雉始雊(きじ はじめて なく)
-----------------------------------------
【二十四節気】
小寒(しょうかん)
【末候(第69候)】
雉始雊(きじ はじめて なく) 1月16~19日ごろ
-----------------------------------------
雉の雄が、妻となる雌を求めてなく頃だという。
しかし、私には雉の鳴き声自体がピンとこない。
「ケーン」という鳴き声らしい。
私にとっては、どうも身近な鳥ではなかったようだ。
雉がなく、と聞いて真っ先に思い浮かべるのが
「キジも鳴かずはうたれまいに」という民話だ。
簡単なあらすじは
幼い女の子が病にかかり
その父はその子が食べたいと言っていた
あずきまんまを食べさせるために
地主の倉からあずきと米を盗んだ。
その後その子は元気になり
「あずきまんま食べた」と言って手毬歌を歌う。
それをきいた近所の人が
「貧乏なあの家でなぜあずきまんまが食べられるのか?」と
不審に思い、そこから父親の盗みがばれてしまう。
そして咎人として父親が人柱にされてしまう。
娘は泣き暮らしたが、ある時ぴたりと泣き止み
それから一言も口をきかなくなってしまう。
年月が流れ、猟師が雉を撃ち落とした。
その雉のところに行くと、娘は雉を抱いて
「おまえも鳴かなかったら撃たれまいに」と呟き
それ以降姿が見えなくなった
というもの。
この話が載っている本を幼いころに持っていて、
何回も読んだ記憶がある。
それはそれは悲しいお話で、胸がキューっとなりながら読んだ。
その時の挿絵も、読んでいる実家の居間の風景もまだ覚えている。
きっともう30年以上もその本を目にしていないのに
様々な風景が思い出されるのだ。
それくらい強烈だった。
その本が私に与えた影響は少なからずあって
「余計なことを言ってはいけない」という信念は、
ここから発生している部分もある。
何かを聞いたり、知ったりした際に
直感的に「これは私の心に収めておかないと」と感じたら、言わない。
それは口が堅いという私の性質になったけれど、
一方で話したいことさえ言えなくなる、ということにもなった。
余計なことなのか、そうでないのか、も常に考えるようになった。
今、これを書いていて、改めて子どものころに感じた影響の大きさにびっくりした(笑)。
そしてちょっと心が軽くなった。
「あの性質は、こんなところから来ていたのか…」と。
ちょっとこの性質が息苦しいときもあったけれど
こうやって原因の一部がわかると、それだけでも少し心が楽になる。
雉そのものの思い出はないけれど、
雉にまつわる話は私の人生に大きな影響を与えていたようだ。