見出し画像

19. 光瑤生誕140年を祝う

石崎光瑤は1910年5月、14日間かけて往復72里(288km)を徒歩で旅し、春の白山を写生し撮影した。

それをわずか5時間でドライブし、デジタルカメラで速攻撮りするという現代の旅。あの世の光瑤も苦笑するしかあるまい。

それにしても現代の撮影技術の進歩は驚くべきものだ。

水しぶきなどモノともしないカメラがある。写真は動画になり音声をも記録できる。ドローンという技術は視点を地上から解放した。危険を冒してわざわざ断崖を降りなくても、鳥の眼のようになって撮影することが可能なのだ。その気になればライブ中継だってできる。

インターネットのYouTube動画で「白水滝しらみずのたき」を検索してみるがいい。すばらしい映像がすぐに見つかる。

光瑤の魂を感じるために、わざわざドライブする必要があったのか。反問する向きもあろう。

必見は、白川村役場が2024年5月31日にアップロードした「白水滝・誕生の秘密」(国指定名勝白水滝解説動画)である。17分30秒の非常にクオリティの高い動画である。

この稿を書き終えようとしていた6月末になって、この動画の存在に気づき、白水滝がこの1、2年で脚光を浴びていることを知った。

2023年10月、国の名勝に決まり、2024年2月21日ついに指定された。ずっと岐阜県の名勝に甘んじ、立山の称名滝などと比べて遅すぎた感はぬぐえないが、ひとまずおめでたいことだ。奇しくも光瑤生誕140年の年である。7月13日、記念展が福光美術館で始まった。

研究論文もこの6月にWeb公開された。黒田乃生「岐阜県白川村の白水滝に対するまなざしの変遷」『ランドスケープ研究』(2024年3月)。

黒田氏は、明治期の白水滝紀行を俯瞰するなかで、R.W.アトキンソンとW.G.ディクソン(1879年)に次いで石崎光瑤を位置づけている。光瑤に代わって礼を言いたい気分である。

黒田論文の「国立公園の調査と評価(1950-1960年代)」はたいへん勉強になった。自分が調べようと思っていた領域を、既に詳しく調べてあった。辻村太郎という地理学者が何度か出て来て、えっと思って調べたら、登山家・辻村伊助の従弟だった。辻村伊助と石崎光瑤は何度も手紙をやり取りした親友である。なんという奇遇。

実は、白川村が2020年に白水滝学術調査委員会を立ち上げ、国の名勝指定に向けて動いて来たのだ。2023年3月発行の『白水滝調査報告書』を遅ればせながら拝見した。黒田氏は同委員会の委員長を務め、例の論文も報告書と連動したものだった。[1]

今あらためて白水滝にスポットライトが当たる。嬉しいことだ。「ハコヌキ」「シナクラ」「ベンツル」など失われた地名の大白川渓谷にも目を向けたらもっと面白くなることだろう。

石崎光瑤は明治時代末、大白川渓谷の白水滝へ三たび足を運んだ。1回目は1907年夏、白山からの下山途中に通過した。2回目の1908年秋は紅葉と滝を見たいという衝動にかられて訪れ、あまりの絶景に感動し白山登頂を止めて写生に時間を費やした。そして3回目の1910年春は、ついに滝壷に下りて果敢に撮影した。

これだけの執念をもって白水滝に対峙した人はあとにもさきにもいないであろう。[2]

いずれも写真機を持参しての旅であったが、そのときの写真はまだ整理が進んでいない。1911年に発行された『飛騨山川』という本と光瑤との関連など、調査すべきところはまだまだ残されている。

今回のドライブと資料渉猟の旅で、特段美しくもない新聞挿絵がもっとも印象に残った。

水煙を巻き上げる白水滝と小さな人物の対比。飛沫を浴びる劍峯記者の表情を想像して、光瑤の時代のドラマを想像する愉しみ。

光瑤はたしかにこの大白川渓谷の白水滝で覚醒した。この旅から帰って2か月後、人生の岐路でもあるあの槍ヶ岳登山に向かうのだ。

(了)

[1]調査報告書には少し分からない記述がある。「石崎は鉈や鋸で枝を払いながら滝壷まで降りた」と書かれているが、原文では「木の根を潜り、岩根にすがり、下り行く事幾百尺」。光瑤が鉈や鋸を使ったのか? 報告書ではまた「写真を撮ろうにも飛沫がたちこめて駄目だったという」と書かれているが、正確には撮影は尽くしたが、結果としてはいい写真が撮れなかった、が正しい。撮影自体は行ったのである。

雑誌『山岳』の紀行文を読みこなすには相当の困難が伴う。句読点が今とは違うし、段落が少ない。難解な漢語も多い。1909-1911年の光瑤の3つの論文を熟読した人はホントにいるのか。皆読んだつもりになってるだけではないか。私はいつも疑心暗鬼になる。

『白水滝調査報告書』の巻末に、文献一覧があり「詳細な記載があり」の”注目”文献が目立つように色付けしてある。『山岳』の大平晟の論文は色付けしてあるが、同じ『山岳』の光瑤の論文はしてない。あれだけ仔細に書いてあるのに残念なことだ。

「昭和10年代 平瀬―大白川間吊り橋道」
『白水滝調査報告書』(2023年3月)から転載
「橋道」は「桟道」の誤植か
重要な写真なのでもう少し詳しい出典情報を付してほしかった

『白水滝調査報告書』には、1965年に定められた白水滝の放流量が平日毎秒0.6立方メートル(0.6トン)、土日祝日0.74立方メートル(0.74トン)と出ている。これが現在も適用されているかどうかは不明だ。ちなみに黒部ダムの観光放流は毎秒10トン以上。称名滝は通常0.5ないし2トン、最大時100トンだという。

[2]インターネット上に、白水滝滝壷からの写真がないわけではない。滝マニアの中には、滝壷に下りた人は何人かはいるらしい。
「滝人の源」(takibito no minamoto)というブログの記事(2009/6/24)は、 BALという人が約1時間かけて滝壷に降りた記録だ。「そうだ、百四丈の滝で感じましたが完全な直瀑は滝音が静かで優しいのです。更に近づいてもサラサラと落ちています。まるで砂時計の砂が落ちているかのように静か。優しさに包まれる、今までの緊張感が一気に解き放たれました」。さらに近づいてもさらさら、現場に行った人しか書けない心憎い文章である。ありがとうございます。

『白水滝調査報告書』によると、日本画家の玉井敬泉(1889-1960)が白水滝を撮影している。

[3]今後の注目点としては、『岐阜県写真帖』1909年発行の白水滝写真撮影者、白水滝の初の撮影者、『飛騨山川』1911年の写真撮影者、大白川ダム完成以前の地形図、冬の白水滝撮影などがある。なお冬の白水滝撮影についてはYouTube動画「冬山散歩【白水湖&滝】」 が興味深い。


いいなと思ったら応援しよう!