![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/162237128/rectangle_large_type_2_3002ea5aff2a5431de50df18b483e869.jpeg?width=1200)
(9) シシュナーグへの道
石崎光瑤著『印度行記』(1919年2月)は、章があらたまって第18章「シシャナーグ峰」となる。残すはこの章と最終章「風雪の山」である。
タニンからシシュナーグまでは、現代のアマルナート巡礼の主ルートにあたり、インターネット上に動画や画像があふれている。その多くは自撮りであったり混雑であったり、美と醜が混在するので見ていると気がめいってくる。おすすめは静かで落ち着いた秋の映像である。作者はデリーの医師夫婦という「Roving and Revving」さんだ。
2021年秋に撮影されたもので、10数キロのルートを追体験できるような感覚があり、好印象である。これに雪を加えると、光瑤の体験がイメージできる。
急坂を登って一面銀世界
1917年5月14日。石崎光瑤がいよいよシシュナーグに対面する日だ。この日はいつになく早く午前7時の出発となった。久しぶりに正面から朝日を浴びながら一行は東リダル渓谷に入っていった。
谷はスノーブリッジに覆われていた。1キロメートルほど進み、喬木林を過ぎたところから急坂となった。案内人のアッサドは足を止めて周囲を見回した。ヒグマとアイベックスの足跡があるので、この付近に潜んでいるというのだ。相当の急こう配である。山に慣れたアッサドでも、その息遣いはフイゴのように荒い。振り返ると、はるか下に30人のポーターの列が続いていた。
この坂は、現在のピストップPissu top またはピスガーティPissu Ghatiと呼ばれる急坂だ。2920メートルから3290メートルまで標高差約400メートルをジグザグに登って行く。東リダル川はこのあたりでゴルジュ(切り立った峡谷)をなしていて、いわゆる高巻きをするのである。
登り切る直前か、積雪帯に入って、シラカバの林があった。シラカバは大切な燃料だった。この先の前進のために、ポーターのうち10人ほどが枝を切るなどして集めた。当時、森林限界を越えての登山は、燃料と食料をどう確保するかが大切だった。[1]
![](https://assets.st-note.com/img/1731848011-Bs5Lnt7eU9Xfwi80SIMHRa1G.jpg?width=1200)
White birch forest 1917 phto by ISHZAKI Koyo
左は色硝子板作品のみ
色硝子板作品には「タイニン附近の」が加わる
色硝子板作品は富山県[立山博物館]編『石崎光瑤』(2000年)から転載
ピストップを登り切るあたりが森林限界である。雪が増えてきたようだ。サラサラした粉雪が頬を打った。
「シシャナーグの雪の光がわれらを迎え顔にのぞいていた」
視界が開けて一面の銀世界となった。そこは標高約3300メートル、東西400メートル、南北200mほどの台地だった。右側は、恐怖を覚えるような急な崖になっていた。
光瑤の一行の進んだルートが現在と同じルートなのか、それともすこし違うのか、正確なことは分からない。ただ、光瑤が撮影した《苦力の一群》と題した4種類の写真から、このピストップの台地を通過したことは確認できる。
![](https://assets.st-note.com/img/1731848329-Ga0czkW1eYx4s2g9oRr6nX7D.jpg?width=1200)
2《苦力の一群 其一》『印度行記』60ページ A group of porters No.1
3表題不明 富山県[立山博物館]編『石崎光瑤』89ページ nontitile
4《苦力の一群 其二》『印度行記』61ページ 色硝子板作品 A group of porters No.2
1917 photo by ISHIZAKI Koyo
4種類の写真とは、『印度行記』の白黒2枚と、色硝子板作品のカラー2枚、そして復刻版に収められた白黒1枚(トリミング後の可能性)である。
背景の山並みと人物の対比などから、撮影順は次のように推定される。
1枚目は、地表に雪が積もったばかりらしく足跡がよく見えている。
次の写真では、トリミングしたのか、背後の山は大きく写っている。3枚目も、ポーターの行列を右背後から撮影している。4枚目は、左背後に回り込んだ位置になっていて、背後の山も大きく見えるのでトリミングした可能性がある。
これらは現代の写真と照合して、ほぼ場所は特定できる。
![](https://assets.st-note.com/img/1731849119-Y36m1WVlzb8GZ2PXto0vgFIO.jpg?width=1200)
【Backlit Printing】Wikimedia Comoms
![](https://assets.st-note.com/img/1731849181-wX3gPBkKVqamFQDNhWLZ2xOr.jpg)
なお、シェシュナグへの山道を写真でゆっくり見たい人には、以下のWebサイトをおすすめする。
また、19世紀末、つまり光瑤の時代に近いアマルナート巡礼の歴史的写真については、以下を参照されたい。
吹雪の中の福寿草
ふたたび石崎光瑤『印度行記』の記述である。ピストップを登り切った後、次のように書いている。
恐ろしい黒い絶壁をきしるように狂う飛瀑や、その水源がどこに影を潜めたか分からない広い雪の原を過ぎ、左手にまた急峻な登り道が開かれた。仰ぎ見たとき、その上には背後に無限の雪の山を蔵した大削壁から、二、三ならず瀑布のかかっているのを認めたが、そこにたどり着いたころは激しい吹雪に包まれて、ただ削壁の存在が蜃気楼のように漸く浮き出づるにすぎなかった。
この一万幾千フィートの氷雪の世界に、岩の間に福寿草が最もみごとに黄金の花弁を幾十輪となく開いていたのは珍しい。飄々と吹く風につれて身辺を白尽する吹雪によって、われらはここに長くとどまることができなかった。
「広い雪の原」はピストップを登り切ったあとの台地あるいは高原で、4種類の写真が撮影された位置だ。「左手にまた急峻な登り道」の特定が難しい。現在のルートとは少し違う場所に道があったものと考えられる。実際、現代の衛星画像を詳しく見ると、夏の2か月足らずの間に数万人が行き来する現在の巡礼路は比較的平坦で幅も広く、一方、古い道の跡もわずかにみられ、アップダウンがあったことは間違いない。[2]
光瑤は、フクジュソウを見つけて感動するが、その場でスケッチする余裕はなかったらしい。それを胴籃に採集してシシュナーグの宿営地まで持っていくことになる。
![](https://assets.st-note.com/img/1732015265-BbF04XgTRQszvOc1ftIPiEWK.jpg)
281×185mm
富山県[立山博物館]編『石崎光瑤の山』(2000年)から転載
![](https://assets.st-note.com/img/1732015252-ExdTwCG1cYFz5f6UNRqjhrHJ.jpg?width=1200)
このパッスを下ったところには二、三種の動物のたどったあとがおびただしく印せられてあった。その中の一つを苦力は白豹だともいっていた。
「パッスの下ったところ」つまり峠Passを下った地点は、ブルズルカートBurzulkat(ブルズルコート)あたりと推定される。
![](https://assets.st-note.com/img/1731850245-rIBJTf0aGAjh7cuLQEpUFVRe.jpg?width=1200)
右《ブルズゴート附近の吹雪》色硝子板作品 Snowstorm near Burzulkut 1917
i色硝子板作品は富山県[立山博物館]編『石崎光瑤』2000年から転載
photo by ISHIZAKI Koyo
『印度行記』の本文にはこの地名が出てこないが、写真としては《ブルズコート附近の絶壁》が掲載されている。また、復刻版では別の図柄でカラーの《ブルズコート附近の吹雪》がある。シシュナーグにたどり着くまでに、光瑤が書き残した地名は「ブルズコート」の1か所だけで、記録文としては寂しいかぎりだが、吹雪のなかで果敢に撮影したこと自体は高く評価してよい。
ブルズルカート付近は、標高約3400メートル、谷が左岸側に大きく開けて、現代の夏の写真や動画を見ると雄大な眺めである。光瑤の写真は見上げるアングルで、画面上部には葉をつけていない木立が写っている。当時のルートが、現在よりも低い位置、川により近い位置を通っていたことを想像させる。
光瑤一行は東リダル川の右岸を上流に向かって進んでいる。
この先、現代の地図では、ゾジパルZojipal(Jojibal)、ナガコッティNaga kotti(Nagapatti)などの地名があるが、光瑤は書き留めていない。ゾジパルの手前では山道の分岐点があり、ソナサール湖・ソナサール峠経由でワーワン渓谷のスクナイへ抜ける道が昔からあるのだが、それは書き残していない。前述のハルバコハンロードとは好対照である。
![](https://assets.st-note.com/img/1731851382-gM4VyY0raoLjPxCXOUS863hw.jpg?width=1200)
Porters marching in a snowstorm 1917 photo by ISHIZAKI Koyo
![](https://assets.st-note.com/img/1731851417-WZNytbwj0OaDxmdEsGcJiF8z.jpg?width=1200)
The party resting in the snow1917 photo by ISHIZAKI Koyo
色硝子板作品 富山県[立山博物館]編『石崎光瑤』から転載
撮影場所を特定しにくい2枚の写真がある。『印度行記』の写真割り付けがおおよそ時系列であるとみれば、《吹雪中の苦力の行進》は画面右が山、左が川とみられるので、ブルズルカートかゾジバル付近で振り返るように下流側を撮影したものであろうか。また、《雪に憩う一行》は「憩う」とあるのでこの日の昼食時にでも撮影したものか。[3]
増える積雪、偉大な山脈
次の文章に出てくる「第二のパッス」はナガコッティにあたると推定する。ナガコッティを登ったあたり、川は蛇行する峡谷となってクッタガーティと呼ばれる場所になる。
第二のパッスともいうべき、とある連亘点へ上ったとき、一度姿を隠していた高い山脈が、今までの吹雪を欺いたように紺青の空に偉大な空線を浮かばせた。雪の量は次第に増して雪の中へどうかすると股まで落ちこむことは珍しくなかった。シカリーはいつも先頭に立ってこの急斜面の軟らかい雪に足場をつくり、また比較的堅い雪の絶壁に手がかりをこしらえたりして進んで行った。
このクッタガーティ付近で撮影したとみられる写真が『印度行記』の57ページと58ページの間に特別に挿入された1ページ写真《シシャナーグ連峰》であるとみられる。これは、現代の写真や動画と比べると、その稜線がほぼ一致し、光瑤の撮影位置をかなり正確に推定できる。
![](https://assets.st-note.com/img/1731851780-bXGY5UTEo6CrZdfmgeSi1nhs.jpg?width=1200)
1917 photo by ISHIZAKI Koyo
『印度行記』p57-58 ※白黒のみ
復刻版p138では「シシャナーグ連嶂」となっている
それは、クッタガーティ付近の坂を登り切ったところ、現代の巡礼路の少し上のあたり、標高3,620メートルと推定される。レンズの画角は約40度、連峰の稜線まで地図上では約3.5キロメートルである。これは、日本の北アルプスでいえば天狗平から立山三山を仰ぐような感覚になる。現代でも、ここで一気に山脈が目に入るので、撮影ポイントのようになっている。
手前の三角形の山は、ピスの台地からも眺めていた目印となる山である。
![](https://assets.st-note.com/img/1731852098-4mXsgQlY195UvRuK20OJedhP.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1732014983-QRnmxl4osj8F5fISqhw6bcHX.jpg?width=1200)
光瑤はシシュナーグ峰を17,035フィート(5,192m)と記しているから、この写真にシシュナーグ峰は含まれないようである。例えて言うなら、毛勝三山(毛勝山2,415m)を指してこれが立山連峰(最高峰大汝山3,015m)だというようなものである。[4]
やがてシシャナーグの湖水が、雪堤を破って走り出しているところまで来た。今夜の宿地が湖水を瞰下し氷河と向かい合ったところだと聞いた私はもう到着したと思ったが、なお幾度か起伏して丘陵を越してはるか彼方に位していた。
光瑤の一行はようやくシシュナーグ湖の入り口に立った。それが何時のことであったかは不明である。『印度行記』の1917年5月14日は、朝7時に出発と書いた以外は、夕方まで時間の記載がなければ昼食の記載もない。紀行文としては記録性に乏しく物足りない。
いよいよ次回、シシュナーグ峰の核心に迫る。シシュナーグ湖の近辺に、はたしてシシュナーグ峰という山はあるのか。(つづく)
◇
[1]『Tourist's Guide To Kashmir Ladakh, Khardo』(1918年)には「This ascent ia called " Pisu" (flea), or probably originally "Pisar" (slippery)」とあり、ピスはもともと「ピサール(滑りやすい)」という意味らしい。現在は、「Pissu Top」または「Pissu Ghati」とも呼ばれる。Topは高みという意味で分かりやすい。Ghatiは一般に谷や低地を言うが、登った先が谷や低地というのは理解しにくい。ピストップにしてもピスガーティにしても、坂の部分だけを指すのか、登り切った台地全体も指すのか、どの範囲までを指すのかは不明確である。またこの本では"Juniper"(ジュニパー)が唯一の燃料だと書かれている。ジュニパーはヒノキ科の常緑低木、セイヨウネズ。
[2]ピストップの雰囲気は、GoogleMapに付属する写真が比較的分かりやすい。
衛星画像は、「グーグルマップ」と同様、「カルトポ」も分かりやすい。https://caltopo.com/map.html#ll=34.06517,75.35522&z=12&b=mbh
[3]富山県[立山博物館]が2000年に編集した復刻版では《吹雪中の苦力の行進》を「シシャナーグの半腹、吹雪中の苦力の行進」、《雪に憩う一行》を「雪に憩う一行(シシャナーグ中腹)」としている。色硝子板作品の説明書きがそうなっていたようだが、そもそもシシュナーグの位置を特定しないまま「半腹」「中腹」の意味を吟味せずに、ここで記すと混乱を招く。念のため注意を喚起しておく。本文で記した推定の方が合理的である。
また、復刻版では、《雪に憩う一行》に「雪の小晴れの間には雪の中に露営する天幕を退屈まぎれに雪の上に予習したりなどして遊んだ」という『印度行記』64ページの記述を付しているが、意図が分からない編集である。「天幕の予習」の写真は別のものが『印度行記』に出ているので、ミスリードというべきである。反省点の一つになろう。
[4]富山県[立山博物館]編の復刻版134ページでは、なぜか「Shesh Nag(4,267m)」と比定されているが、その根拠は示されていない。光瑤が記した17,035フィート(5,192m)をなぜ尊重しないのか、理解できない。その齟齬について説明を省いた点は、復刻版に2つのある大きな問題点の一つと言わねばならない。復刻版では、カラー写真を重視するあまりこの重要な1枚《シシャナーグ連峰》を軽視して57mm×40mmという小さなサイズでしか扱わなかった。
光瑤撮影の《シシャナーグ連峰》と同じ撮影位置の動画は以下の通り。
(1)SHESHNAG LAKE FULL TREK
(2)Walk on Blue Water ? Frozen Sheshnag lake:Part-1
(3)Sheshnag Lake in Winter