見出し画像

(6) 神の山マハデブの眩惑

大正6年、石崎光瑤はヒマラヤのマハデュム峰(3966m)の登頂に日本人登山家として初めて成功した。

このような文章を読んで「偉業を成し遂げた」「快挙を達成した」「未踏峰を制覇した」などと早合点してはいけない。

この文章は大きく間違っているわけではない。が、これだと「ウォルター・ウェストンは1893年、越中立山の登頂に成功した」と書くようなものである。江戸時代後期から立山登拝という信仰登山がすでに盛んだったことを考えれば「登頂に成功」という表現はいささか大げさなのだ。山固有の歴史を踏まえたうえで、当時の尺度でどれほど難しい登山かを調べたうえで記さなければ、ミスリードになりかねない。[1]

功名心ない登山家

翻って石崎光瑤のヒラマヤである。「日本人登山家として初めて」はおそらく正しいだろうが、外国人登山家たちがヒマラヤの7000メートル級の高山に挑んでいた時代に、日本人登山家が4000メートルに満たない山に登頂したからと言って、「登頂に成功」というのが妥当かどうか。[2]

光瑤自身は紀行文に「成功した」「制した」などと記していない。功名心のほとんどない人、いやあったとしても前面に出すことを潔しとしなかった人である。

1909年の剱岳登頂もそうだった。「登山家として初登頂」などと自ら記したことはない。剱岳登頂は、カメラ機材を運び上げた宇治長次郎という名ガイドと中語たち(荷担ぎ)がいたから実現したのだ。後世の人々は光瑤の偉業のように書くが、それは光瑤が終生抱いていた思いとは違うのではないか。光瑤の本意をしっかりつかまないといけない。

スリナガル周辺の著名な山

そもそも、と違和感を感じている人もいるであろう。

ヒマラヤって、8000メートル級が14座、7000級は100以上もあるはず。6000メートル級とか5000メートル級とか、名も無き山が無数あるんじゃないの。4000メートルに満たないマハデュム峰なんてホントにあるの?

ヒマラヤの8000m級の山と、カシミールヒマラヤの主な山
下図はGAIAGPS

発想をすこし転換したほうがいい。

ヒマラヤでは名無しであってもおかしくない「低山」なのに、山の名前があるということは、それだけ人々の生活圏に近い、由緒ある山だったということなのではないか。

マハデブは、カシミールの古都スリナガルに近く、カシミール盆地Kashmir Valley を広く見渡せる場所にある。「マハデブ」が神を意味する山名であるなら、人々は古くからこの山に「遥拝」なり「登拝」なりしてきたのではないか。この推論がどこまで正しいのか、この稿の後半で詳しく述べたい。まずは、光瑤のマハデブ登山を『印度行記』に基づき、現代風にアレンジして書き進めていこう。

英国陸軍地図(1922年;25万3440分の1)
米国テキサス大学図書館のマップコレクション
Great Britain War Office, Series 3919 & 4218

ダル湖からダーラ村へ

1917年(大正6年)5月2日午前8時40分。スリナガルのラルマンディ(標高Lal Mandi;1585m)から、マハデブ峰に向けていよいよ出発だ。この日は、麓にあるダーラ村(Dahra;1890m)まで約25キロメートルの移動であるから、朝早くない。

1910年前後のスリナガル市街図
A handbook for travellers in India, Burma, and Ceylon 1911
ジェラム川が市街地を南から北へ貫流するすこし手前の左岸がラルマンディ
この地図にはラルマンディは出ていない
「SHER GARHI」が「王の離宮」にあたる。

【1917年5月2日の行程】8:40ラルマンディLal Mandi~王の離宮前から運河に~チナールバッグChinar Bagh~11:00イラリヤールの村~ジャガドカンプールの橋をくぐる~11:30ダル湖に出る~12:30チャーチナールChar Chinar island~シャラマルバーグShalamar bagh~15:00ダーラ村

「印度行記」『印度窟院精華』1919年

ハウスボートからドンガーdoongaに乗り移った。ドンガーは、いまのシカリ(小舟)よりもやや大きい舟である。

《ハウスボートより旅立つ朝》
左が全体、右上下は部分
The morning of departure from the houseboat1917 photo-by-ISHIZAKI-Koyo
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載

『印度行記』では「マハデュー、ハンデルの二峰を登れば、一度帰ってリダルバアレイに向かう予定で荷物の一部はボートに残し」とある。

馬で陸を行くよりも情緒があるだろうと、舟で湖を横断するルートを選んだ。スリナガルは水の都だった。大きく蛇行してゆったり流れるゼラム川と湖を結ぶようにいくつもの運河が通じていた。

舟は、街へ用事に出たポーターの1人を拾うために国王の離宮(Sher Garhi Palace)の前から運河に入った。チナールバッグChinarbaghという地区の両岸には野生の白いアザミが咲き、寺の屋根一面に濃い紫色のイチハツが咲いていた。

《迦湿密羅王の離宮》
The Detached Palace of the Kashmir Kings1917_photo-by-ISHIZAKI-Koyo.
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載

一行は、ポーター8人、シカリーのアッサドと、カンサマという料理長の人物、そして光瑤を加えて計11人になる。

11時にイラリヤールの村を過ぎ、ジャガドカンプールの橋をくぐって11時半にダル湖 Dal Lake に浮かび出た。ダル湖は、周囲約15キロメートル、面積は約22平方キロメートル、日本の田沢湖か摩周湖ぐらいの大きさだ。ほぼ真北に位置するハラムク(Harmukh;5142m)の峰々を見て、舟は左へ悼をさして進んでいった。[4]

スイレンの花が咲くところへ来た。白い服の若い2人の女性がその花を摘んでいた。4人の漕ぎ手が揃いの緋の羅紗の服に雪のように白いターバンを頭に巻いているのが印象的だった。

《ダル湖付近の水村》
左が全体、右2枚は部分
Waterside village near Dal Lake1917-photo-by-ISHIZAKI-Koyo
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載

12時30分、4本のチナールの生えた小島Char Chinar islandを左にすれすれに通って狭い運河の中へ入った。両側にはヤナギが植えてあった。光瑤たちの舟が着くのを、9人のポーターが待っていた。

荷物の積み下ろしが始まった。アッサドが次々に檄を飛ばしてキャラバンを編成していく。シカリーの統率力を目の当たりにした。スケッチをしている間に、結局16人のポーターに荷物が振り分けられて、シャリマルバーグShalimar baghに向けて行進をはじめた。[4]

シャリマルバーグには、約300年前につくられ守り継がれてきた庭園があった。[5]

山が近くなり、周囲の水田では牛耕が行われている。それは日本の風景にどこか似ていた。

花壇にはヒヤシンスやチューリップや三色スミレが植えられ、リンゴの花が盛りだ。漆黒の大理石でできた宮殿は、花模様の装飾と噴水が印象的だった。

庭園からマハデュー峰の雪景を眺める。それは「京の御苑から東山を望むよりも迫って」見えた。いわゆる借景という眺めなのだろう。静寂な苑内には、ヤツガシラの一種、現地の言葉でサトトルと呼ばれる鳥が、芝の上を遊んでいた。

5月にしては暖かすぎる。そう思った矢先、大粒の雨が落ちてきた。山の上に稲妻が走る。

レインコートをつけて道の見えない広い川原を急いだ。アッサドは先頭で速足だ。「彼の大股は五尺七寸に近い自分よりもはるかに有利な条件をもっていた」。

息が弾み、胸が「裂くるように波打ってきた」。曲がりくねった坂道を上ると、農家に親子の斑馬がいた。息を整えて振り返ると、雨後の激しい風にあおられながら歩くポーターたちの姿が見えた。

渓流を渡渉して、ダーラに着いたのは午後3時だった。ランダバル(村長のような人)が白いづくめの装束で迎えてくれた。

ポーターたちはすぐにテントを張った。雨がやんだのでスケッチの時間を過ごす。午後6時ごろ天気は回復した。

「峰の一角が白い雪と黒い削壁とを暮色の裡にハッキリと光らせて居た」と光瑤は書く。正確にいえばダーラからマハデブ山頂(3966m)は見えないはずだ。東南東の尾根筋の先に3756メートル(標高差1832m)のピークがマハデブを隠すようにそそり立っていて、そのあたりが見えたのではないか。マハデブは、ダーラから地図上の直線距離で約13キロメートル、トレッキングルートとしては約20キロメートルある。

花の渓谷をゆく

翌5月3日朝。太陽の周りに暈があった。

「天気はどうか」

アッサドに尋ねると彼は「いとも真面目に」答えた。

「ブッダがすべてを知らしめす」

ターバンを巻くアッサドは仏教徒でないだろう。とすれば、仏教国日本から来た光瑤に対するウイットだったのかもしれない。

この日は、ベースキャンプにあたる標高約3300メートル地点を目指す。約15キロメートル、獲得標高1400m、ひたすら歩けば約6時間の行程だ。途中のスケッチや写真撮影を考えて余裕のある山旅である。

午前8時半出発。すぐに木々の茂る山へ分け入った。渓流の音を聞くと、懐かしさがこみあげてきた。

《ダーラ村山中の奔流》左が全体、右は部分
rapid-stream-of-Valley-ented from Dahra Village
1917 photo by ISHIZAKI Koyo
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載

「日本アルプスと手を別って以来ここに初めて奏でらるる音律であった」

インドに来てから神聖なるガンジス川を見てきたが、水の美しさを感じたことはなかった。1月にサンダクフ(Sandakphu;3636m)を旅した時、リゾラント川の深い谷底の瀬音を聞いたが、このとき滝はすべて凍っていて音は聞こえなかった。

久しぶりに渓谷の音を聞きながら行く旅だ。光瑤はうれしくてたまらない。

クルマユリのような赤い花の群落があった。現地の人は「エムブラザール」と呼び、花から分泌される露は眼の病に利くともいう。[6]

(左)エンブラザールの花の群落 flower of Emblazar
(右)マハデュム中腹におけるエムブラザール花の群落
Colony of Emblazar flowers on the way to Mt.mahadev
1917-photo-by-ISHIZAKI-Koyo
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載

9時半ごろに右岸に徒渉、10時にまた左岸に徒渉した。

出発から2時間、ちょっとした平たんな場所についた。標高2360m地点あたりと推定する。

「帰りに天候がよければここで一日で花の写生をしたい」。光瑤はアッサドに言った。

異国の高山植物にはじめて接した気がした。「白に紅の染め分けになったようなサフランの一種が非常にやさしい」。あまりに美しいので、通過するのが惜しくなってここで1時間半ほど写生した。

アッサドは先を急ぎたくなったのか「今夜の露営地は雪の中だ」と言った。

雪と聞いて光瑤は早くそこへ行きたくなった。ひととおり写生を済ませると歩きだした。

また渡渉する。「もう雪の塊が岩かげに見えるようになって、水の冷たさは漸く山の深さを語るようになった」。

その冷たい流れの際に薄紫のサクラソウが美しく咲いていた。根をきれいに洗い、ハンカチに水を含ませて大事に包んで胸のかくしに挿んだ。

キルミッチューという灌木が花盛りで、清らかな香りを一面に漂わせていた。

(左)マハデュム峰の針葉樹林
Coniferous forests of Mahadem Peak
(右)谷を飾るキルミッチュ―の花
Flowers that color the valley
1917-photo-by-ISHIZAKI-Koyo
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載
※左の写真の左下部が右の写真の右上部と同じなので、
まったく同じ場所から撮影したもの

一行とはぐれて迷う

光瑤はここでも写生を始めた。そばには、光瑤の専属で始終随伴しているアブドラもマハラデューがいる。

少し遅れて村を出たポーターたちは、自分たちを通り越して、すぐ上の山の一角でがやがやと語り合ったり口笛を吹いたりしていた。その口笛は飛騨山脈で熊追いに呼ぶ叫びと似ていて、抑揚があって遠くまで鳴りわたった。

あたりは雪に覆われ、ヒマラヤ杉の谷には雪崩の跡もあった。マンナルというクジャクに似た鳥が奇声を発して去っていった。[7]

下図は「GAIAGPS
現代の登山道とほぼ変わらない道を石崎光瑤の一行は進んだとみられる

ポーターたちのざわめきが聞こえるすぐ上のほうに露営地があるのだろう。光瑤はゆっくり写生していた。アブドラもマハラデューもただ待っていた。

従者アブドラとマハムデュ
Servant-'Abdullah'-and-'Mahamedu'1917-photo-by-ISHIZAKI-Koyo
石崎光瑤「幻灯用彩色硝子板」71点をもとにした
写真集『石崎光瑤』(富山県[立山博物館]2000年)から転載
この写真は、『印度行記』P41に割り付けてあり、
キルミッチューの写真よりは低い標高で、エムブラザールの写真と同じくらいか
やや標高の低い地点で撮影された可能性が高い

その時の写真が『印度行記』に出ている。同じ図柄の幻燈会用の手彩色写真を見ると、いかにも長閑な早春の光景である。水が印象的な青だが、これはどこまで現実に近いのであろう。

約1時間で写生を切り上げ、さあ露営地へと山の一角を上った。が、そこには誰もいない。アブドラとマハラデューが口笛を吹いたが、返事がない。光瑤はようやく勘違いに気付いた。

露営地はまだまだ先なのだ。アッサドとポーターたちは先に行ってしまったのだった。

方角が分からない。雪の上の足跡を探すが見つからない。そのうち夕暮れとなり、寒気が襲ってきた。30羽ほどのイワツバメの類が光瑤たちを哀れむかのように飛んでいった。500メートルか600メートル登って、足跡を見つけた。いつの間にか違う谷に入り込んでいたことにようやく気づいた。[8]

標高3000メートルを超えたのか、空気が薄い。腹が減ってきた。雪の斜面をあえぎながら登る。ヒラマヤ杉の木立を縫うように行くと、ようやく露営地が見えた。アッサドはいち早く光瑤を見つけて、ふかしたてのショウパテと熱い紅茶をもって迎えに来た。

月光のベースキャンプ

ここから先は

11,061字 / 12画像

¥ 200

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?