見出し画像

2. 失われた地名に歴史ロマン

覚醒とは大げさな、という人もいるだろう。

福光から大白川渓谷の入り口まで現代では車で1時間半だが、明治時代末は3日ないし4日もかかる。それだけ遠い所へ三たび、しかも季節を変えて足を運ぶとは、よほどの趣味人でないとできないことだ。

石崎光瑤が明治41年(1908年)秋、2回目の大白川渓谷を旅して書いた紀行文が、山岳会の機関誌『山岳』に残っている。

表題は「小矢部川上流より越中桂、飛騨加須良を經て白山地獄谷附近の秋色を探る記」。34文字、やたらと長い。光瑤24歳、山岳会の会員となって初の寄稿、つまりデビュー作であり、本文は約13000字ある。前書き部分で、前年夏の1回目の白山の旅を思い出してこう書いている。

百尺断岩が削立しょうりつして、水晶のような清流が、その間を水煙をたてて縫うていく。深山の渓谷には、真夏の昼として、絶好の趣味を味わうには物足らぬ心地もする。しかしあの蓊欝おううつたる大森林帯が、がぜん数百尺の断涯に尽きて、その中から轟然ごうぜん落下し来る瀑水の、迂余曲折「ハコヌキ」と称する狭い暗い峡間を、ゆるやかに流れ来って「シナクラ」「ベンツル」の絶壁の下を音を立ててほとばしり注ぐ崇厳雄渾なる景は、称するに足るものがある。でこのあたりの神々しい風景は、深く脳裏に印せられ、爾来常に当時を追想してはいたずらに夢裡にこの大自然に親しんでいた。

『山岳』第4年第1号(1909年3月25日発行)
※以下、引用はすべて読みやすくするため、漢字や句読点をあらためています。

代々これが美文だと評されてきたけれども、一体どこが美文なのか。

現代人にとってはとてつもなく難解だ。漢語があまりに多い。いくぶん気負いも感じられる。よく言えばみずみずしい。

「ハコヌキ」「シナクラ」「ベンツル」。私の脳裏にはこれらの地名が深く刻まれた。1950年代のガイドブックにかろうじて残っているが、現代のWeb地図には出てこない。

失われた地名になぜか歴史のロマンを感じたのである。(つづく)

表紙写真はウツギの花

「平瀬歩危」(ひらせほき)
『飛騨山川』(明治44年)所収
石崎光瑤撮影(明治末期)
※平瀬歩危は庄川本流左岸の難所
「歩危」の地名も忘れられつつある

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?