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才能と感性のはなし

私はよく自分や、友達のことを「天才だね!」と褒める。浅いけれど、私にとって最上級の褒め言葉なので深く考えずに、褒められたら喜んでほしい。

才能のある人、つまり天才のある人、その生き方は、生まれた時に決まっていると思う。スタートラインは皆同じなんていうのは間違いなく綺麗事だ。そして、努力の量がいくらあったとしても、凡人は天才にはなれない。

私は天才ではない。それを最近しっかりと噛み締めて自覚している。

では、それを噛み締めた人がすべきことはなにか。感性(センス)を磨くことだ。これが今日のメインのお話。

感性とはなにか、どうやったら磨けるのか。

最近話題の、俳優の佐藤健さん。私は彼の仕事の仕方が素晴らしいと思っている。役者さんや芸能の仕事というのは、自分の身を売る仕事だろう。歌を歌うにしろ、演技をするにしろ、服を魅せるにしろ、自分の身体をちぎってお金にしている。

才能のある人は、きっと我欲で這い上がることができる。自分の表現を追い求めることだけで、周りを巻き込み、ある一定のところまで評価を得ることができる。しかし、そんな人は一握りだし、その才能が通用するのも限界がある。味の濃いものがすぐ飽きられてしまうように、世間は変化を求める。

そこで大切なのが感性を出すことだと思う。私の考える感性は自分の「立ち位置を知ること」である。佐藤健さんは、演じる役柄やその時求められている「佐藤健」の姿に、すべての我欲を捨てて身を委ねているように見える。与えられた型に、ぴったりはまるように、自分の形を放棄することは簡単なことではない。そして同様に自分に求められている型がなんなのか把握することも簡単ではない。これが感性であると思う。

もっとわかりやすい例だと、モデルの杏さんが服を着こなすときに自分を出してはいけないという。ハンガーになりきるのだと。あくまでも主役は服であり、自分ではない。

明らかに才能の塊にみえる椎名林檎さんも、自分のことを職人だと言う。求められた音楽を受注生産しているに過ぎないと。

自分を表現したいとか、自分の納得する形で認められたいというのは自然な欲求である。けれど、それがあるとブレる。お金をもらうプロであればあるほど、ブレることは許されない。

感性と聞くと一見、自分のなかに眠っているキラリと光るものを解き放つみたいなことをイメージしがちだけれど、実際はその逆だと思うのだ。

私は完全に趣味の範囲で歌を歌っていて、しかし人に聞かせる機会もあるので自分の声の聞こえ方に真剣に向き合ったりもする。その真剣な趣味という半端な場所で思うことなのである。どっちにもなりきれないことが、一番身にならないのではないかと。

私の声質にあった歌い方や曲調があり、求められている「エチカの歌」のイメージが多少なりともある。そうしたなかで、たまに私の歌いたいがままに歌う。こうしたとき、リスナーさんたちは置いてけぼりになるのである。これは求められている私の歌ではないんだ、と察する。求められている私の姿と、私の表現を開拓していくというギリギリの場所でいつも勝負しなければならない。

どちらが楽しいとか、私が楽しく歌えればいいという話ではなく、その空気を感ることができたことが面白かった。それだけで、1年半ほど人に聞かせる歌を歌ってきた甲斐があったといえる。

文章も然り、私に書ける範疇の文章というのは限られている。限られているにも関わらず我欲をだして、「それっぽい」文章に手をだすとスタイルがブレるのだ。それは所詮誰かの二番煎じになってしまい、魅力は全くないものになる。

感性は自分の立ち位置を把握し、決めたらそこを完全に極めるまで動かないことだ。私には私にしか歌えない歌、歌詞があり、私にしか紡げない言葉・文章がある。こんな私にも、そんな素晴らしいものがある。

誰だってこれさえ守れば、絶対的な自分のブランドを確立することができるのだ。だからこそ、それ以上を望むことは愚かしいことと言えるのかもしれない。

エチカ

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