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3月22日
いいぞ、その調子。実は、ここ数日は自分と向き合う修行中なのです。
逃避することをやめて、思考というか瞑想のようなことを続けているつもり。
といっても、アルバイトなど、日常生活は送っているのだけれど。
辛いとか、悲しいとか、悔しいとか、情けないとか、寂しいとか、どうして自分がそう思うのか逃げずに思考しています。
この苦しむ期間の痛みというのは、確実に自分を成長に導いているなと感じるよい手応えになっている。
4月までにすっきりできるかわかりませんが、少し悟りを開けそうなので、苦しみ続けようと思う。私はどこを目指してるのでしょうか。出家?
突然ですが、私は実験が好き。小学生のころから理科の授業とかでも、仮説をたてて、条件をひとつずつ変えて試していくという方法論がとても美しくて好きだった。
私は人生をかけて、自分でもよく哲学的実験をしている。
これまでに行なってきたのは、
「全く気の合わない先生に、真剣に愛想を持って接したら好かれるのか否か」
「人の悪口や噂話を全くしないで生きていけるのか」
「人はどこまで人を許せるのか」
「あえて自分を無思考状態におくとどのようなことが起きるか」
「人の真似をして同じような人望を得られるのか」
などなど。実験という名前をつけて距離を置いているから、冷静な自分をぎりぎり保てるという一面もあるけれど、なかなか過激な人生実験で、失ったものも得たものも大きかったりする。
この実験のスパンはまちまちで、数年単位で行うこともあれば、数ヶ月や数日で人格の崩壊の危険を感じて中断することもある。
理系の人がする実験のように、緻密なデータもとらないし、具体的な言語化もしないまま始めるのだけど、結論が出るころには自分がなにを思ってそれを始めて、とりあえず今の年齢の私に出せる結果が出たな、という所で満足して自分の哲学に組み込んでいる。
実験なので、結果はほぼ全て失敗と思ってもいいのだが、それがなぜ失敗なのかわかることが目的。
こんな風に冷静に分析できるのも、そういうふりをしているだけで、実験の最中にあり得ないほどの苦痛を感じていたりする。私は、意外と普通の人間なので、変な人と思わないでね。
普通の人が体当たりでやっているあれこれを、思考を用いて理論的にやっているだけと思っていただければ。
しかしながら、私の成長の仕方はいつも、こういう変なやり方なのだ。ちょっとサイコパスチックな私でした。
そんな3月22日。
エチカ
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