第3章第2節 両親との死別と孤独
片親の母は裁縫教師
大井冷光は明治18年(1885年)10月24日、富山県上新川郡常願寺村(のちに中新川郡西三郷村常願寺、現在の富山市水橋常願寺)の農家に生まれた。[1]一人息子だったらしい。本名は信勝(のぶかつ)という。父安次郎は、信勝が生まれる7日前に20歳の若さで亡くなった。「信勝」という命名は父の遺言であった。[2]自伝的創作『赤い祭』『うまれた家』が事実だとすれば[3]、数えで7歳か8歳ころ、母に教えられて唱歌をよく歌い、若武者のような父の写真に線香を立てて御詠歌のまねをするのが好きだったらしい。また、16歳から18歳にかけての『波葉篇』日記[4]で、父の祥月命日にあたる毎月十八日にたびたび「父君の日」と記し、父に思いを巡らせている。
明治24年4月、家の向かいにある西三郷村立常願寺簡易小学校に入学した。母タケが、ちょうどその学校の裁縫教師をつとめていた[5]ので、学校は遊び場のようなものだった。タケは眼の持病があり、明治27年にはひどくなった。そこで魚津の法華寺の仁王様へ祈祷にいった。8歳になる信勝もついて行ったという。
またあるとき、タケは自宅から10数キロ離れた滝修行で知られる大岩山日石寺を訪れ、不動明王に祈願した。これは信勝が15歳のとき「瀧の音」という回想文に書き残している。[6]大岩山の不動の滝を再び訪れた信勝は「瀑前の岩に黙座して幻夢の如き懐旧の涙に暮るゝのみ」と記し「幽韻なる瀧の音と共に、我が母君の祈願の御声の、彼の洞窟より響き渡りしうこともありしならん」と書いている。タケは明治28年1月27日に死去した。信勝は9歳、尋常小学校4年だった。
雑誌『トヤマ』51号附録「トヤマ少年」には、冷光が自分の子ども時代を思い出して「金絲雀」というエッセーを書いている。それによると、小学校の低学年のころ、タケに1羽のカナリアを買ってもらい、籠に入れて飼っていた。籠から出しても逃げないということで、大層かわいがっていた。「お母さんとそのお婆さんと、僕との三人暮しの淋しい家庭の幾年かをこの一羽の金絲雀が僕の友達となり唯一の玩具ともなつてくれました」という。
父の実家に引き取られる
両親と死別した信勝はその年の春、尋常小学校を卒業し、新庄の高等小学校に入学した。しかし、約3か月後、家族がいない家を整理することになり、父安次郎の母である祖母と、安次郎の1歳上の姉にあたる伯母のもとに引き取られた。大井家は、タケが一人娘で祖父母がすでいなかったらしい。入り婿の父の実家も跡継ぎが病気で結局、次女が跡を継いでいたようだ。伯母の家は常願寺川を挟んで向こう岸の上新川郡太田村西番(現在の富山市西番)にあった。伯母の夫は教師で太田高等小学校で教えていた。[7]信勝はその小学校に移った。
伯母には2男3女の計5人の子がいて、信勝はそのいとこたちと一緒に育てられた。そのうちのニ女が、のちに冷光の妻となる文である。末っ子の二男が生まれたのが明治31年、三女が生まれたのがその3年前と見られるので、信勝が引き取られたときには4人または3人のいとこがいたと推測される。
自伝的創作『うまれた家』が事実だとすると、冷光の実家は取り壊されて稲荷堂の跡だけが残り、父の写真もこのとき無くなったという。
伯父のお伽噺に関心
伯母の家に引き取られた後、3か月ほどして、大切にしていたカナリアが死んだ。「大事な僕の幼な友達の金絲雀が伯母の家の四畳半の箪笥の上で日中何物にか襲はれ生血を吸れてあれ非業の最後を遂げてしまつた」という。
冷光は「孤独な少年時代」だったと振り返っている。そんなとき、「十一歳の暮に、伯母の家の囲炉裏端で伯父が初めて小波氏のお伽雑誌にのった『天狗杉』を聴か」せてくれたのである。これがお伽噺に興味を持つきっかけとなった。冷光は35歳のとき自著『母のお伽噺』の前書きで綴った自伝にそう記している。[8]
きっかけが伯父と書かれていることには、深い意味が含まれている。『母のお伽噺』で記すのであれば、きっかけが母なら本当は都合がいい。しかし事実は、母でもなく祖父母でもなく、育ての親つまり引き取られた先の義理の伯父なのである。作家の岩倉政治は1990年の論稿で、冷光が童話作家になったのは母の教育と感化が影響したのでないかとみていた。明治十年代に農村には珍しい小学校教員で、教育的童話や絵本の類を信勝にあてがったのではないかとの推測である。[9]たしかにそのような面もあったのかもしれないが、冷光自身は父親代わりの伯父が読み聞かせてくれたことが強く印象に残っていた。
伯父は小学校教員であったから、児童雑誌などをよく手にする機会があったのであろう。しかし、この伯父は明治38年、相場で失敗して多額の借金をつくり、家族を置いて逃げることになる。信勝が人生のどん底に落ちる原因をつくった人物なのである。
信勝19歳の日記には、伯父を蔑視するような記述がいくつも出てくる。伯父に対して強い憎しみがあったちがいない。冷光は数年後、お伽文学や児童雑誌の世界に身を置くようになって、あの憎い伯父がきっかけを与えてくれたという事実に当然向き合っていたはずである。しかし、それを文章にしたのはようやく35歳のときである。伯父の存在を冷静に見つめなおすまで、16年という歳月が流れたということになる。
中学校全焼で進路変更
信勝は明治32年春、太田高等小学校を卒業。富山県第一中学校(旧制富山中学、明治34年から富山県立富山中学校)に進学した。中学に入学するほどだから、賢くて教育資金もあったということだろう。富山市星井町の下宿に4人の同級生と居たが、明治32年8月12日、富山市街地で4700戸を焼く大火があり、夏休み中の中学校と下宿も全焼してしまった。暮れから翌33年春にかけて、千石町の牛乳屋で師範学校の奥村精一という農業教師と同宿した。その奥村に感化されたかどうかは分からないが、どうにも農学校に入りたくなったという。32年に文部省農業学校規定が公布され、富山県の農学校は簡易学校から実業学校としての制度が整えられた。農業は当時の基幹産業であり、農業の道を志す若者が少なくない時代であった。目的が不明確なまま中学で学ぶより、実学を学んで農業の指導者になる。信勝もそう考えたのだろうか。[10]
◇
[1]明治38年に書かれた自伝『波葉年表』によると、父安次郎が亡くなったのは明治18年10月18日で、それから7日目の納骨が終わった午後に冷光は生まれたという。17歳で書かれた『波葉篇』日記(明治35年11月24日)に従うと11月24日、20歳で入隊したときの軍隊手帳では11月7日。また、35歳で書かれた『母のお伽噺』前書きの自伝では「大正九年十一月七日 第三十六回誕生の日を迎へて」とある。山内秋生「十月二十四日の印象」『少年』147号(大正4年12月)には、この日が冷光の誕生日で有楽座で観劇したあと冷光宅で祝杯を挙げたとある。
[2]『波葉篇』日記、明治38年1月11日。信勝は19歳になって初めて伯母から自分の名が父の遺言であったと聞かされた。
[3]「赤い祭」は『お伽舟』(1914年)に、「うまれた家」は冷光の死後出版された創作童話集『鳩のお家』(1921年)に所収。「うまれた家」は、「赤い祭」を改編した作品。改題『鳩のお家』『母のお伽噺』の2作品は国会図書館がインターネットで公開している。米田憲三「夭折の童話作家と富山―作品にみる大井冷光像―」『とやま文学』8号(1990年)に、「うまれた家」が自伝的な記述であると指摘されている。
[4]『波葉篇』日記は、明治34年1月31日から明治38年3月31日まで、15歳から19歳にかけての日記を、冷光本人が明治38年9月27日までに清書し、編さんを終えた。日記は取捨選択されたようで、ところどころ「云々」と省略され、本人による括弧書きの注釈が付いている。『波葉篇』の存在は従来から知られていたが、富山市の郷土史研究家、大村歌子氏によって冷光の親族宅から発掘され平成9年、『天の一方より』(1997年、桂書房)に日記と付録がまとめられた。『波葉篇』は雑纂・日記・付録からなる。雑誌編集者としての原点を読み解く上で貴重な資料になっている。
[5]米田憲三編「大井冷光年譜」によると、タケが教師だったのは明治23年から明治26年までである。「夭折の童話作家と富山―作品にみる大井冷光像―」『とやま文学』8号(1990年)p152-153。
[6]「瀧の音」は、明治34年7月稿、『波葉篇』雑纂に所収。井上江花によって新聞連載「冷光余影」(『高岡新報』大正11年4月1日)にも掲載された。大村歌子編『天の一方より』1997年で読むことが出来る。なお、大岩不動に祈願したという部分は創作である可能性を残している。なぜなら、自伝『波葉年表』には魚津の法華寺の話しか記載されていないからだ。母タケと信勝が写った貴重な写真が、櫻井那津子画・大村歌子編『うまれた家』(2001年)p44に掲載されている。
[7]伯父は明治18年から19年にかけて上新川郡内の小さな小学校の校長をつとめていたことが郷土資料から分かっている。
[8]冷光は「天狗杉」を聞いたのは「11歳の暮れ」としている。11歳が数え年ならば、冷光は明治18年生まれだから、明治29年の暮れにあたる。しかし、巌谷小波のお伽噺「天狗杉」が掲載されたのは『少年世界』3巻5号(明治30年2月)であり、ズレがある。この点はさらに詳しい調査が必要である。「天狗杉」については面白い記事がある。『富山日報』明治42年4月19日の3面。「天狗杉の祟り 庄川雄神橋の上流にありたる杉の大木は天狗杉と称し之れに触れるは祟りありと称して何人も之が枝葉を傷くるものなかりしが改修工事の結果什麼しても之を伐採せざるべからざりるに至りたるを以て過般本県庁にては百数十円の価ある此天狗杉を同地にて随分荒くれ男の名ある某に僅か四円にて払下げ同工区の監督吏員立ち会つて過日伐採したるがその後間もなく伐採に立会つたる監督吏員が病気に罹り病床に呻吟するに至りたるより同地の人々は是れ天狗杉の祟りたるものなりとて今更畏怖の念を懐きつゝありといふ」。こうした記事を書く記者と言えば、富山日報では当時、大井冷光であろう。これより半年前の明治40年10月、高岡新報記者だったにときに演習従軍記を書いたが、そこにも「天狗が棲むてふ前田某の旧跡城」などと突然、天狗が登場する。後の天界通信にも天狗は出てくる。冷光はお伽思考の人なのである。
[9]岩倉政治「児童文学者 大井冷光再見」『とやま文学』8号(1990年)p134。
[10]転校の経緯は、明治38年に書かれた自伝『波葉年表』(井上江花「酉留奈記」204『高岡新報』大正10年8月5日)による。大村歌子氏の調べでは、富山中学校への退学願は明治33年6月6日であるという(「大井冷光没後80年 大井冷光まつり資料」2002年1月、「童話家・登山家 大井冷光の資料を追って」『近代史研究』第34号2011年)。また、『校友会雑誌』13号(大正3年)に寄稿した自伝的小説「Cabin-boy」が、事実に基づく記述だとすれば、大火のあとの2学期から、信勝は約9キロ離れた家から徒歩通学を余儀なくされた。おそらく往復5時間以上もかかる徒歩に耐えられず、信勝は伯父に下宿を願い出るが、うまく話が進まなかったらしい。実際、富山中学校は1年以上寺を借りての授業で、校舎が再建されるのは翌33年秋のことである。農学校への転校のきっかけをつくった奥村精一については、明治40年4月3日の日記に8,9年ぶりに会ったと記されている。(2012/10/14 13:32) 2018/06/02追加 2024/4/4誕生日について追記
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