『ぼくがエイリアンだったころ』訳者あとがき(二宮 大輔)
イタリアのポストモダン作家トンマーゾ・ピンチョの『ぼくがエイリアンだったころ』刊行にあたって、同書末尾に収録されている二宮大輔氏の「訳者あとがき」を公開します。作品の読みどころはもちろん、作中で重要な役割を果たすニルヴァーナのカート・コバーンや、日本ではまだほとんど知られていないトンマーゾ・ピンチョという作家についてよく分かるテクストとなっています。どんな作品なのか気になっておられる方は、ぜひこちらをご一読くださいませ。
訳者あとがき
この作品はTommaso Pincio, Un amore dell'altro mondo, Einaudi, 2002.の全訳、ではなく、出版の契約をしたときにイタリアの文芸エージェントに送ってもらった二〇一四年版のPDFの全訳だ。二〇〇二年に出版されたオリジナル版が時を経て、二〇一四年に再版された。その際、いくつかの文法の間違いが修正され、著者ピンチョ自身のあとがきが付け足された。面白いのは各章のタイトルが刷新されているところだ。二〇〇二年版では各章のタイトルがニルヴァーナの歌詞の一部を英語でそのまま引用したものになっていたのだが、これが著作権にひっかかるということで訂正を余儀なくされた。ゆえに、ここでは元々のタイトルを細かく書くことは差し控えるが、第一章のタイトルは、もともとニルヴァーナの『ネヴァーマインド』に収録されている「テリトリアル・ピッシングズ」の冒頭の歌詞「ぼくがエイリアンだったころ」というものだった。社会にうまく適応できなくて自分をエイリアンのように感じている読者もきっと少なくないはずということで、これを本書の邦題にさせてもらった。
さて、まだ作品タイトルを紹介しただけなのだが、この時点で言いたいことがすでにいくつかある。知っている読者には蛇足ではあるが、まずはニルヴァーナについて。一九九一年にメジャーデビューしたシアトルの三人編成バンドで、既成のロックサウンドを否定し、爆音かつソリッドに歪んだサウンドとしゃがれた叫び声、退廃的な歌詞を特徴に、全世界を席巻した。彼らのようなサウンドを、「薄汚い」を意味するgrungyから「グランジ」と呼び、後のバンドにも多大な影響を与えた。そしてバンドのフロントマンだったカート・コバーンは、ニルヴァーナの成功に加え、他人を気にせぬ奔放な言動と、その奇抜でボロボロのファッションによって時代の寵児となった。だが彼は自分の創作活動に行き詰まりも感じており、ドラッグに溺れ、一九九四年の四月に自宅のガレージで口にピストルを咥えて自殺してしまう。
彼の衝撃的な死が、良くも悪くも彼と彼の音楽を神格化してしまった。かく言う訳者の私も、後追いではあるがニルヴァーナに多大な影響を受けたし、だからこそカート・コバーンが出てくる本作に興味を持った。そして二〇二四年は彼の死から三十年のメモリアルイヤーであるということも、本書を刊行する一つの動機となったことをここに記しておきたい。
次に改めて原題について解説したい。Un amore dell'altro mondoは「別世界の愛」という意味だ。だが、「愛」を意味するamoreというイタリア語の名詞は実に多くの意味を持っており、場合によっては「セックス」になり「恋人」になり「ハート」になる。本作を読んでいて、これらの言葉を見かけたら、それは使い分けるしかなかっただけで、本来はタイトルにもなっている同じamoreという言葉だったのだと、ご理解いただきたい。
これは別世界のamore=愛=恋人=セックスなどなどを求めて旅する男の物語だ。眠ると何者かに体を乗っ取られてしまうという強迫観念によって十八年間も眠らないまま過ごしていたホーマーという男は、浮浪者まがいのカートという男に出会い「システム」を紹介してもらったことをきっかけに、また眠れるようになる。喜んだのも束の間、過剰にシステムを摂取するようになり、瞬く間に体調が悪化する。そんな折に心のなかで聞こえはじめた質問「それで、amoreは?」に突き動かされて、彼はamoreをさがす旅に出る決意をする。こうして行きついた先が、UFOが目撃できると噂される町レイチェルだ。ホーマーはそこで絶世の美女モリーに出会い、叶いようのない恋をする。
著者のあとがきにもあるように、これはカート・コバーンの物語ではなく、あくまでもホーマーの愛を巡る物語だ。もしカートに焦点を当てるなら、コートニー・ラブとの結婚や、作家ウィリアム・バロウズとの交流など、興味深いエピソードが他に目白押しだったのに、本作で扱われているのは橋の下で乞食暮らしをしていたこと、女の子を強姦しようとしたことなど、いわばカートの人生の本筋ではないエピソードばかりだ。それらが本作で引用されているのは、社会から疎外され自分の妄想のなかで生きるホーマーが強烈なまでにカートに惹かれていくうえで、久かせない要素だったからだ。つまりそれらは、実は主人公のホーマーという人物像を構成する要素でもあるのだ。ちなみに、カート・コバーンと結婚したコートニー・ラブは「ラブ」つまり「愛」という名前の女性なのだが、ホーマーが見つけられなかった愛をカートは見つけていたという解釈もできるだろう。
次に、奇怪なこのラブストーリーを生み出した著者トンマーゾ・ピンチョとはいかなる人物だろう。本名はマルコ・コラピエトロ。一九六三年ローマ生まれ。トンマーゾ・ピンチョという筆名は、米ポストモダン文学の巨匠トマス・ピンチョンの名前をイタリア語風にアレンジしたものだ。名前を付けるうえでヒントになったのはなんと江戸川乱歩らしい。 エドガー・アラン・ポーを日本風の名前にして、それでいて日本語でも意味が通っている。 トンマーゾは新約聖書の登場人物で、キリストの復活をまず疑った使徒の名前だ。一方ピンチョ(Pincio)は、狂言の「太郎冠者」のような「誰でもない誰か」の呼び名Pinco Palino に発音が似ている。だからトンマーゾ・ピンチョは「疑いを持つ誰でもない人」ということになる。
そんな変わった筆名を持つピンチョは、経歴もまた変わっている。ローマで生まれ育ったが、画家を志していた彼は、まさにニルヴァーナが大成功を収めた九十年代初期にアメリカで過ごした。ポストモダンの画家ジョナサン・ラスカーのもとで絵画を学ぶかたわらギャラリーで働き、当時のアメリカのポップアートを知り、多数のアーティストと出会う。 なかでも日本人のコンセプチュアル・アーティスト河原温からは多大な影響を受けており、アメリカ時代に本名で書いた芸術批評集『等角的』(Conformale)では、「私はまだ生きている」という河原温の作品名のイタリア語訳がエピグラフとして引用されている。これがピンチョ初の著作であり、つまり彼の作家としての第一歩は、日本人アーティストの言葉から始まったのだ。
アメリカで幅広い芸術分野、特にポストモダンのアートを全身に浴びた後、九十年代半ばにイタリアに帰国し、絵画の道に見切りをつけ、一九九九年に小説『M.』で作家としてデビューする。ほぼ同時期に、本人日く、画家が模写をして絵の練習をするように執筆の練習をするためにアメリカ人作家の小説をイタリア語に翻訳しはじめ、翻訳家としてもデビューすることになった。
代表作は二〇〇二年に刊行された本作『ぼくがエイリアンだったころ』、二〇〇八年に刊行された『チナチッタ』(Cinacittà)。これは本作の続編ではないのだが、中国人が支配する近未来のローマで、カート・コバーンが自殺未遂した五つ星ホテルの部屋に住み着く最後のローマ人という奇抜な設定の物語だ。近年では二〇二二年に映画の脚本家として知られるエンニオ・フライアーノをテーマにした『火星の夏の日記』(Diario di un'estate marziana) が国内最大の文学賞ストレーガ賞にノミネートされている。
作品の多くはSF風の設定だが、決してSF作家ではない。また、チャールズ・ブコウスキーやウィリアム・バロウズなどに精通しているけれど、決してビートニク文学の後継者というわけでもない。どこか型にはまりきらない彼の作風は、画家を志してアメリカに渡り、後に作家に転身した経歴に由来しているように思う。
最後に感謝の言葉を。今回はことばのたび社がひとり出版社として世に放つ商業出版物の第一弾として『ぼくがエイリアンだったころ』を刊行させてもらう運びとなった。同出版社のアンソロジー『翻訳文学紀行』用にピンチョの短編「紙とヘビ」を紹介したときから、この作家に興味を持って、本書の刊所を英断してくれた編集長・出版人のことたびさん、日本での翻訳出版を快諾してくれた著者トンマーゾ・ピンチョさん、文芸エージェントのアニェーゼ・インチーザさん、この本をつくるのに携わってくれたみなさん、そして私の翻訳をサポートしてくれた家族と友人たちに心から感謝します。
二〇二四年六月、岡山のネットカフェ快活CLUBにて 二宮大輔