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藤野キョウという人間について

ルックバックの感想を垂れ流します。



僕って映画は見終わったあとの考察タイムが1番楽しくて好きなんですよね。


やっぱり1度見ただけじゃ拾えない要素っていっぱいあって、皆が2度3度同じ映画を見るのってそういう所を作品の中で回収したいという思いからなのかな、って思うんだけど、自分はその回収を皆様の考察に頼らせていただくことによって一気に拾って一気に気持ちよくなりたいんですよ。1番熱があるのって1回目の視聴だから。「慣れ」を出したくないんだ。


自分の考察の答え合わせだったり、気づいてなかったところだったり、その人なりの解釈だったり、をその日のうちに摂取できるだけ摂取するのが自分流。そもそもそんな映画観ないからこそのライトな楽しみ方なのかな、って思う。


だけどね、さっき見たルックバックはさ、あんま「考察!!!」って要素がないというか。見た人なりの解釈の違いは勿論あって、だから皆様が書いた「感想」はいっぱい読んだし楽しいんだけど、作品としてはかなり分かり易めに、かなり丁寧に作られていたから、気づかなかった要素とか推理要素とかはあーんま無いんすよね。


んで「めっちゃいい作品だったのに、な〜〜〜んか映画観た〜!感が少し薄れちゃってるな〜〜〜?」の感じをどうにかしようと思い、自分も感想書こ〜って。「考察によって自分の理解と感性を深めていく」のスタンスを「自分の感想を文字に起こして自分の理解と感性を深めていく」のスタンスに変えて今回はやっていこう!という感じですな。要は自分が見た記事と同じことをやります。


マジ自分用なので、ネタバレはどちゃクソします。ご了承を。
というわけで以上、自分用の前置きでした。




藤野も京本も偉すぎる問題

これ。ホント敵わないな…ってレベルで感じてました。


まず藤野。作品上主人公と言うべきお方。
最初の15分ってさ、こんな感じじゃん?


「私天才!」→「真の天才現る」→「落胆…」


→【努力】


ここで努力に持ってこれるの、本当に偉い。ほんっっっっとうにえらい。大4(=自分)が小4に負けた瞬間だったわ。


だってさ、「相手は自分より時間が大量にある」みたいな言い訳とか、隣の席の男の子に「藤野の絵って普通なんだな〜」って何気なく言われたことが、フラッシュバックではすんごい嫌味に聞こえたりとか、そこで「諦める」要素って存分に含んでると思うんだ。そこでもう絵を描かなくなるとかさ、気にしないフリをしていつも通り描いていく、とかさ。


でも、藤野は諦めなかった。少なくとも1年以上は、寝る間も惜しんで、全てをほっぽり出して、真剣に絵と向き合い続けてた。



そもそも現実世界でもクリエイターは続けたもん勝ちだってよく聞くけども、それって結局これのこと、だよね。皆「私天才!」→「真の天才現る」→「落胆…」までは行くんだけど、その先に行ける人がマジで少ないから続けたもん勝ちだ!って言われるわけで。出来てるのが凄いんよ。


人生の紆余曲折は置いといて、前提として、藤野という人間の生粋な負けず嫌いと真っ直ぐな素直さが、十年後のジャンプ連載大ヒットを生んでいるのは間違いないなと、感じました。
努力、未来、𝐀 𝐁𝐞𝐚𝐮𝐭𝐢𝐟𝐮𝐥 𝐒𝐭𝐚𝐫__



そして京本ね。ここではキョウと書きます。
そもそもさ、不登校のキョウが学年新聞に自分の漫画を載せたいって言って行動に移したの、とんでもないことじゃないですか?


コンビニの店員にすら目を見れないし時には吐き気まで催してしまう、とにかく人間が苦手なキョウがだよ?クラスメイトもその親御さんも先生も他人も猫も杓子も見る学年新聞に、自分の絵を載せようって。やばいよ。本当に凄い。偉すぎる。


載せようと思ったきっかけはきっと藤野の漫画だと思うんだよね。キョウは絵を上手い下手ではなく、魅力的か魅力的じゃないかを優先して見てると思うんだ。キョウの色眼鏡で見た藤野の作品は、図書館で見つけた風景画のように輝いていたんだろうね。あとは「私と同じように絵が好きな人がいる」という安心感?仲間意識?もあるのかな。


でさ、人間が苦手なキョウがその動機だけで学年新聞に自分の絵も載せたんだとしたらめちゃくちゃ「自分」を持っているなぁと感じるな。それこそ、図書館で見つけた風景画をきっかけに、漫画を一度捨てて美術大学に行こうとする下りも本当に凄いし偉いし「自分」を持ってるよね。唯一笑い合える存在を置いて頑張ろうって決意固めることが出来てるんだよ。貴方に出来ますかそんなこと。僕にはきっと出来ません。本当に偉いよ。



作品全体を振り返っても、自分の「好き」に素直に生きていける二人はとても羨ましいです。他人のこと、将来のこと、色んなことを考えざるを得ないのが人間としての性なのに、自分の軸を信じて行動を起こすことが出来ている。素晴らしすぎる。これがクリエイターの核なんだなと、トコトン思い知らされました。




リスペクトにリスペクトされた瞬間

これは藤野が卒業証書を送った時、キョウが藤野のことを「藤野先生!」と言っていたあの辺りを指します。ここ、本当に本当に泣けました。


「作ったものを褒められる」


これはクリエイターにとって創作冥利に尽きる最高の瞬間。自分の作り出した物を評価してもらえるというのは、若干違う解釈をされたとしても嬉しくなってしまうものです。小4の藤野、かなりエッヘンって感じでしたけど、あれはしょうがない!!!!!!なるって!!!なるよ!!!ならん訳ないんよ!!!!!!!!


それでよ?
「どうしようもないくらいに追いつけないと思っている存在」から「最大級の絶賛」をされたら、どうなるって話よ。天才だと思っていた人物に「天才」って心から言われたらどうする。そりゃ〜〜あんなめちゃくちゃなステップ踏みたくなるって。人目もないしな。するよ。するする。


ここは思わず自分と置き換えて見てしまう部分でしたね… 別に俺がなにか作品を作ってるのかと言われればそんなことは無いんだけど、自分が藤野で、あの人がキョウだったら…と考えると、努力して努力して努力して認められた藤野の爆発的な喜びがもう分かりすぎて、バチくそに泣けてしまいました。一緒に映画行ってくれた友達にはここでギャン泣きしてたことを言ってません。恥ずかしい恥ずかしい。




背中に君がいる

さあ、かなり終盤のシーンです。なんらかの力が働き、「背中を見て」というタイトルの四コマ漫画が藤野の元に訪れます。それを見て、ドアを開け、部屋の様子を確認する。そしてあのタイトルを思い出し、後ろを振り向く。あの頃のオレンジ色の服が、大事そうにかかっている。


僕はこの時、なんとなく泣けました。そりゃ感動もするでしょうよ。あの頃の服だ〜;;


ですが、ここでひとつ自分の解釈を入れた時、もうひと泣き、でした。



藤野がキョウの部屋に入ったとき、藤野の後ろには「藤野歩」とでっかく書かれたキョウの服がある。キョウの服の背中に藤野が居たように、この時藤野の背中にはキョウが居たように思えます。


キョウは藤野に背中を追われ、背中を押され、背中を支えられてきました。これは、藤野に対しても同じことが言えると思います。藤野だって、キョウに背中を追われ、背中を押され、背中を支えられてきている。著者名が「藤野キョウ」なのも、少し趣きを感じるなと個人的には思います。


もっと言えば、服の掛かり方的に、藤野もキョウも、背中を向けていると言えます。そんな中、藤野は振り返った。この時、キョウもまた振り返ってくれていたらいいな、と勝手に想像してます。だってルックバックだからね。


人の背中を見る時、見られている側はそっぽを向くことになります。背中合わせなんて尚更のことですよね。だったら、互いに面を合わせていて欲しい。互いの背中に互いの魂を宿しながら、互いに振り返って欲しい。


本作は基本的に藤野が主体で描かれているからこそ、藤野だけでなく、キョウにも、ルックバックして欲しいなと思います。というか、してるんじゃないかなって思います。元々キョウが書いてた漫画も漫画というより風景画だったもんね。


まぁあとは蛇足ですが、「背中を見て」というのは作品が私たちに訴えかけているメタでもあるのかなと思ってます。最初と最後はどっちも藤野の背中姿だもんね。最後の背中、最初の貧乏ゆすりみたいな細かな動きが無くて、どこか頼りがいがあったなぁ。




「現実感」の空回り

はい。ここからはちょっとしたマイナス面を話します。が、これは僕のエゴ強めです。
もう一度言いますが、これはあくまでも僕の感想でしかないです。一人語りも多いと思いますので、そこだけはご了承頂ければ…!




僕はこの作品に「創作意欲」を求めていました。それは、この映画を見に行ったクリエイター達から「昔の自分を思い出した」みたいな感想を多く拝見していたからです。


僕は数年前こそクリエイターになるんだ!!!という気持ちが強く強くありましたが、今はあの頃に比べればかなりその火は弱くなってしまいました。


そういう人になりたい!という気持ちが完全になくなったわけではありません。が、かなり中途半端なんですよね。昔は「俺もいつか…!」と強くトキメキながら見ていたライブや映画も、今ではその鑑賞体験によって燃やされるクリエイティブ精神がかなり無くなっていることに最近気づいていました。


だからこそ、ルックバックという作品の登場とそのレビューを見た時、あの頃の再熱に持ってこいなのではないか、と思っていたわけです。



…という前提も相まって、無意識的にこの作品には「現実感・現実的」をキーワードにしていました。現実にもこういうこと起きそうだよね、みたいなのを期待してたんですね。


で、見始めまして、前半はめちゃくちゃ作品に没頭してました。いい意味で凄い人間臭い。あるある!分かる分かる!が多い。だからこそ藤野がキョウに卒業証書を渡しに行ったあのシーンでギャン泣きしてしまったのかも知れません。


しかし、後半から突然時空が歪みましたよね。ちょっとそこで一瞬ついていけなくなってしまいました。途中から「あ、実体験を元にこの作品を藤野が描いていて、それを見ている感じかな?」と解釈していたぐらいなのですが、藤野の横に本来あるはずのない「背中を見て」の四コマ漫画が置いてあったシーンのタイミングで「やっぱ時空歪んでたんかい!」ってなりました。


時空歪ませること自体が悪いとか、そんなんじゃないですよ。むしろかなり自然に取り入れているのかな、と思います。ただ、やはり登場人物の人間臭さを高く評価した状態で没入していたので、時空が歪んだあたりから現実性が無くなってチグハグしちゃったのかな…?と感じています。もちろん自分の勝手な前提もあるよ。


それで言うと、藤野とキョウが街に出て手をギリギリ繋ぎながら走ってるシーンも「いやこれ絶対手が離れたらキョウが〇んじゃうフラグやん…」って思いながら見てたら、本当に離れて、本当に〇んじゃったもんですから…


自分がメタ読みして見てしまっているのも悪いのですが、勝手にそう考えてしまうほどには予想しやすい伏線だったかな〜と感じていて、そこも現実性とは少し離れていたかな、と思ってます。ニュース見て「え…?」ってなってた藤野と同じ気持ちを自分も味わいたかったなぁって、ね。






と、言う感じでしょうか。


一通り見て、やはり「いい意味での人間臭さ」であったり「ちょうどいいリアリティ」であったりが作品としての良さを引き立たせてるんだろうなぁと感じました。


それこそさっき言ったけど、他人が何気なく言った「藤野の絵って、案外普通だな〜」が思い返した時にすんごい言葉の針を刺された様な嫌味に聞こえてしまったりとか。小学生4年生の時描いていた四コマ漫画の内容が、大人が見たら少し笑ってしまうようなストーリーであったりとか。どうしても強がってしまったりとか。10万あったらバーッと使いたくなったりとか。


藤野エピばっかで申し訳ないけど、あれもこれも、本当に感情移入がしやすいようになってるなぁと思います。僕、普段創作物で泣くことってマジでないんですよ。映画で泣いたのは数年単位で久々だったなぁ。



創作意欲…に関しては正直変わってなくて、当初の期待を満たすことは出来なかった。けど、普段は映画見た後わざわざ文字に残すことが無いのに、こうやってnoteでいっぱい書きたくなったくらいあの60分弱は本当に良い時間だったし、ルックバックを見た人生にアップデート出来てよかったなと、心から思っています。


友達誘って良かったー!以上!

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