雑文「宵宮賛歌(近況報告2023.5.28)」
原神、伝説任務「星拾いの旅」を読む。「宵宮、スメールへ行く」という筋立てを聞いただけで、本作が持つ「異邦人による諸国漫遊記」の魅力から、間違いなく面白くなるのがわかるでしょう。義理と人情で泣かせにかかる物語は、特に小鳥猊下のようなすれっからしの冷笑家を相手にする場合、かなりの難しい注文になるものです。最近では、だれかを馬鹿や悪役にするストーリーテリングへ向けた拒絶反応が強く出ていて、一瞬でもその気配を感じとると、脳の「物語受容器官」が完全に閉じるーーゆえに、ほとんどの転生モノは読めないーーようになっています。また、シンエヴァ以降は登場人物への人格洗脳について非常に敏感になっており、「そのキャラがするはずのない言動」ーーすなわち、作者のマリオネット現象ーーを目にした瞬間、件の器官が強制終了してしまうのです。今回の伝説任務も、どこかでこの脱線が起こるのではないかと半ばおびえながら読み始めたのですが、設定・キャラ・ストーリーが一度たりとも軌道を外すことなく整然と進行し、生じた感情のさざ波はいっさいくじかれることなくテンションを高めてゆき、最後には逆まく巨大な情動のうず潮となって、気がつけば画面の文字が読めないほどの大泣きをさせられていました。
否応な苦しみを前に子どものままでいることを許されず、確かに存在したはずの感覚が失われていくのに為すすべを持たないーー「子どものときにしか見えない生き物」を狂言回しとして、「やがて失われる子どもという属性」へ優しく寄り添いながら、「流星雨を見ること」と「自分の足で走ること」という二人の目的を一点に重ねあわせてゆく構成の見事さは、ここまでの原神世界におけるもっとも高い到達点のひとつだと指摘して、決して過言にはならないでしょう。「我々は、ひとりの子どもを見捨てない」ーーこれは、かつてnWoに書かれたうちでもっとも美しい言葉のひとつだと自負しているものですが、今回の道行きはかような真情に満ちあふれています。「全力で走るとき、耳元で風がビュウと鳴るのが好き」という台詞に古い記憶を刺激され、自分が「坂の多い町で育った、走るのが大好きな子ども」だったことを数十年ぶりに思いだしました(なぜ、そのことをずっと忘れていたのでしょうか)。
「星拾いの旅」という掌編は、宵宮なる個性を抜きにしては成立しない筋書きになっており、これも特筆すべき美点だと言えるでしょう。この人物は、SNSに多く棲息する家族憎悪の「大卒白襟」が冷笑する「中卒職人」であり、耳が遠くなって少しボケ始めた父親を明るく介護しながら暮らしている。彼女はまっとうな両親と近隣の大人たちに育てられた、まごうことなき「地域社会の子ども」であり、肥大した頭ではなく等身大の心と手を使って日々を生きている。さらに言えば、正しく成長した人間は自然に善意と利他を身にまとうのだという希望の体現でもあるでしょう。彼女のような存在と負の共依存ではない関係を築くことを夢想しながらも、悪意と利己の塊である「間違った人間」が「正しい人間」を近くでわずらわせるべきではないとも思わされます。打算ばかりで呼吸するようには人助けへと身を投げだせないこと、そして、ひねこびた性格を時代と社会のせいにし続けてきたことを、大の大人に深く恥いらせる純粋の清廉さが、宵宮からはまばゆいばかりに発散しているのです。ネット経由で定着した「毒親」なる激烈な単語は、ピンポイントで一部の人間を救済する力を持ちながら、その辺縁あるいは外周にいるだれかにとって、旧エヴァにおけるアダルトチルドレンと同様、偽りの自己定義と化してしまうのではないかと懸念し続けていましたが、原神のつむぐ物語は、特に思春期のオタクたちにとって、その誘惑に対抗するための有効な処方箋となるのかもしれないーー若いファンたちの感想に触れ、そんなふうに感じました。
今回の伝説任務を通じて、「萌えコション」でありながら重篤な「性能厨」でもある私は、いずれにも合致する雷電将軍や神里家のご令嬢を愛用するかたわらで、すでに宵宮を所持していたにも関わらず、単純に性能だけの理由からレベル1桟敷へと追いやっていることを深く反省しました(ちなみに、白朮先生のレベルマとスキルマは達成済みです)。そして、伝説任務1章のときは「土のにおい」なんて言い方ではぐらかしていましたが、ようやく本当の気持ちに気づきました。宵宮のことが大好きです、今度はウソじゃないです。
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