ゲーム「零の軌跡」感想

 おれ、最後にこのシリーズをプレイしたのって、ドラゴンスレイヤーって副題がついてた頃だから、熱心なファンとは言えないんだけど、すごい楽しんだなあ。プレイ時間の8割くらいはテキスト読んでる感じで、面白さの構成要素は大部分がゲームってより小説なんだけど、すごい楽しんだ。グラフィックはスーパーファミコンなんだよ、そのまま移植できんじゃねえかってくらいスーパーファミコン。でもさあ、場面場面の演出がドット絵独特の方法論でさあ、すごいグッとくるわけ。ドット絵の立ち姿が涙を流してるように見えるとかって、すごい日本人の心性に根ざしてるって感じがするなあ。エヴァ以降に能面キャラが流行ったけど、感情を見せないのに悲しかったり切なかったりするのは、日本庭園なんかがそうだけど、観測者の主観において無限の宇宙を形成できるっていう見立て文化の心性に依るところが大きいんじゃないかなあ。その意味で、欧米ではウケないってのはすごいわかる。受容器官がないんだもん、アイツら。

 話もどすけど、最近の本邦のゲームってさあ、その心性からどんどん離れていってるって感じるわけ。マシンの性能がすごい上がったおかげで、映画とかの映像技術が流入してきて、ドット絵の演出作法とかを根こそぎ駆逐してるの。いや、別に欧米の方はそれでいいんだよ。ゲームの機能は映画芸術が欠いていたインタラクティブ性の補完だって喝破されて、映画大なりの不等号が明確になって、そのうち完全に吸収されたってさ、別に構やしないの。

 でも、日本人にとってはさ、ゲームの、ドット絵の演出って、技術的障壁がもたらした単なる制限以上の意味合いがあったんじゃないかなあって思うわけ。CGの技術とか、まあもともとコンピューターが欧米発信だから、向こうに学ぶしかないってのはわかるけど、日本人の心性が省みられなくなるんじゃないかって、すごい気になる。技術だけ学べばっていってもさあ、あっちの技術だって表現への欲求が要請して出てきたものじゃん? 欧米の表現形式、さらに言えば心性に、使っていくうちに取り込まれちゃうんじゃないかなあ。市場規模がよく引き合いに出されるけど、いちユーザーにとっては全くもって知ったことじゃないし、世界の映画賞なんか見ててもやっぱ地域性みたいのが受賞の理由だったりするじゃん。ノーベル文学賞もそうだよね。欧米技術の取り込みがそういう部分とトレードオフになってんじゃねえのって、すごい疑問感じちゃうわけ。

 あと、映像表現の本質って、いかに現実の見え方をデフォルメするかってとこに尽きると思うけど、日本の場合、どれだけ情報を削ぎ落とせるか、どこまで削ぎ落として伝わるかって視点が入ってくると思うのね。おれ、エヴァ破がすごい好きなんだけど、この問いかけにちゃんと定観を持ってて、アニメって分野が本質的に解答を含んでたって側面もあると思うけど、ある程度までは答えを出してるってのが、好きな理由として大きいような気がする。

 おれ、ノンポリだけど文化的右翼だからさあ、こんなことばっか考えてんの。ダラダラ書いてきてさ、何が言いたいかってえと、零の軌跡、すごい楽しんだなあってことと、社名に日本がついていて海外展開しないうちは、おれ右翼なんで、この方向性を全力で応援するってことだよ、言わせんな恥ずかしい。

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