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17. 写真OKでも頼りは絵筆?

滝壷の水煙と格闘して撮影した結果はどうだったのか。

雑誌『山岳』に寄せた石崎光瑤の紀行文「春の白山」には「現像の結果は、遂に賞する印画を得なかった」と短い記述があり、すぐ隣の誌面に白黒図版の絵《雨後白水滝》が掲載されている。

《雨後白水瀧》『山岳』第6年第1号(1911年)
左が全体、右の上下は部分図

水墨画であろうか、濛々とした水煙がうまく表現されている。

また『高岡新報』には、石黒劍峯記者による連載「飛越深山探検」のなかに《瀧壷より見たる白水瀑布》という挿絵が掲載されている。署名がないが、光瑤の筆とみてよかろう。

《瀧壷より見たる白水瀑布》『高岡新報』明治43年6月1日2面
左が全体、右の上下は部分図

杖を手にした人物が画面中央やや下に小さく描かれている。前述の通り、同行した高岡新報の石黒劍峯記者である。

人物をそこに立たせて演出したものであろうけれども、はためくごう音と水煙を浴び続ける劍峯の表情を想像して、そこに時を超えた人間のドラマを感じる。

白水滝を描いた絵としては、明治時代の役人で国学者、富田礼彦(1811-1877)が『斐太後風土記』に載せた挿絵がある。これも眺める人物を画面に配置している。が、画力の差は歴然としてある。

「斐太後風土記8」国立公文書館
https://www.digital.archives.go.jp/img/4141261
「斐太後風土記」は富田礼彦(1811-1877)編纂。
この挿絵は「山分衣」(山崎弘泰著・1839年)という紀行文に付されたもの。
左上の文字は「平瀬村内 白水瀧 高三六十間」。360間は654m。

光瑤は、芸術家として白水滝を初めて眺めた人物であるかもしれない。

「賞する印画を得なかった」という記述と、『山岳』『高岡新報』の挿絵を見ていると、写真は「全滅」「全敗」だったのかと早合点してしまう。

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