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早稲田大学ハラスメント問題を見ていて思うこと

もはや存在を忘れるレベルで使っていなかったnoteなんですが、ここ数日大学のハラスメントを看過しない会のアカウントの発信やその周辺の動きを見ていて、自分の中でモヤモヤと溜まってくるものがあったので書き記します。

ここ最近まで、私は先述のアカウントの活動を知らなかったし、早稲田大学のハラスメント問題についても正直あまり知りませんでした。偶然TLに流れてきたことで、陳述書などを拝読しつつ、Twitter上での発言を追いかけている状態です。なので、ここまでの経緯や背景の理解としては浅い部分もあるかもしれない、という前提でいます。

陳述書を読みながら、また被害当事者でありアカウント運営者の一人でもある深沢レナさんの言葉を読みながら、自分が過去に文壇や表現者たちに抱いた違和感や絶望を思い出しました。
そして一番心を抉られたのが、松尾潔さんが書かれた本件に対する記事(以下リンク)中にある深沢さんの「ハラスメントによって奪われるのは修士号のように目に見える形のものだけではありません。わたしにとっては、それは文学でした」という言葉です。

以下、直接的な表現や詳細の描写はありませんが、出来事として過去にあったハラスメントについて触れています。誘因にならないような書き方をしているとは思いますが、PTSDやフラッシュバック等が心配な方はお気をつけください。

その後、夏期講習が終わった後か、終わる前か、この辺りも記憶は曖昧になってしまうのですが、当時お世話になっていた学部の先生から、その外部講師から彼女へハラスメントがあったというようなことを聞きました。(プライバシーもあるだろうし明確な伝え方ではなかったと思いますが、「『何か』があったんだな」ということを理解してショックだった記憶が残っています。もしかすると私から先に彼女について聞いたのだったかもしれません)
おそらく先生は、私にも何か被害が及んでいなかったか確認のためにもと伝えてくれたのだと思います。その後どんな対応やケアが行われたのかは知らないし、私が彼女に何か伝えたか伝えなかったかも記憶が怪しいですが、その後彼女と深い接点を持つ機会もないまま卒業を迎えたことは事実です。

※これを書きながら少し思い出したのは、欠席していることを気にかけて彼女に連絡を取ったか、この話を聞いた後に連絡を取ったか、あるいは彼女から連絡が来たかで数通メッセージをやり取りした時に「セクハラされた」「気をつけてね」のようなことを少しぼかして言われた記憶です。時系列や記憶が曖昧すぎてここは不正確です…が、当時の私がもし彼女から直接聞いていたのだとして、その時に彼女にできたことはとても少なかっただろうと思うし、知識の無さも己の未熟さも悔やまれます。


私は短歌をもっと知りたいと思っていたので、A先生にメールで連絡をとっていました。その後、一度だけ手紙のやり取りもあったと記憶しています(これが残っているということは、ハラスメントの件を聞いたのは夏期講習の後だったかもしれません)。
もし学部の先生がその事実を教えてくれていなかったら、私は彼に師事して短歌を学び始めていたかもしれません。それくらい、短歌を学べたこと自体は素晴らしい経験だったのです(実際その夏期講習中から、大学の短歌会に少しの期間在籍もしていました)。

ただ、このハラスメントの事実を聞いて、「これまで私にかけてくれていた言葉は全部嘘だったんじゃないか」と思うようになりました。もっと短歌をやるといいと言ってくれていたのも、この着眼点は非常に大切だと言ってくれていたのも、表現についてたくさん意見を交わし合ったのも、全て下心からくる嘘だったのではないかと思うと、すごく悔しい、恥ずかしい、情けない気持ちになりました。当時の私からすると「言葉を扱い、表現をして生きている人」はとてもすごい人で、尊敬すべき存在で、ある種恐れ多ささえある憧れの対象でした。その道の進み方を知っている先人として、言葉の扱い方や言葉の尊さを説く姿を真剣に見つめていました。
きっと友人の彼女も同じだったと思います。まだ学生とはいえ、言葉を扱って生きていくことに希望を持っている子がたくさんいる学部だったし、彼女もその中で純粋に未来を見つめている一人の若者でした。

詳細も知らない、被害を受けた当事者ではない私でさえこんなにショックだったのだから、彼女自身がどんなに傷ついて悔しい思いをしたのかは計り知れません。同時に、言葉と共に生きていくことに絶望を抱いた可能性だって十二分にあり得るということは、あまりに簡単に想像がつきます。
私もその後、それでも短歌をやりたいという気持ちもあったものの、どうしても不信感のようなものが残ってしまい、結局はしばらく距離を置くことになりました。

また、パフォーマーとして現在も活躍され、若手に指導する立場でもある方と、居酒屋で飲み食いをして芸術論や表現論について言葉を交わし、悩みを聞いてもらい、たくさんの言葉をいただいた後にホテルに誘われ、ベッドにおいでと言われて拒否した経験もあります。彼は既婚者で娘さんもいらっしゃるようでした。
あとは美術・民俗学などに詳しい先生とお話しをしていて、泥酔された先生にしつこく迫られたこともありました。いずれも学生〜20代前半の頃です。
自分の中で当時は数少なかったn数の出会いが全てこうなってしまったので、「こういう界隈にはこういう人しかいないんか」と絶望して、悔しくて、一時期本当にもうこうした表現活動や界隈からは離れようかなと思ったことがありました。人生の方向性として、何かを書いたりすることをやめるというのは大きな転換になり得るものだったので、悩んでいる時期はかなり苦しい部分もありました。当時、この人のことは信頼できると信じていたクリエイターの方に会いに行って全てを話しました。今思うと、「自分が信じている相手」が「信じていい相手」であったというある種の成功体験を上書きできなければ、もう全て諦めようという気持ちもあったのかもしれません。私の場合は、私よりも業界に詳しいその人がきちんと話を聞いてくれて、同じように怒ってくれて、「そういう人もいるかもしれないけれど、そんな人たちばかりじゃない」「自分は絶対にそういうことはしたくないと思っている」と明言してくれたことが、私を繋ぎ止めてくれるものになった気がします。

本筋に戻しますが、早稲田の件は裁判での判決は出ているものの、その後も含んだ「周囲の対応」やそれによる二次加害が現在進行形で問題になっているように見えます。(中でも大きく話題になっているのが以下の伊藤さんの発言でしょうか。 -この記事を書いている途中0419に削除されたようです)

元々今回の事件が明るみに出る前に、深沢さんは学内でも相談をしたり、信じられると思っていた人に伝えたり、そうした行動を取られていたといいます。(上記の伊藤さんの発言は、判決後も含んで、そうした人たちがどのような行動・言動・姿勢をとっているかという部分に対して深沢さんが疑問を抱かれていた発言、それに付随させて該当の方のお名前を列挙されたツイートを受けてのものです。)

先述の経験から、私も「信じられると思っていた人」に裏切られることの辛さとか、その複雑さについては多少理解できると思っています。単に相手が憎いとか、許せないとか、悲しいとか、そういうことだけじゃなくて、「信じられる人だと思ってしまっていた自分」にも腹が立つし、自分の物事の見方や人間関係の築き方にも自信が持てなくなるし、それまで見えていた世界が一気に崩れるような感覚にもなる。さらに拗れてしまったら、きっともう誰の言葉も信じられなくなるんじゃないか、と想像できます。
私だって、あの時最後に信じた人が同じような加害行動に出ていたら、きっともう誰も信じないと決めるしかなかったと思います。

深沢さんはTwitterで、「誰を信じればいいのかわからない」といった旨の発言もされていました。この数日間だけでも、Twitter上でみている限りでも、そうだろうな、と思います。

無論、応援のメッセージやコメントも多数寄せられているとは思います。WEBサイト上には同じようにアカデミックな場で受けたハラスメントの経験者による「声」も掲載されていたり、一人ではないことは理解されているとも思いますが、それでもきついものはきついでしょう。

こうしたハラスメントの問題が生じる時、せめて二次加害はなくせるのではないかと、そう思えてなりません。
以前身近な界隈で起こったsoarのハラスメント問題の時にも、当事者間の話ではないその周囲の問題があったように記憶しているし、これまでもこれからもこういうことは起こり続けるのだろうと思います。(なくなって欲しいけれど、まだ暫くはなくならないのではないかと感じてしまいます…)

無論、ハラスメントの問題は閉鎖的な場所で行われることも多く、「冤罪問題」という別の視点からの重要な話もあるとは思います。その場合に声をあげていくことが必要になるということもまた事実でしょう。
けれど、今回のように事実認定がされた後でも二次加害が続いていくということは、当事者の人生において癒やしや回復に向かっていくべき時間がどんどん遅れてしまう・短くなってしまうことに繋がるのではないかと感じます。また今回の件を見ていて、二次加害の中には「親身になるポーズや発言を敢えて公でしながら何もしない」というものも含まれるんだな、とリアルに感じました。半ば衝動的にこの記事を書きながら、かつての自分があの時に同じことをされていたらと想像してみて、それは確かに傷つくし、人が怖くなるなぁと思います。

当事者が誰かに相談や告発する時は、そこまでの間に何巡も何巡もいろんな思考を巡らせているはずです。普段物書きや表現をして生きている人たちが、よく名の売れた方達が、言葉が出てくる過程に何があるのかを想像できないわけがないと、そう思ってしまうのは自然なことではないかと思います。
仮に私の友人が学部の先生に告発した時、先生が真摯に捉えず「そんなばかな」「あなたの勘違いでしょう?」と伝えていたらどうなっていたか。私が最後に訪ねたクリエイターの方に「君が誘ったんじゃないの?」「まぁよくあることだから仕方ないよ、我慢しないと」と言われていたらどうなっていたか。

深沢さんがここまで声をあげているのは、文学が好きだったからだと思います。文学も、文壇を築き上げてきた先人も、それぞれと自分との距離は違えど全てを尊敬していたし、感謝していたし、愛していたからだと思います。

今回の件は私の知り合いもいなければ、私が思い入れを持っていた作家が関わっている訳でもない。私の出身校でもなければ知人がいるわけでもない、言ってしまえば「関係のない場所」で起こったことだとも言えます。
でも、言葉を扱う人間の端くれとして、生業にしているとかしていないとか関係なく言葉が好きで言葉に救われてきたことのある人間として、深沢さんの心を想像すると悔しくて堪らなかったし、めちゃくちゃに怒りや失望を感じています。

5000文字超の長文を誰が読むんだ、何のために書いているんだと言われてもわかりません。でも、なんとなくこれは書き残しておかないといけないような気がしたので書きました。怒っているということをちゃんと残したかったのかもしれません。

詳細や経緯を知りたいという方は以下をご参照ください。
深沢レナさんや、その近くで支えていらっしゃる全ての方への応援と連帯を込めて。

大学のハラスメントを看過しない会 Twitterアカウント
https://twitter.com/dontoverlookha1

追記:これを書いたのが4/18なのですが、1日寝かせている間にまた動きがあったようです。追加で以下もリンクを置いておきます。



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なかにし(nia)
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