「底辺声優の所感」が何故気になるのか
☆はじめに
「底辺声優の所感」という記事が2020年2月24日に公開されました。
声優として活動していらっしゃった泉水みちるさんのnoteです。
一言でまとめると、【「泉水みちる」という声優が仕事を辞めた】という記事です。
声優が業界を去ることは、別段珍しいことではありません。
しかしその「底辺声優」という言葉が気になり私は記事を開きました。
note内での記事への直接的なコメントをはじめ、Twitterでの引用リツイートや、感想への呟きも多く、noteの「スキ」も既に5000を越えています。
一体何故、多くの人がこの記事に関心を寄せているのか。
個人的な感覚ですが、読み手がこの記事の中に、
大なり小なり「自分の物語」を見つけているからではないかと感じました。
「夢」という言葉は、少し現実離れしているようで実はあまり好きではないのですが、この記事では良くも悪くも丁度良い言葉だと思うので積極的に使っています。
「夢」を追いかけること、「夢」を叶えること、「夢」を追いかけるのを辞めることー「夢」が与えてくれる喜びと苦渋。過去や現在で、そういった経験を持っている人が多くいたからこそ反響を呼んでいるのではないかと思うのです。
記事を読んで改めて、「夢」との向き合い方について考えました。
夢を追う人も、夢を追いかけていた人も、そしてこれから夢を追いたいという人も、
その全てが私であり、私でない存在ーそんな私の「所感」です。
☆「しょうらいのゆめ」から「現在の夢」へ
「おおきくなったら、えほんやものがたりをかくひとになりたいです」
これは私史上最古の「将来の夢」です。本が大好きだった幼少期。私は物語の世界に魅せられていました。
そもそも「将来の夢」とは、小さい頃から社会に植え付けられた概念なのではと思うことがあります。物心ついた頃から、自分が社会を生きていく姿を思い浮かべる訓練をさせらているのではないか、と。
しかしながら、それはとても胡乱な訓練方法で、具体的な向き合い方は自己に丸投げされます。小学生のころ、「なりたい」ものがない子は「見つけなさい」と言われていたことに違和感を覚えました。「夢」があること、追いかけること、実現することは「素晴らしい」ことだと刷り込まれていた、とも言えるかもしれません。
裏を返せば「夢を実現できなかった」ことへの大きな挫折感や劣等感、恐怖感を抱いてしまう心の素地を形成されたようにも思います。
「将来の夢」を持たせるだけ持たせて、その後の向き合い方は自分で見つけてください。
「だってあなたの人生だもの」
当たり前のことではありますが、私は未だに自分に合った「夢」への向き合い方を試行錯誤しています。
泉水さんは、高校生の頃から声優を志され、事務所へも所属され、オーディションの機会もあり、数は少なかったかもしれませんがちゃんと現場に出られた方です。
客観的に見れば、プロの声優として「夢」を叶えています。
しかし彼女は、別の道を歩むことを決意しました。
私が記事を読んだ一番の感想は「よかった」というシンプルなものでした。
それは称賛と、安堵と、エールが入り混じったものでした。
「夢」を持つ人間にとって、それは生きる軸になります。実現のために物事を考え、行動します。「夢」が変わるということは、その軸が変わることになり、生活そのものが一変します。
今まで目指していた自分と別の自分へと舵を切ることは少なからず勇気のいることだと思います。泉水さんはその決意をし、さらに記事としてまとめました。私はそれを称賛します。
「声優」というちょっと特殊な職業だったゆえに反響を呼んだ、という部分も大きいと思いますが、私は、根本にある、個人が自分の「夢」と向き合った事実に心動かされたんだと思います。
☆自分の欲求の声が聞けたことへの安堵
結局「夢」へのアプローチは「追い続ける」か「追い続けない」かの二択で、私たちはいつだって選択を迫られてます。客観的にどっちが良いとか悪いとかではなく、基本的には本人が「選びたい」と思う方へ進めば良いー単純に自分の欲求に従うだけのことです。
しかし実際にはそう簡単には決まらない。なぜなら周囲の環境や事情、情報などの「本人以外」のものが判断を惑わせるからです。私はそう思います。
私も岐路に立っていました。「やりたい」と思って目指し始めたものも、なかなか実にならない状態が続いたときー「私はなにがしたいんだ」と分からなくなりました。
「あの人は仕事もらえているのに自分はダメだ、努力が足りない」「まだこんな年齢なのだから、こんなことについて悩むなんて烏滸がましい」「恵まれた環境にいるのだからもっと結果が出ていないとおかしい」とそんなことばかり考えて視野狭窄に陥っていました。
「やりたいことをやっているはずなのに毎日が辛い」という状況。矛盾していますよね。
私もそう思います。でもそんな状態を自分で認めてあげられない状態、即ち「疲れていた」んだと思います。
しかし、私の中には「疲れた」と感じることへの大きな嫌悪感がありました。
「やりたいことを好きでやってるくせに、腑抜けて甘えたことを」と自分に苛立ちました。ずっと長いこと、自分への憤りを抱えていたのです。正直、今もゼロになったわけではありません。
また、疲労を認めることは夢を追う自分の存在自体を否定するようで無意識に避けていたんだと思います。おかしな話ですが、それまでの人生、ただその為に生きていたので、夢を諦めることや結果が出せないことで、自分の生きている価値が無くなってしまう恐怖を抱いていました。
夢がある、しかし夢へ前向きになれない状況にいる、なのに行動が起こせない、自分を否定する、さらに夢へ前向きになれないー今振り返ると無茶苦茶ですが、そのサイクルの中にいるとなかなか抜け出せず、「楽しい」と感じることにも罪悪感を抱くようになっていきます。夢を実現もできていないのにそんなことを思ってる場合じゃない、と思うのです。
では「疲れている」となにがいけないのか。
単純に「頑張れない」状態が常態化します。そしてまた「頑張れない」自分へ憤り、責め、さらに「頑張れなく」なります。そんな自分の思考回路の不具合に気付くことができばくなります。そこから抜け出すにはその陥っている状況が「異常」で「疲れている」からだ、ということに気付くことから始まります。そしてそれを認めてあげることです。
泉水さんは
疲れた。疲れた。もう、疲れたのだ。
と、消費サイクルの早い理不尽な声優業界に身を置く自身の疲弊を受容しました。
この受容が出来たこと、これが「よかった」と安堵したポイントです。一度その「疲れた」ことを認められれば、物事の見方は変わり、心の負荷は軽くなります。
しかし、疲れたことに気付かない、受け入れられない人は、長くずっと苦しんでいくことになります。泉水さんは
わたしはいつしか「夢を追う」から「夢に追われる人」になっていた。
そう話します。
もしかしたら、彼女のようなー私のような「夢に追われる人」は沢山いるのかもしれません。
☆「疲れた」ことに気付くまでの障壁
感想とは少しズレますが、何故私は自分の欲求に気付き、素直に従うことができないのかを考えたことがあります。
かつて思い描いた「将来の夢」と今の自分がどう向き合うか。その答えは自分の中にしか存在し得ません。
夢を「追い続けたい」のか「追うのを辞めたい」のか、今自分がどちら側にいるのか。
答えを導くには、考える心と身体の余裕、自分の欲求に耳を傾ける力だと思うのですが、それが私には難しいことでした。その要因を考えた時に行き当たったのは、「情報過多な世情」でした。
泉水さんも記事の中で
Wikipediaでいろんな声優を調べて「この人は〇歳でデビューしたから自分もまだ大丈夫だ」という確認作業
をした経験を綴っています。
指先一つで多くのモノや情報がやり取りされる時代。溢れる情報を収集、精査、判断、自己反映する力が求められます。それはかなり労力がいることです。
しかし、それを怠れば、誤った判断につながったり、自己調査不足と批判されたりします。なので一生懸命調べます。調べれば調べるほど情報は溢れてきます。玉石混淆の知識に惑わされ、集めることでいっぱいいっぱいになり、自分で深く思考することに辿りつかないのです。
また、世の中にいる「夢を叶えた人」の情報も飛び交い、知識として蓄えます。
「あの人はあんなに大変な境遇だったのに夢を叶えた」「あの人はこんな大層な努力をして夢叶えた」という「成功例」は、ときに自分との悪い比較材料として影響を与えます。
「私はこんなに恵まれているくせに」「私なんて全然努力が足りない」という自己否定から、「そんな自分が疲れているなんて甘えだ、おかしい」と認められなくなる。
確かに努力家の思考として完全に悪いことではないかもしれません。それが性に合って奮起する方もいるでしょう。しかし「疲れた」ことに気付けない人は、知らず知らずに自分の首を絞めていることになるのです。
また、知識とあわせて、SNSの発達により、他人の視点もすぐに手に入れられるようになりました。物事を多角的に捉えられるようになったことは、何事にも「肯定と否定」の両方の立場が存在することを知ることにつながります。
「肯定」は嬉しいものです。しかし「否定」されると気分は落ち込み心に負荷を与えます。自分の行動が世間に「否定」されるかもしれない、その思考が自分の欲求よりも不明瞭な世間からの評価を優先させるのです。
「他人は他人。自分は自分。好きに言わせときゃ良い」
そう言える人は、おそらく自分の進む道についてそんなに悩まないでしょう。逆に言えば、その考え方に近づくことが、自分の欲求と向き合う近道なのかもしれない、そう思います。
☆未来へのエール
泉水さんは、進学され、新たな大学職員(研究者)という目標を得られました。そのことに対してシビアな意見が寄せられていて「舐めてる、考えが足りない」などの意見には私は少し息苦しさを感じます。
私がこの記事で掬い上げたいのは、「目標が声優から大学教員(研究者)に変わったこと」より「新しい夢(生き方)を見つけられたこと」だと感じたので。
もちろん、学問に生きる大変さを全く知らないわけではありません。自分自身4年間かけても研究の「け」の字にもならなかった経験を持っていますし、院進学をした友人や未だに学問の世界を生きている友人がいかに学生時分から優秀だったかもよく知っています。なので現場からの事実記載や意見の数々は先駆者の愛のある(と思いたい)アドバイスだな、と思います。
でも、頭ごなしに否定せんでも、とも思うわけです。
夢に疲れた人間が、新たに夢を持つことができたことにエールを送りたいわけです。
声優がダメだったから大学教員、という思考ではなかったはずです。
自分が「やりたい」と心が動いた対象が学問だったこと、そのことに今気付いた気持ちを大切に育んでもらいたいのです。誰だって最初はそこから夢へ向かい始めたのだということを。
新たな道が見つかって「よかった」。
さぞ無責任な言葉かもしれません。
それでも「頑張れ!」と心からのエールを送りたくなりました。
☆行きたい方へ舵をとれ!
結局、自分の船の舵を取るのは自分です。
目指すべき場所に辿り着くために、海図を広げて針路をとります。海の先になにがあるのかは辿りつかないと分からず、到着がいつになるか見通しが立たないことも多いでしょう。
不安に飲まれて難破することもあるかもしれません。
その過程で立ち往生をしたり、針路を変えることもあるかもしれません。
それでもその船からは死ぬまでおりることはできない。
それならば、少しでも自分にとって居心地の良い船や針路にした方がいいんじゃないかーそれくらいの心持ちで捉えられたら、いろんな道が見える面白い航海になるんじゃないか、そんな船長を目指したい、と少し停泊し気味な船の上で私は思うのです。
☆最後に
考えるきっかけを与えてくれた素敵なnoteを書き、さらに本記事内での紹介と引用を快く承諾してくださった泉水みちるさんに、感謝と敬意を込めて。