別山に赴くほどの険路で花崗片麻岩のガサ岩ばかりであります。

かくて漸く絶頂に達しましたのは、午前11時頃でありました。

この絶頂は円形のダラダラ坂で約4~5坪もありましょう。むかしいつの時代か4尺四方くらいの建物でもありましたものか、丁度そのくらいの平地が3か所ばかりありました。しかし木材の破片などは一切見当たりません。

一行がこの絶頂において非常に驚いたのは古来未だかつて人間の入りしことのないというこの山の頂きに多年風雨にさらされ何ともいえぬ古色を帯びた錫杖の頭と長さ八寸一分、幅六分、厚さ3分の鏃(やじり)(昨紙に掲げしものこれなり)とを発見したことである、鏃は空気の稀薄なるためか、空気の乾燥せる山頂にありしがためか、さほど深錆(ふかさび)とも見えないが、錫杖の頭(本紙に図する物これなり)は非常に奇麗な緑青色になっております。

この二品は一尺五寸ばかり隔ててありましたが、いつの時代、いかなる人が残して去りしものか、槍の持ち主と錫杖の持ち主とは同一の人か、もし違っているとすれば同時代に登りしものか別時代に登りしものか。これらはすこぶる趣味ある問題で、もし更に進んで何故にこれらの品物を遺留し去りしか、別に遺留し去ったのでなく、風雨の変に遇うて死んだものとすれば遺骸、少くも骨の一片くらいはなくてはならぬはずだが、品物はそのままそこに身体はどこか谷間へでも吹き飛ばされたものか、この秘密はおそらくは誰れも解くものはあるまい。

なお不審にたえざるはその遺留品ばかりではない。この絶頂の西南大山の方面に当たり2~3間下の方に奥行6尺、幅4尺くらいで人の1~2人は露宿し得るような岩窟(いわや)がある、この窟の中でいつか焚き火したことがあるものと見え、蘚苔に封せられた木炭の破片を発見したことである。このほかにはハイマツの枯れて石のようになりたる物2~3本とウサギの糞2~3塊ありしのみである。(午山生云くウサギ糞は別山の頂きに於ても之を見たり)。この劍山の7合目までは常願寺川等にあるような滑沢の大きな一枚岩であるが、上部は立山の噴火せし際、降り積もりしと思わるる岩石のみである。東南の早月川方面の方は赤褐色を帯べる岩で、北方は非常の絶壁でその支峰もいずれも劍を立てたるがごとく到底ずることができない。かくて一行は当日午後1時に下山し始め同4時に前夜の宿営地に無事引き上げ、ここに第1回の登山を終わった。第2回には三角点測量標を建設せんものをと

測夫 鳥取県東白郡市勢村 木山竹吉(36)
人夫 中新川郡大岩村   岩木鶴次郎(24)

そのほかを率いたが、2等三角点を設けんとせしも、名にし負う険山とて機械及材料を運び上ぐること能わず、止むを得ず4等三角点を建設することとした。それも4本を接(つ)ぎ合わせて漸く6尺くらいになる柱一本を立てたにすぎない。この接ぎ合わせるようにしたのはむろん運搬が困難であるからであります。劍山の高さは不明であります。立山におりて見れば、劍山の方が高く見えますけれど劍山では立山の方が高く見えます。大抵同樣の高さかと思わる。立山の高さですか、それは2500メートル以上ということになっています云々。

午山生言う この測量は危険地でも霊地でところ嫌わず跋渉ばっしょうせざるべからず。人夫は熟練を要するものなるに、迷信深き人夫どもはとかく同業に従事するを嫌い、少しく馴れし時分に他に転じて帰り来らざるには困まりおれりとなり。また測量官の一行はもっか立山温泉場を根拠とし、多くは露営もしく小屋住居をなしおれるに、たまたま温泉に帰ることあるも至極不待遇にて余の訪問せし時の如きは押し入れのごときところに押し込められおりしには見るも同情の感にたえざりき。職務とはいい、死を賭して深山嶮岳を跋渉しつつある人々なれば、何とか相当の便宜を与うることにしては如何。


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