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白村江の戦い 【下】
日本人の大和魂を蘇らせる🔥氷神です!
今回は前回の記事の続きであります!YouTubeチャンネルの『結び大学』で発信された「白村江の戦い」についての小名木先生の解説を、文字化したものであります!
是非最後までお読みください。
中大兄皇子が中心となって、百済救援軍というものを編成しておよそ4万の兵力を日本からこの朝鮮半島に送ります
当時の人口からすると4万の兵力というのは現代日本で言うならばおよそ100万人の若い兵隊さんを送り込んだようなものです。
朝鮮半島に滞在してる兵達は、日本の軍隊が攻めると、すぐ逃げるのです!蜘蛛の子散らすよに、そして結局倭国が戦っているのは唐の兵隊なんです
唐の軍隊とずっと戦い続けて、そして前線はどんどん北上していきます
倭国の軍隊強いですから、どんどん北上していくのです!そして現在の平壌の北側ぐらいまで前線が北上してきます
そして唐を抑える所まできたのです!それほど倭国の軍は強かったんです、しかし考えてみると、戦っている場所は朝鮮半島です!けれども何のために戦っているかといえば、唐は新羅の為に戦っていて!
倭国は百済の為に戦ってるわけです、いつも前線で、威勢よく戦っているのは倭国の兵隊と唐の兵隊なんです!
...なんかおかしくねぇ?
となるわけです、本来であるならば新羅と百済が戦っては倭国も唐も援助してあげる立場です
サッカーの選手達がコート中で試合して、それをサポーターたち応援するはずなんですが、コートでゴールを争ってるのは両チームのサポーターになってるってかんじです!
そこで、倭国と唐の将軍同士がお互い会って話しする事になります!
いや!ちょっといくら何でもこれおかしいでしょ?
なので倭国はもうこれて引くので、半島の戦いで新羅や百済の為に戦ってるのに、半島に在住している新羅や百済が戦わないだから!
と倭国の将軍は言って引き上げる事にしました、さらに倭国側は唐の将軍に「唐の軍隊も引き上げたらどうですか?」と提案しました
唐の将軍も「そうですな、じゃあそういうことにしましょう!」その事を、ちゃんと示すために平壌の辺りまで前線が北上していたのを
倭国側は軍隊を南下させてソウルを越え、その南の方が白村江で朝鮮半島の南側まで軍団を下げてそこから日本の軍隊は、全員船に乗って半島から引き上げたのです
その上、倭国の軍隊は半島で戦った「唐の軍隊にも声をかけ、将軍同士が『休戦協定』結んだから引き上げようぜ」と言って、日本側は白村江にいた、全部の軍団を集計させて、船に乗って帰ろうとしたわけです
そして両軍の軍隊を乗せた船は朝鮮半島を出発して、船の中で戦士達は疲れ果てながらも、鎧も外し持って来た酒で皆んなで、楽しく酒盛りを行っていたところ
突然火矢が岸から撃たれて来たのです‼️
唐も倭国の船も当時は木造船です、その船の両方に火矢が大量に放たれたのです‼️
せっかく休戦協定結んだから引きあげようとして、船に乗っても武装も溶いてるっていうのに
火矢を受けた船は瞬く間に、火の海です、当然、軍隊も矢を放たれてますから反撃体制に入ろうとしますが、唐の軍隊も倭国が大人しく帰ると思ってる所に火矢が撃たれては、しっかりとした反撃はできません
唐の軍隊も、大量の人が火矢が刺さって死んでしまいます、日本の軍隊も船が火災にあって船が沈んでおよそ一万人の命を失います
大変な出来事が起こったのです
誰が火矢を放ったかいまだにわかりません!
歴史の謎なんです!
しかし放つとすれば、一つしかないと思いませんか?
確かに日本は反撃をしました、唐の軍隊と戦いをしましたが、生き残った軍隊も、すでに武装も溶いているし、しかも指揮系統も乱れた状態、船を捨てて泳いで陸に上がって、戦ったところで被害が増加するばっかりです、
白村江の戦いで日本側が甚大な被害を受け、多くの兵隊の命を失いました、これをまともな戦いと言えるでしょうか?
しかし辛くも、生き残ったおよそ3万人の人達はそれぞれ船に便乗して日本に帰って来ました、これが『白村江事件』と呼ばれているのです。
問題はこの後に起こります!
白村江の戦の後、4万のうちの1万人の兵隊さんが亡くなりました、倭国の若者が沢山死んだのです。
この若者たちというのは、全国の豪族の息子達です、わかりやすく言いますと、地主さんの息子さん達です、
豪族の息子達が国の一大事だっていう事で全国から集まってきて、半島の方に出兵していったわけです
勿論、一人でのではなく、大事な地主の子なので面倒を見る人も、3、4人一緒に付いています
地主さんからしてみれば...
「うちの子が朝廷にを呼ばれて、兵隊として出て沢山の軍功を挙げた、だけど帰ろうとする時に騙して討ちにあって死んだ、なんで騙されるような事になったんだよ!冗談じゃない!うちの子が死んだけだったら我慢しよう!しかし、うちの田んぼや畑で働いてくれている、小作人さんの所の倅(せがれ)も、うちの倅が心配だからといって、一緒について行ってくれたのに!うちの倅返してくださいって泣かれるだよ!」
天皇を中心とした国家として、日本が独立国を営んでいく、天皇という存在が非常にもありがたい存在だということも理解でし、そして皇太子殿下であった中大兄皇子が、
理屈からするならば、朝貢国に前に万一の事があったら助けていくのは当然の事なのです
ウチの子の死んだんだ!返してくれよ!生きたまま返してくれよ!って言われても何も手がありません
もちろん全部の豪族さん達は、倅が死んだことは仕方がない、国の為にに戦ったんだ、それはやむを得ない
しかし!日本という国の形をしっかりと保っていくことが、大事だと判断してくれる人たちも大勢いました
その逆も然り、「そうは言っても、うちの子死んだんだ!」と訴える人も沢山いたのです、
当時はこの二つの意見で分かれる、そのような状況だったんです、そういう状況下にあって、それでもまだ唐の国は日本を狙ってきているのです
白村江の戦いの後、新羅を味方につけた唐は高句麗を挟み撃ちして、高句麗を滅ぼしてしまいます、百済も滅んだのです。
そして、朝鮮半島は全体が新羅になりました、すると近くに新羅が出来上がったということは、唐からするとこれが今度は敵になるのです!
今まで、手を組んでいたと言いながらも信頼できないんです!
そうすると唐は倭国と国交を結ぼとします!今後、唐が新羅を完全に制服したとしたら、今度は唐と国境を接するのは日本です!
つまりは、日本は相変わらず唐の警戒をしていかざるを得ないという状況になるわけです!
そのためには日本は改めて国を統一しなければならないのです!それまでの倭国というのは、
実は
太平洋の広大な海域や南米又は中米の方に至るまで、広大が海国がが倭国だったのです!
これは、魏志倭人伝に書いてあるのです!
または、太平洋にある裸国や黒歯国いうものが元々倭国の一部だったんだということは、平安中期に書かれた源氏物語にも書いてあるのです!
でも現実問題として陸軍国である唐と海軍国である日本というものが、いざ戦いとなると、日本は国防を考えた場合
どっからどこまでの範囲を、日本とすべきなのかっていうことが大きな問題としてあがるのです
そして太平洋全域には日本人達が住んでいる、みんな日本の兄弟が住んでいるという認識はあったのですが、
国防を考えた時にそういう、小さな島々まで全部面倒を見るという事は物理的に不可能だったのです!
当時の日本は中大兄皇子が天地天皇に即位しますそして日本の防衛を固めようという事になった時に
日本というものを本州、四国、九州、壱岐、津島そして南西諸島を、日本の領域とする事によって、しっかりと守り抜く為に、具体的に国防圏っていうのを決めざるを得なかったんです!
とにもかくにも外国に侵略されないように国民を守らなきゃいけない、国民の生命財産を守るというのは国家の最大の使命だということで、行ってきました。
しかし、「天智天皇って元中大兄皇子だろあの朝鮮半島に百済救援軍を差し向けた、当の本人だろ!うちの倅のあれで死んだんだよ!」って思ってる人もいる中で
統一国家にしようとしても、どうしてもそのことが障害になってしまうのです、そこで、壬辰の乱が起こるです。
壬申の乱というのは一般的には天智天皇の息子である大友皇子、これに対して天智天皇の弟の大海皇子、後の天武天皇です
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大海皇子が天智天皇に挑んだ戦いである、これを壬申の乱という風に言われていますが、実際は天武天皇はまさに疾風迅雷の如く
大友皇子がおいでになる、現在の近江神宮がある所に向けて軍隊を進めて天智天皇を倒しています
この時に大海皇子(天武天皇)に味方した人達と言うのは反天智天皇派の地方の豪族たちなんですん
そして大海皇子が天智天皇を倒してのはお亡くなりになったことによって、大友皇子が次の陛下を継ぐというのに対して、それはけしからん!という事で大海皇子が攻め込んで大友皇子を倒して天武天皇として即位する、という状況になりました
天武天皇の奥さんが持統天皇です、これは女性の天皇です、持統天皇っては天智天皇の娘です兄貴の娘が弟です!
つまり旦那が天皇になった後に奥さんが後を継いで天皇にらなりました
持統天皇の時代に、ご本人が地方に行幸、すなわち地方回りをされた時に、この時に持統天皇は、地方豪族に襲撃されていたりもしてるです。
白村江の戦いから何年も経った後にです、なのに地方豪族に襲撃されて矢傷を受けています!この時代まで反天皇派は、未だに百済救援軍で日本が敗れ、その時に自らの子を亡くした
その恨みを国内にまだあったのです、そのような時代背景下にあって、持統天皇の旦那である天武天皇は
反天智天皇派の人たちを味方につけて壬申のの名を起こすのです!
そして天武天皇に即位するのです、即位した後に天武天皇はこう皇親政治という、中央貴族に政治を任せるのではなく
天皇はあくまでも国家最高敬意なので、政治に直接口を出すことはできません!
そこで奥さんの持統天皇が事実上の太政大臣の役割になり
奥さんの持統天皇が国政一切を仕切るという、こういうやり方をしました、その奥さんである持統天皇っていうのは、天智天皇の娘です、
そして旦那の天武天皇がお亡くなりになった後に持統天皇に即位をし天皇なるです、けども何故か持統天皇は在位がそこに後にいたるまで
都合三十数回、吉野に行幸されているんです
天皇が、皇居を離れて別な場所に移動するというのはお付きの人も沢山連れていくので大変な事です‼️
しかも国政一切を全部面倒を見ている持統天皇が吉野に行く
これ大変の方なんです、なぜ持統天皇はも何度も吉野に行かれたのかは、未だに謎とされているのです!
そして吉野の何処に行ったのかという事も現在でも、わかってないのです
いろいろ考えてみますと!おそらくこの壬申の乱というのは、天智天皇と天武天皇と持統天皇
元々の名前は、中大兄皇子と大海皇子と鸕野讃良皇女(うののさらめのひめみこ)
それに大友皇子まで一緒にくっついて、
4人で考えたやらせ事件だったんじゃないかというのが小名木先生の説です!
すべての恨み、朝鮮半島での戦いによって敗れたその事ことによって多くの死者を出してしまった
天皇に対する恨み辛みが、地方豪族の中でブスブスとくすぶっている恨みの全てを、天智天皇が一心に背負って亡くなる!
その後大友皇子が御即位される
なお大友皇子は、小さい頃からとても出来の良い子で、大友皇子が次の
皇位を注ぐという事にするなら「敗戦責任取れ」と言っている豪族のアンチ天智天皇は派の人たちも全部取り求めて
ここに向かって戦いを最も高いの混乱の中で大友皇子は、あらかじめもう一度すでに出家しているの後を追いかけて大友皇子も出家して吉野の宮に入って大海皇子が壬申の乱の後に天武天皇に即位をする事によって
天武天皇側、すなわち!壬申の乱で味方したというのは反天智天皇派の人達です
天皇が誰であれ、嫌なものは、嫌!というそういう思想だったんです
一方、大海皇子が天武天皇急ぎすると天智天皇にもともと付いていた人たちというのは、とにかく我が国において天皇という存在
こそが一番大事なんだということを素直に受け止めてる人達だったんです
つまり、後皇族としての霊を持っておられる天武天皇が皇位を継げば、その後を黙って配下に着くなりません
つまりそれまで敵対していた、天皇派と反天皇はの両方を天武天皇は一遍に味方にすることができるのです。
これによって混乱していた国内を一つに統一するということを仕組んだんではなかろうか、そしてその夫の天武天皇もそのまま跡を継いで政治を運営するはずだったものが、たまたま病気で亡くなってしまう
あとを継ぐのは誰か?天智天皇の娘の持統天皇になるわけです‼️
政治の後を作っでも、いろいろ迷ったりこの場合どうしたらいいのかなと、思ったりする機会というのはやっぱり多々ありそんな時に毎度吉野にいる父親と兄弟の所に通って
色々指示を受けながら日本という国を、一つに求める為に、働いて実際に壬申の乱で人の血が流れてるわけなんですが!
その様な、繋がりがあったんじゃないか、と実は天智天皇のは生きていて、大友皇子も生きていたのではないか、というのが小名木先生の予想だそうです。
事実を総合すると、そういう風に見ることも出来るので、歴史っていうのは表向きに書かれた、正史と呼ばれるものだけが歴史ではない、
歴史っていうのは、こう考えなければ、全体のストーリーが矛盾するに値するので、断片的な出来事をストーリー化するのが歴史学です
そういう意味では、もしかすると上記の様な小名木先生の予想ががストーリーとしてあったのかもしれない...
と長くなりましたが、白村江の戦いから壬申の乱までの大きな流れをいっぺんにご案内させて頂きました、
こうして日本は、7世紀に、統一国家というものを形成していった中に、大変な葛藤もあったでも結果として日本は天皇を中心とする国家という事で一つの国っていうものをまとめる事に成功した、そこで生まれた平和と安定という事が、
その後日本というものを形成する事に、ものすごく大きく役立っていったという事は、これは歴史から我々がしっかりと学ぶべき事ではないかと思っております!
いかがでしょうか?小名木先生の解説はすごく分かりやすいですね✨
とても学びになります!ちなみに裏話ですが、最近は動画内でも紹介されますがオンラインコミュニティの「ゆにわ塾」では『裏結び大学』ってコーナーでは、YouTubeでは言えない様な事も発信してます!
こっちは、かなり興味深い内容で、毎回ワクワクです‼️
興味ある方は1ヶ月無料なので、入会してみてください
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。