第2章 針ノ木越え再び
俗人を近づけぬ憧れの山
石崎光瑤の『日本中央アルプス跋渉』は、『高岡新報』の明治43年8月5日から9月11日まで連載された約35000字の長編である。漢詩をたしなんでいたからか、難しい漢語表現が多い。美文調という現代の評価もあるが、当時の新聞読者にとってはいかにも高尚であり、光瑤の気負いも感じられる。おそらく前半部分は旅の途中に書き溜め、大町か松本に着いた時に新聞社へ郵送したもので、残りは上高地から富山に戻って書いたものであろう。
連載冒頭の2回は「発端」と題してこの旅の動機を記す。まず立山に登頂した時に見渡した山々を次々に解説していく。9つの峰のうち、槍ヶ岳についてこう書いている。
光瑤は明治39年、初めて立山に登り、森林限界を超える神々しい山の連なりを見た。翌40年、白山に登り、裏山越しで険難で知られる大白川の渓谷を下りた。明治41年夏に立山から針ノ木越えを敢行し、秋には再び白山山麓の大白川を旅した。大白川の渓谷を評したときにもこう書いている。
登山の魅力にとりつかれるうちに、光瑤の中で槍ヶ岳は特別な憧れとなっていた。「俗人を近づけざる」山、剱岳もそうだった。登山を始めて4年目の夏に剱岳登頂を果たし、5年目ついに槍ヶ岳に挑むことにしたのだ。
おそらく光瑤は、自分の紀行文が初めて載った『山岳』第4年第1号(明治42年3月)を熱心に読んでいただろう。そこには、高野鷹蔵(1884-1964)が「上高地の記」という当時としては最も詳細な「上高地ガイド」を書いている。
再び『高岡新報』連載の「発端」を引用しよう。
槍ヶ岳への思い入れが感じられる。そして光瑤は、ウォルター・ウエストンが槍ヶ岳をマッターホルンと並べて称賛していると書き、山岳会に言及する。
同じ槍ヶ岳登山であっても、都会から汽車を使って行くのと、富山から針ノ木峠を徒歩で越えて行くのでは違うと主張し、自らの登山の意義を強調している。
この明治43年、北陸線は4月16日に魚津-泊間が開通したところで、東京と北陸を短距離でつなぐ「富直線」は開通していない。富山から鉄道で松本に行くには北陸線・東海道線経由でわざわざ東京に出なければならない。それなら徒歩で針ノ木越えか安房峠越えかと考えたのであろう。それにしても「行者の荒行にも似たる艱苦」を選んだのはいかにも「越中人士」26歳の光瑤らしい。地方に生きる人の気概というか反骨心というか、負けず嫌いが自らを奮い立たせているのである。[1]
満を持しての槍ヶ岳登山であった。
高山植物を愛でる
ではこの連載にしたがって順に、13日間か14日間かと見られる山行を追っていこう。
第1日は富山から立山温泉、第2日に立山温泉を午前6時40分に出発した。案内人は岩峅寺村の佐々木浅次郎(39歳)と他1名とみられる。佐々木は前年7月の剱岳登頂にも同行した。
光瑤の紀行文は、とにかく花に関する描写が多い。チョウシギク、ナデシコ、フジバカマ、袴桃に似たヤナギソウの花、苫尾花、ハクサンオミナエシ、ムカシヨムギ……。この1回だけでも25種の植物名が出てくる。
「新湯ヶ池」の下へ出て、佐々木らを待たせておいて、新湯で玉滴石を見た。「池一面に湯気が濛々と立騰ってるが、地獄谷のそれの様な凄惨な状がない」と書き留めている。
そしていよいよ「佐良佐良峠」[ザラ峠2342m]に向かう。標高2100m付近、ジグザグに登る道のわきに広がるお花畑についてこう述べている。
先年とあるのは明治41年である。光瑤は明治41年8月、立山に登頂後、針ノ木峠を越えていったん大町に出てから白馬岳に登った。針ノ木越えは2年ぶり2度目になる。紙面には「立山佐良佐良越」と題した写真が掲載されているが、これは『山岳』に掲載されているものと同じだ。たぶん一度目の針ノ木越えのとき撮影したものであろう。[2]
午後1時ごろザラ峠に達し、昼食ののち1時45分、下り始めた。雪があった。鬱蒼たる喬木帯まで下りると道があった。樵の道だという。シラビソの森にまで下りると立山東南面がよく見える場所に「浄土谷国有林」という木の標識があった。案内人はこの場所の地名を知らないと言った。刈安峠[標高1881m]と推定される。
そこからは急な下りだった。黒部本流に着くと、300~400メートル下流に籠の渡しが「蜘蛛の糸に玉虫でて引っ懸ってる様に遠く小さく見え」た。
黒部川の川べりに小屋が2つあった。標高1380メートル。光瑤は、打保照次郎と[遠山]品右衛門の小屋だと書き留めている。2人は信州の岩魚釣りたちである。光瑤はここでなぜか風呂敷で米を炊く方法を記している。
2人の猟師はこの日結局、小屋に戻らず、光瑤たちは下流のほうの小屋に泊まった。元は立山新道の道銭小屋だったらしいと記しているので、おそらく品右衛門の小屋であったろう。「手造りらしい新らしい神様棚が凡て真黒に燻ぶった小屋の裡に一際目立って白く見える。棚に暦がある」という。
荒々しい針ノ木谷
翌日午前3時に起きて黒部川で冷水浴。宿泊の礼として缶詰2個を置いて、一行は午前4時に出発した。まず小屋から100m~200mほど上流にある籠の渡しである。60センチ四方にも満たない板の四隅が藤蔓で結んであり、計量器のような乗り物になっている。「人夫の一人」とあるので案内人が複数人いたことが推定される。全員が渡り終わる頃、夜が明けてしまったという。そして「愈々今日よりこそチエムバーレンをして悪絶嶮絶天下無比と呼ばしめたる針の木行路へ一歩を踏み入るる事となった」と記す。
ここから先、長野県の野口村まで、道らしい道はなく、熟練のガイドと十分な食糧が必要とされる行程に入った。
1里(約4キロ)進むと、「美しい神々しい景色は一変して凄愴極まりなき荒々しい景色」となった。
二度目の針ノ木谷だけに比較的落ち着いた描写である。
右に左に流れ込んでくる谷があった。案内人は選択に選択を重ね、さかのぼっていく。すこし広い場所があって、振り向くと立山東面が見えた。針ノ木沢と南沢の合流点「南沢出合」であろう。南沢進むと美濃に出るのだと案内人は言った。が、これは当時の認識で実際にはやはり飛騨に出るというのが正しい。標高約1530m。
渓流がしだいに細くなり川の水は氷のように冷たくなってきた。雪渓が近い。午前11時に昼食をとって再び沢を上る。カモシカに出会った。昼食後1時間ほどたったころ、案内人が立ち止まった。道の様子が変だと言う。道なき道を進むうち行路を見失ったのだった。一人は上流、もう一人は下流を見に行ったが空しく帰って来た。3人で巨岩の狭い間を進んでみたり少し高い場所に登ったりしたが、道は見つからない。崖の上に草木が踏み倒された跡があった。案内人は熊の踏んだ跡だろうと言う。
3人は渓流の真ん中に集まって協議した。分かる場所まで引き返す案も出たが際限ないと却下し、結局しゃにむに斜面を登り、稜線に出て、位置を見極めることになった。
予期せぬ絶壁登攀
光瑤らが道を見失った場所はどこだったのか。船窪分岐[標高1830m]の手前、標高1800mあたり、カラ沢と推定される。針ノ木谷はそもそも地名が少ない谷だが、光瑤の文には川田小屋や紫丁場など当時通用した地名が出てこない。針ノ木谷出合[1900m]に至る前に左手の斜面(右岸)を登り始めたものとみられる。
登るにつれて岩が大きくなる。草鞋に冷たい水が浸み足の感覚がなくなってきた。その足で岩へ飛び移り、向こう脛を打つ。白いメリヤスのズボンに血がにじんだ。30分ほど進むと、500mほどの雪渓があり、そこを過ぎると滝のかかる絶壁だった。高さ15メートルはあろうか。
光瑤はイギリスの山岳雑誌の写真を思い浮かべていた。登山者がコウモリのようになって絶壁を登る場面があまりに無謀だった。まさか同じような場面に自分が出くわすとは……。雑誌の写真は『高岡新報』に掲載されている。[3]
重い荷物を背負う案内人たちがこの絶壁を登れるのかと案じたが、だいぶん経って無事に登り切り、「我子が戦地から帰った時の様に嬉しさを禁じえなかった」という。
傾斜30度ほどの斜面をさらに登るとハイマツ帯に入った。標高2400mあたりと推定される。光瑤はこの連載回で11種類の高山植物を書き留めている。
頂上で独り無我の境地
午後1時、ようやく稜線に出た。あたりを見回すと右のほうに陸地測量部の三角標が立っていた。
三角標があったとすればそれは標高2820mの山頂にある三等三角点「野口」であろう。点の記によると、この地点は俗称「小スバリ頭」である。明治40年5月20日に選定、7月6日に造標された。選定造標は青木一郎だが、標高を計算したのはあの柴崎芳太郎だった。剱岳の四等三角点に続き、針ノ木岳の三等三角点を、光瑤が目にしたというのは何とも因縁めいている。むろん、当時の光瑤はそれが柴崎の三角点だとは思いもよらなかったであろう。
当時、陸地測量部は「針ノ木岳」という山名まで決めたわけでない。光瑤も針ノ木岳と記さず、「針の木嶺の一部」という書き方をしている。光瑤が見た日より10日ほど前、日本山岳会員の辻本満丸(1877-1940)が同じ場所を通り、この砕けた三角標を見て『山岳』にこう書き留めている。「三等三角の測量標は破損しながらも厳然として此処に峙てり、此櫓の柱にも落雷の遺物と覚しき破れ目ありしは無気味を感ぜしめたり」。辻本がこのとき「針ノ木岳」という山名を確定させたことになっている。[4]
針ノ木峠はどこなのか。案内人は荷物を置いてルートを探しに出た。
探索を待つ間、光瑤は岩の上に胡坐をかき、黒部の谷から湧きあがる雲と、雲の上に姿を見せた「剱山、別山、大汝本峰」を眺めた。アザミ苔をむしって独り無我の境地に遊んだ。振り返って三角標の方角を見ると、10日後以内には登頂するはずの槍ヶ岳の尖峰が雲の間に光って見えた。さらに遠くに富士山を見つけた。
辛辣極まる文章だ。光瑤は富士山と針ノ木峠を対照させて空想にふけった。「軽佻浮薄な人間の浸入」を許さない針ノ木峠の清らかさが心地よかった。足元にはコマクサが微かに揺れていた。
富山県[立山博物館]編『越中立山の近世本草学』(2023年)には、谷村西涯の「高山植物見本帳」の中に「針木峠 明治四十二壱年八月 石崎光瑤君採集」のコマクサがあるというが、この時採集したものであろう。
案内人が峠へ出る道を見つけて帰って来た。東へ1.5キロ、高度差にして280メートルほど下ると針ノ木峠である。
数え切れぬ徒渉で水浸し
富山長野県境の針ノ木峠に着くと、四角い木標が倒れていた。文字は消えて読めなかった。標高は8300尺と光瑤は記している。換算すると2515mになるが、現代の測量では2536mである。光瑤の文章には時間が書かれていない。おそらく午後2時か3時ごろであろうか。人夫たちはひとまず安心したことだろう。この先、峠を下りて水場のある場所で宿泊できる。雪がない富山県側に対して、長野県側には広大な雪渓が落ち込んでいた。後に日本三大雪渓と称されることになる針ノ木雪渓である。[5]
雪渓の手前で、光瑤は鉄かんじきをはいた。針ノ木峠への上りに比べて雪渓の下りは壮快だ。雨が落ちてきた。雪渓が尽きるころ、危険なスノーブリッジを渡り、あとは徒渉の連続になった。
光瑤は高瀬川と書いているが、これは高瀬川支流の籠川とすべきところだ。
露営することになった。大沢か扇沢の出合あたりと推定される。
ここで光瑤は、針ノ木越えのための用意周到を説く。
草鞋でこのルートを徒渉して進む過酷さ。登山靴が当たり前の現代の登山者には想像もできないであろう。
川原に小屋が出来あがった。
一夜明けて午前5時40分に出発、再びS字続きの籠川を下る。冷たい氷のような川水の徒渉を繰り返すうちに、何度目の徒渉か数えるのもやめてしまった。午前8時45分、ようやく開けた平野部に出た。花野原である。「千紫万紅の可憐な花が自分の身体に摺れて桔梗の紫や百合の真紅の花粉やが純白の夏服をとりどりに染めなした」。大町の対山館に着いたのは正午すぎだった。
光瑤は2つの和歌を記す。
立山温泉で頼む案内人の日当は90銭であるという。荷物を背負って大町まで行きは3日、帰りは2日で済むので、5日分の給料を払う必要があるという。
◇
[1]富直線開通は大正2年4月。名古屋からの中央西線の開通は明治44年5月。篠ノ井線は開通していたが、2年前の針ノ木越えでは帰路は白馬~糸魚川~伏木で、直江津にはでていない。
[2]『山岳』第5年第2号(明治43年7月15日発行)には光瑤撮影の写真4枚、「立山室堂の内部」「佐良佐良越」「針木越の行路」「黒部川の籠渡」が収められている。
[3]『高岡新報』では、8月13日付に「浄土谷国有林より見たる立山半面」[刈安峠付近]、15日付に「針の木嶺の一部」、16日付に「英国山岳雑誌所載」が掲載されている。2つの峠付近の写真を光瑤が明治43年当時撮ったものなのか、それとも他の写真の流用かなどは、さらに慎重な検討が必要だ。ただ、英国雑誌の写真を掲載するには光瑤が旅先から富山に戻っている必要があるとも思われる。
[4]辻本は、三枝威之介・中村清太郎の3人は明治43年7月16日から後立山を縦走し22日に針ノ木岳に達した。『山岳』第6年第1号(明治44年5月)。越中側では江戸時代に「地蔵岳」と呼ばれていた。
8月15日付の「針の木嶺の一部」と説明のある写真は、不鮮明ではあるが、マヤクボカールのようにも見える。この写真が明治43年8月に撮影されたものか、それとも明治41年の針ノ木越えの時に撮影されたものか。さらに検討が必要である。
仮に8月10日に上高地で旅を終えたとすれば、高岡に戻るのに3日ないし4日はかかる。それから写真の焼き付け、製版を考えると、15日付の紙面には間に合わない。8月30日付以降に掲載された写真がこの旅で撮影されたもので、連載前半の写真は明治41年の針ノ木越えで撮影されたものとみるのが妥当であるように考えられる。
杉本誠『山の写真と写真家たち』(1985年)によれば、光瑤は生涯Cテッサーレンズをつけた組立暗箱を使い、キャビネ乾板のみで撮影していた、という。おそらく一式で重さ20キロほどだったと思われる。
[5]高頭式『日本山嶽志』(明治39年2月)によると、「針木嶺」は標高8227尺(2493m)とある。針ノ木岳はまだ立項されていない。この標高は地質研究所20万分の一富山図幅の記載と同じである。
[6]一つ目の和歌は後拾遺集歌、能因法師は藤原範永、2つ目の和歌は古今和歌集 伊勢物語。むさし野は春日野の間違いか。
(2024/05/29 マヤクボではなく八ッ峰を追加)