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(4) 「印度行記」を読み解くために

石崎光瑤による「印度行記」は、大正8年2月15日発行の『印度窟院精華』の中に収められた紀行文である。約60000字、400字詰にして150枚という分量がある。全部で19章に分かれ、割り付けられた写真は95枚である。[1]

光瑤が帰国したのは大正6年7月26日で、緒言の日付が大正7年10月であるから、この本がまとまるまで約1年4か月かかっている。19章はすべてを書き下ろしたわけでなく、新聞・雑誌に寄稿したものをベースにして再構成している。

光瑤の「印度行記」のカシミール関係部分を分析するにあたって、特に『朝日新聞』の「カシミールの旅」(大正6年8月)と「印度山国の思出」(大正7年8月)との照合は重要な作業になる。[2]

「印度行記」全19章のうち、カシミール関係は第13章から第19章まで計7章で約27800字。全体の約46%を占める。約200日間のインド滞在のうちカシミール滞在が30数日で2割弱であったのを考えると、カシミールへの思いの強さがうかがえる。

『山岳』の帰国祝福ムード

光瑤は日本山岳会の会員である。大正6年7月26日の帰国直後に発行された機関誌『山岳』第11年第3号(大正6年9月発行)にはこうある。

「会員石崎光瑤氏昨来、印度に在り、特にカシミール地方に登山の目的をもって旅す。氏は画壇の一陣を占むる新進の日本画家なり。ヒマラヤの雄景氏の画嚢を満して帰る。本会は氏の帰朝を喜ぶと共に将来の雄躍を待つ。記事は乞ひて本誌を飾るべし」

『山岳』第11年第3号(大正6年9月発行)

同じ号の巻末には写真集『高山深谷』第9集の頒布広告があり、こう書かれている。

会員石崎光瑤氏昨秋より印度に遊び、カシミヤ地方に旅す。写す所の写真数十枚の内より選択して一集となして同好に頒つ。先に辻村氏のスウィスアルプスを一集として頒ちたる本会は再びカシミヤ山岳を一巻として頒つの光栄を喜ぶ

『山岳』第11年第3号(大正6年9月発行)

ずいぶんな喜びようである。ここで注意すべきは、ダージリンやサンダグフ、カンチェンジュンガなどの地名はなく、「カシミール」「カシミヤ」と書かれていることだ。光瑤の土産話はカシミールに重点があったとみてよい。

しかし、日本山岳会事務局の写真集出版予告は勇み足だったらしく、おそらく光瑤の発案で幻灯用彩色硝子板(昔のカラースライド)の上映会に切り替わったようだ。結局、光瑤が『山岳』に寄稿するのはかなりの間を空けて大正10年4月発行の『山岳』第15年第3号である。

『高岡新報』に帰国直後の記事

この『山岳』よりも早く、光瑤の帰国の情報を報じた新聞がある。

地元富山の夕刊紙『高岡新報』である。光瑤は常々、同紙の社長、木津太郎平(1875 - 1950)の支援を受けていて、渡印も木津の支援を受けていたことから、大正5年11月6日の日本出発から12月4日のボンベイ(ムンバイ)到着にかけて発信した書簡が短信「彩管を載せて」として紙面に3回掲載され、帰国時も7月31日付で速報がなされている。

この帰国直後のインタビュー記事は700字余りにまとめられたが、アジャンタとタゴール翁に触れた以外、6割以上がカシミールの話に充てられた。インタビュアーの好みでもあるかもしれないが、光瑤が熱く語ったことが反映されているとみて間違いではあるまい。

マハデュムの話はないが、シシャナグの話が出てくるので引用しておこう。

私はカシミアで善良な人夫頭を雇い入れたが、この男は誠に親切な男であった。日本人を大いに歓迎してくれる。その部落の人夫を五六名も引き連れて船に乗って川を渡り、シシャナグの高山に向かった。その流れを船が静かに下って行く四辺の風物は言語に尽くすことができぬくらい立派で、色々の花が咲き乱れている。人夫らは鄙びたコーラスを唄い出す。こうして部落を過ぐるごとにその土地の人夫を雇い、しまいには総勢三十人の大名行列になった。シシャナグの高山(一万七千尺)でも大風雪が起こり苦しめられ、漸く九死に一生の間に山を下った。何といっても印度の内地は実に現世における極楽浄土である。云々。

「印度の山岳を跋渉した光瑤氏」『高岡新報』大正6年7月31日3面
現代語表記にあらためています

これ以外に、京都日出新聞の黒田天外記者がインタビューした可能性があるが、詳細は不明である。

マハデュム登頂は当初省略?

そして重要なのは、『朝日新聞』の連載である。帰国後1か月もたたないうちに8月23日から「カシミールの旅」(全4回)が、1年後の8月7日から「印度山国の思出」(全6回)が寄稿されている。[3]

帰国後おそらく最も先に書かれたのは「カシミールの旅」である。ここでは、成功したはずのマハデュム登頂がほぼ省略され、連載後半でシシャナーグの登山断念を中心に書かれている。

そして1年たって、すべてを見つめ直してから書いたのが後の連載「印度山国の思出」である。その冒頭、次の引用部分は、光瑤の気持ちが現れているので、ぜひとも読んでほしい部分である。「印度行記」には採用されていない。

私は雲の多い、花の豊かな、その山国に暮らした折の日記をたどってみた。リダルバアレイの高峰シシャナーグの氷河の傍に、雪に埋もれた湖水を眼下に見ながら、四昼夜にわたる大風雪に災いされて、携えた白樺の枝を焚き、羊を屠りながら、三十人の苦力とともに、苦楚を嘗めた陰惨な旧記よりも、ゼラム河とダル湖およびマハデュム峰の晴やかな行進が、嬉しい思ひ出の一つである。

「印度山国の思出」『朝日新聞』大正7年8月7日

陰惨な旧記」とは連載「カシミールの旅」を指す。なぜ「陰惨な旧記」から新聞連載を始めたのか。

私は印度の古代芸術と熱帯景観に対する目的を片付けた後、この国へ来たというのは、性来の登山癖からの衝動でもあった。この美しい山岳国に来て、朝に夕に、黄金と栄え、瑠璃るりと澄み、瑪瑙めのうと照る、氷雪の山々を眺めては、当時の感激から起こる胸の動悸は、今も思い出でてもなお高鳴りするのを禁じられない。

「印度山国の思出」『朝日新聞』大正7年8月7日

凡人の感覚なら成功体験だけを胸を張って紹介したいところだ。登頂できなかったけれども最も印象に残った出来事を最初の連載に書いた意図は何か。

後世の人々はいつも「マハデュム峰登頂」を強調して書くが、あの世の光瑤の気持ちを斟酌するなら、シシャナーグをもっと読み解かなければならない。

次回からいよいよ107年前にタイムスリップしてカシミールへの旅を追う。
(つづく)

[1]19の章に分かれている
1 エレファンタ嶋のシバ窟院
2 孟買近傍
3 アジャンタ窟院
4 エルーラ窟院
5 甲谷陀、博物場、シブプールの植物園、極楽鳥
6 金剛寳土よりサンダクフ山上
7 タイガヒル
8 ダージリンよりジョウボクリへ
9 ジョウボクリよりトングルへ
10 トングルよりサンダクフへ
11 仏陀伽耶、鹿野苑、およびベナレス
12 アグラおよびデリー
13 迦濕密羅王国
14 ゼラム河舟行
15 パルガム谿谷
16 山芍薬
17 タイニン谷
18 シシャナーグ峰
19 風雪の山

[2]光瑤インド関係雑誌記事
「カシミールの旅」『朝日新聞』大正6年8月23日~26日 4回連載
「印度山国の思出」『朝日新聞』大正7年8月7日~15日 6回連載※
「印度の自然美」『芸術』1巻1号(大正7年11月)
黒田天外『一家一彩録』大正9年 黒田によるインタビュー記事
甲谷陀カルカッタより金剛宝土ダージリン及サンダクフへ」『山岳』第15年第3号(大正10年4月)
「迦湿密羅の並木」『新亜細亜』昭和14年11月号

[3]「カシミールの旅」は、国会デジタルコレクションで簡単に読むことができます。『新聞集成大正編年史 大正6年度版』下 https://dl.ndl.go.jp/pid/12229221/1/179


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