パッと見は美談な話を読み、寒気がした話
ある人が、「告白」と銘打って、自身のことを打ち明けた記事を読んだ。なかなかの文字数で、スマホで見た私はその長さにイラついたのだけど、もっと私をイラつかせたのは、内容だった。
それはぱっと見「美談」だった。不遇な状況にあっても、気持ちを切らすことなく、安易な手段も取らず、自分のできることで頑張っていきたいという決意表明のようなものだったのだけど、正直私はゾッとしたのだ。
なぜなら、その人の伝えたいことはごくごくシンプルで、要は「助けてください」っていうこと。それを長々と、「自分はがんばって全力を尽くしたけどダメだった」ということとともに巧みに心情をプラスし、さも壮大なストーリーであるかのように表現されていたのだ。
こういう風に、巧みなスキルで「自分は悪くない」と悲劇の主人公を気取る人って、昔からキライ。安易な手段を取らないと本人が主張するのも、単にできないからだろ?と思ってしまう。
本当に自分に非があり、周囲に迷惑をかけていると自覚している人は、あんなことは書けないはずだ。なぜなら、そんな暇があるならガムシャラに現状から脱出しようともがくはずだから。
この記事からは、作者のスキルの高さと狡猾さ、何より異常に高いプライドを感じて、体中がゾワッとした。そして二度とこの人の記事は読むまい、と思ったのだ。
☆
同時に、自分が「本来はこうすべき」と思えるのは、その人のような実績や成功経験がないからだと思った。「昔取った杵柄」的なものを、私はまったく持ち合わせていない。
これまでの人生、ひたすら平々凡々に、目立つことも華やかな成功も経験することなく、日常を淡々と生きてきて、今にたどり着いている。しかも、そもそも私は「目立ちたい」とか「多くの人から支持されたい」とまったく思うことがなかった。思うことがなかったから、経験するはずもない。
でももし自分に華やかな実績があったら、どう思ったのだろう。プライドをかなぐり捨てて、動くことができたのだろうか。何せ、経験したことがないからわからない。
ただ一つ、今後も変わらないのは、情で誰かを助けようと思うことはないということ。子供時代、情で動いた人が散々な目に遭うのを間近で見て来たので、しかも何度も見てきたから、情で動くとろくなことがないとバッチリ思い込んでいるのだ。
人を助けようと手を差し伸べるときは、「自分なら救える」とか「相手を立ち直らせたい」とかは思わない方がいい、と個人的に思っている。なぜなら、その時点で、美談を期待する自分がいるから。
しかし美談に仕立ててあることが透けて見えると、とんでもなくゲンナリするなぁ。自分で始末できることを黙々とやり、その上で事実を伝えて助けて欲しいというのなら、まだわかるんだけどね。
・・・と、こんなことを思う自分は、冷たい人間だと思うと同時に、人って怖いとさらに強く感じている。