お金とは自分にとって何であるかを考えてみた
先週更新を忘れていたじゃないか……←いま気が付く
いろいろな事情と、いろいろなしがらみがあり、若いころから「お金って何だろう」と考えざるをえない機会がよくあった。若い私にとって、お金はトラブルの元にしか思えなかった。いろいろ省くけど、そうとしか思えない環境にいたのだ。
お金ってすべてを奪い去るよな、と長い間思っていた。だから「たくさんお金を持つのはやめた方がいい」までは思わなくとも、「たくさんのお金を適切に扱うだけの器があるかどうかが大切」とは思っていた。これ、お金のブロックとかいうやつに当てはまるのかしら、もしや。
私にとって、お金は「自分で働いて得る物」だ。自分の働きの対価としてお金をもらい、そのお金を使って自由を得て、楽しいとかウレシイとかを経験させてもらう。だからお金は、「自分ががんばっている証」であると同時に「得た分だけ自由や楽しみが手に入る」もの。これは個人の価値観の話。
そもそも「働く」自体が好きだから、好きなことをして対価をもらうという感覚で、そのシンプルさが好きなのだ。
つまり、私にとってお金は「儲ける」「(働くということなしに)与えてもらう」ものではない、ということ。
子供のころ、親や祖父母からお金をもらって自分の物を買うのがあまり好きじゃなかった。なんだか申し訳ない気持ちになるのだ。有意義にお金を使わないと、とか、じゃあ有意義ってなんだ、とか、いろいろ考えてしまって、もらったお金が複雑化していき、よく困惑していたのを覚えている。
だから、成長してアルバイトでお金を得たとき、うれしかったなぁ。これで負い目を感じることなく、自由に欲しいものが買える、と思ったから。
それは働いてからも同じで、自分で得たお金は、精神的な安定と自由を私に与えてくれた。無駄遣いをしてもいいし、貯金をしてもいい。何をしてもいい。とてもシンプル。
そんな感じだったので、専業主婦になった途端、窮屈で仕方なくなった。夫が稼いだお金なわけで、自分は家事は苦手だから、なんか引け目と負い目を感じてしまって、また複雑化。そんなこと思わなくていい、は今なら心から思えるけれど。
お金って、それまで経験してきた感情とか思い、価値観が、ギュッと濃縮されている象徴のように思う。形として見えるのはお金だけど、見えないナニカが一緒にくっついている、もしくは自分がくっつけてしまうように思うのだ。お金がたくさんあったら、物だけじゃなくて、優越感とか安心感とか、ウレシイタノシイなんかも得られるじゃない?
だからこそ、その額に見合うだけの器や人間性が要ると思うのだ。でないと、翻弄されて流されるから。
お金をたくさん得て破滅してしまうのは、お金が悪いんじゃなくて、それを扱えるだけの器や人間性がなかった、ということだと思っている。
お金はたくさんのことを与えてくれるけど、お金に自分を支配させたら、そこで一気にゲームオーバー。今まで横にあったガードレールが突然消えて、一気に谷底に落ちる、みたいな落ち方をしてしまうと思う。
そういえば、「人生にガードレールはないよな」と歌っている楽曲があったな。確かにガードレールはないけど、自分を止めてくれたり、戒めてくれる人はいる。私のことを本当に思って投げかけてくれる厳しい言葉は、心が痛むからこそ、きちんと反応し、受け入れなければ。
だから、そういう人も大切にしたいな。お金は働いたら得られるけれど、そういう人はなかなか出会えないものね。
あれ、なんか、お金から話がズレちゃったな?
私はお金は大好きで、たくさん稼ぎたいけれど、それと何を引き換えにしているかとか、代わりに大切なものを失っていないかは、目を凝らして観察し、冷静に判断したいと考えている。
そんなわけで、これからもがんばって稼ぎたいと思います。