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「坂本龍馬」伝説はどのように語り継がれてきたか【事物起源探究創刊号】

※松永英明個人誌『事物起源探究 創刊号』(2010年5月)より。

◎坂本龍馬のイメージ

NHK放送文化研究所『日本人の好きなもの――データで読む嗜好と価値観』(NHK出版生活人新書、2008)によると、好きな歴史上の人物は、織田信長(12%)、徳川家康(9%)、坂本龍馬(8%)が三傑となっている(以下、豊臣秀吉、聖徳太子、武田信玄、源義経、西郷隆盛、福沢諭吉、野口英世と続く)。私のように、日本人でいえば平将門・松永久秀・明智光秀・天海・渋沢栄一が好き、というのはどう考えても少数派だ。
 それはともかく、坂本龍馬を好きという日本人は多い。そして、坂本龍馬は偉人とされ、「現代の坂本龍馬を目指す」というのは無条件に素晴らしいこととされている。企業理念にまでは書かずとも、龍馬気取りの経営者がどれほど多いことか。
 その「時代に先駆けた革新者のシンボル」的なイメージは、司馬遼太郎によって生み出され、定着したものであることは言うまでもない。ただし、司馬遼太郎が書いたのは『竜馬がゆく』という「小説」である。それは決して「史実」そのものではない。そこに描かれた龍馬像は、司馬遼太郎が脚色したものである。
 だから、たとえば「『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリー(もしくはラインハルト)が好き」というのと同じ意味で「『竜馬がゆく』の坂本龍馬が好き」というなら一向に構わないのだが、それがフィクションだと気付いていないとしたら問題がある。
 さて、今年はNHK大河ドラマで『龍馬伝』が放映されているため、坂本龍馬への注目度も高い。この「坂本龍馬」の虚像はいかにして作られていったかの歴史をたどってみたい。

◎汗血千里の駒

 明治維新を前にして「暗殺」された坂本龍馬の存在は、維新後にはほとんど知られていなかった。やがて土佐人などの手によって龍馬の伝説が発掘されていく。
 明治十六年(一八八三年)坂崎紫瀾が高知の自由民権派の新聞「土陽新聞」に『汗血千里の駒』という小説を連載した。これが最初に坂本龍馬を主人公とした小説といえる。正式なクイトルは『天下無双人傑海南第一伝奇 汗血千里の駒』で、一月二十四日から九月二十七日まで全六十四回(実数としては六十八回)の連載であった。ただし、作者が不敬罪で入獄したため、第五十三回(三月三十日)と第五十四回(七月十日)の間は休載となっている。
 これは連載中から単行本化され、明治十六年五月の西京腰々堂から『汗血千里駒初編』として出された後、いくつかの版が出ている。同年七月の摂陽堂版は雑賀柳香が大幅に編集を加えたものだが、この版がいわば定本となって後に踏襲された。この『汗血千里の駒』は史実通りではない。「伝奇」というとおり、脚色や変更部分もや々ある。千葉佐那は千葉光子、お龍はお良、寺田屋は瀬戸屋等々、名前も変えられているのである。
 なお、本書の記述をもとに「日本で最初の新婚旅行は坂本龍馬」という説が流布されているが、これは誇大解釈といえよう。連載第三十六回において、寺田屋事件(作中では「瀬戸屋」での襲撃)後、療養を兼ねて薩摩に行くにあたり、「お良」改め「鞆子」が一緒に行きたがったという場面が出てくる。説得に負けて龍馬も同行を認めた。そこでの記述にはこう書かれている。

龍馬も遂に鞆子の望のまゝに任する事となりて、母にも暫しの別を告げさせて都を跡に舟出したるは、自と彼の西洋人が新婚の時には「ホネー、ムーン」と呼びなして花婿花嫁互ひに手に手を取りて伊太利等の山水に逍遥するに叶ひたりとや謂はん。

 この後半部分を改めて現代語訳すれば「まさに西洋人が新婚のときにハネムーンと言って、花婿・花嫁が互いに手に手をとってイタリアなどの観光地を逍遙するのと同じといえよう」という、著者による解説である。ということは、龍馬自身がこの薩摩行きを「新婚旅行」だと認識していたとか、「新婚旅行として薩摩に行こう」と考えたという事実はまったくないということである。言い換えれば、龍馬は最初に新婚旅行をした人物ではない。これが新婚旅行なら、ヤマトタケルが弟橘媛を同行したのも新婚旅行になってしまう。
 いずれにせよ、同書が坂本龍馬の知名度を高め、また龍馬伝説の土台となったことは間違いない。

◎勝海舟『追贊一話』

 勝海舟が坂本龍馬に会ったという話は、勝海舟自身の書書『追賛一話』に見られる。これは明治二十三年(一八九〇年)の出版である。坂本龍馬の項を全文現代語訳してみよう。

 氏は、かつて剣客千葉周太郎と一緒に、私を氷川の家に訪ねてきた。時に夜半。私は我邦の海軍を興せねばならない理由を談じ、話は尽きなかった。
 氏は大いに合点したようで、私に言うには「今宵はひそかに考えていたことがあった。もし、公の説の如何によっては、公を刺そうと決心していた。今、公の説を聞いて、大いに私の見識の狭さを恥じている。どうかこれから公の門下生となりたい」と。それ以来、代は海軍に考えを寄せ、休む日もなかった。別紙に掲げたもの(※『流芳遺墨』に掲載予定だったもの)は、氏の海軍に関する部下に対する規約である。
 氏はかつて西郷隆盛に会ったことがあった。後日、私に言うには「初めて西郷に会った。その人物は茫漠として捉えがたい。この人を大きく叩けば大きな答えがあり、小さく叩けば小さな答えがある」と。私は深くこの言葉に感じ、実に道理にかなった言葉と思った。人を見るときの基準は自分の見識と思慮にある。氏が西郷を評する言葉によって、氏の人物を知ることができる。
 氏の一代の事業については、すでに世に伝わっているため、今はあえて言葉を尽くさない。

 「龍馬は自分を刺しに来たつもりだったが、話に感服して弟子入りした」という勝海舟の主張は、『竜馬がゆく』でも採用されているエピソードだが、実は史実ではないとされている。そのため、大河ドラマ『龍馬伝』でもこの場面は登場しなかった。
 末尾に、龍馬の事蹟はすでに世に伝わっていると述べているが、明治二十三年にはすでに『汗血千里の駒』などによって龍馬伝説は広まっていたということになる。

◎昭憲皇太后の夢枕

明治三十七年(一九〇四年)、日露戦争のときに皇后美子陛下の夢枕に龍馬が立ち、戦勝すると告げたという。これが全国の新聞に掲載されたという。ただし、この新聞記事自体は私は未見である。
 しかし、十年後だがこのエピソードに触れた新聞記事は発見することができた。明治が終わって大正となると「皇后陛下」から「皇太后陛下」と変わったが、大正三年(一九一四年)四月九日に崩御。十一日にそれが公表された。四月十三日の東京朝日新聞には「外人の見たる皇太后陛下」等々と題された特集記事が掲載されている。その中に、夢枕龍馬のエピソードも記されている。これはあまり引用されていない資料のようなので、全文を原文ママで引用しておこう(ただし総ルビなのでルビはほとんど略した)。

▲御夢枕に立つ志士の面影
▽故陛下と坂本龍馬

日露戦争の砌り即ち明治三十七年二月六日夜皇太后陛下が葉山御用邸にてゆくりなくも御夢に坂本龍馬が長廊下に立ち現はれ戦勝疑ひなき由恭しく言上したりと云ふは名高き話なるが此事に就き興味深き物語あり
▲主上に御物語 皇太后陛下坂本龍馬の夢を御覧ぜらると同時に最と不思議の事に思召し主上に其由懇々と言上あらせられたり主上には之を聞し召して同様奇しきことに思召してかに角とお話しあらせられたる後山県大山両元帥参内の砌り御下問あらせられしかば両元帥は勤王の大忠臣にして云々と委細奉答申上げ其後伊東巳代治子に此由物語りしかば子は或日某新聞記者に話したるが始めにて此事が世に伝はりし次第なり
▲写真の御希望 陛下には御夢と同時に急に龍馬の写真御覧の御希望あり香川皇后宮大夫に其由御諚ありしかば大夫は御旨を体し写真を手にせんと願ひ居る中大浦兼武子に会ひ逐一の次第を申伝へしに大浦子は「それならば龍馬を匿まひたる京都伏見寺田屋の女将音瀬が所持し居る筈なり某より手紙を送り取寄せ御上覧に供すべし」とて直に寺田屋に通知せり
▲珍しき一葉の写真 茲に音瀬の娘聟にして当時大阪堂島取引所理事を勤め居たる荒木栄一が大浦子よりの来書を見て早速龍馬の写真を持ち感激の余り小さき奉書の紙に「君のためつくす心は死してのちなほやまざるや大和魂」と云ふ歌を詠み出で懐中して不断着の詰襟の洋服を着替る暇もなく東上大浦子を訪うで写真と歌とを示した大浦子は之を見て「珍らしき写真を御上覧に供せば陛下には嘸かし御満足に思召さるゝことならん直に香川皇后宮大夫を訪へよと言ふ荒木は廿年前には香川大夫とは親友の間柄なりしも其時は一は高位の人、一は平民殊に詰襟姿なれば如何あらんかと躊躇せしに構ふことあるべきかは早く早くとのことに左らば香川大夫の邸に急ぎぬ
▲譬方なき光栄 斯くて写真を示し尚余りの嬉しさに斯の如きもの読み出でしと例の奉書に認めし歌をも示せしに大夫は其二ツとも受取りしが翌日大人より荒木の宿へ坂本の写真を返し来り「陛下の御覧に供へしにいとも御満足に思召されたり是はお家の宝たるべければ御返し遊ばさる又歌は陛下の御手許に留置かせられたり」とのことなりき
▲大黒寺の記念碑 荒木は面目身に余り感涙に咽びつゝ立帰り霊山に御夢の碑を建立したるが其以前に大阪に住へる音瀬の倅寺田伊助、所蔵坂本龍馬の簡墨一管を御上覧に供せしこともあり坂本亡霊弔霊の為めとて香川大夫より大浦子の手を経て金百円を御下賜になりしかば荒木は之を拝受して地に隣れる大黒寺に大浦子撰文の記念碑を建立せり当時陛下の御歌所録事加藤義清翁に命じて御瑞夢の歌を作らしめらる(京都電話)

 簡単にまとめると、皇太后(当時は皇后)の枕元に龍馬が立って戦勝間違いなしと告げた。これについて天皇が山県有朋・大山巌の両元帥に尋ねると「勤王の忠臣であります」と教えた、という。ということは明治大皇はそれまで龍馬のことを知らなかったということである。さて、この写真が欲しいということであったが、京都寺田屋の女将が写真を持っているということがわかった、云々という一連の流れが記事化されている。
 これらの記事により、坂本龍馬は海軍の先駆者、護国の守護神となってしまったのだった。
 なお、このエピソードについて「昭憲皇太后の夢枕に龍馬が立った」と記している資料が多々あるが、昭憲皇太后という追号は死後のものであり、当時は「皇后」だったわけだから、この表記は誤りと言わねばならない。

◎大正デモクラシーと龍馬

 その次の龍馬ブームは大正デモクラシーのときであった。龍馬の「船中八策」の第二条「万機宜しく公議に決すべき事」がデモクラシー(民主主義)であり、大政奉還を唱えたのが「平和主義」だったとして、尾佐竹猛によってクローズアップされたという。これは「平和革命論者」のイメージで、戦後のマルクス主義史学にも継承されたという。

◎司馬史観と『竜馬がゆく』

 その後も龍馬伝説は語り継がれることなったが、龍馬を「歴史人物人気投票第二位」の地位まで押し上げたのは、まぎれもなく司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』だろう。昭和三十七年(一九六二年)六月二十一日から昭和四十一年(一九六六年)五月十九日まで産経新聞夕刊に連載され、文藝春秋から単行本化された。
 土佐藩などについて詳しい歴史家の平尾道雄が「坂本竜馬は維新史の奇跡的存在である」と述べていたことから、司馬遼太郎は龍馬について調べたくなったと述べている。
 司馬遼太郎は優れた歴史作家である。そして、あまりにも小説家として優れていたがゆえに、「歴史に題材をとったフィクション」である小説が、あたかも「真実の龍馬像」であるかのように受け取られ、誤解を招くという弊害ももたらしているといえる。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』に書かれた内容を史実と勘違いして受け取ることに対して、最も強く反対の意を示し、論文や著書を多く出しているのが松浦玲である。氏は決して司馬遼太郎の業績を否定しているのではない。ただ、史実とは相違する部分や、司馬が描いた「竜馬のイメージ」について、決してそれを史実や実像と受け取ってはならない、と強調しているのである。
 たとえば、大政奉還を着想したのは龍馬ではない。それ以前、文久期にすでに大久保一翁や松平春嶽が大政奉還論を述べていた。しかし、大久保一翁はその主張によって左遷され、春嶽もその主張を受け入れさせることはできなかった。この二人から直接話を聞いている龍馬は大政奉還論を受け継いで、それを建白させるきっかけを作った功績は確かにあるものの、発案は龍馬ではない。しかし、『竜馬がゆく』では、竜馬が「とっさにひらめいた案」であるとされ、さらに「驚天動地の奇手」だという解説が入る。松浦玲によれば、これは「小説の主人公龍馬に対する司馬さんのサービスである」ということになる。
 司馬遼太郎は主人公(あるいは時代そのもの)を面白がり、そして主人公にサービスする、と松浦玲は指摘する。以下、『検証・龍馬伝説』(論創社)から引用する(表記は原文ママ)。

 司馬さんの作品の特徴は、司馬さんが主人公はじめ登場人物たちを面白がっているところにある。おかしがっていると言ってもよい。
 『竜馬が行く』で言えば、坂本竜馬が面白くてたまらず、龍馬を生みだした家族や土佐の人々が面白くてたまらず、龍馬の活躍の舞台が広がるにつれて接触範囲が広がっていく薩摩や長州や、また幕府側の人々が面白くてたまらないのである。変なヤツもいるけれども、それはそれで面白く、おかしい。
 面白いので面白がって書き、その面白さの線上で生人公や登場人物たちにサービスをする。時には過度ではないかと思われるほどのサービスもする。(略)
 『坂の上の雲』は石油ショックより前の作品だけれども、また一歴史家としての私から見ると、『竜馬がゆく』で部分的にだがやってみせたような問題点を、同じように非常に多く感じる作品なのだが、それゆえに私には小説としてめっぽう面白く、従って日本人にとっての「歴史」であり続けるだろう。
 正岡子規や、とりわけ秋山好古・真之兄弟に対する司馬さんのサービスは「司馬史観」の真髄だと断じてよい。唐突だがそれは、八〇年代に入って書かれた『菜の花の沖』の高田屋嘉兵衛とゴローニンに共通する。

 そして、司馬遼大郎は登場人物への大サービスが面白いからこそ、小説としての価値を高めている。だが、それによってあまりにも「司馬版竜馬」のイメージがあたかも実であるかのごとく受け取られるという大きな弊害も生じたといえる。
 二〇一〇年四月二十二日のNHK「スタジオパークからこんにちは」(武田鉄矢が出演)によれば、武田が坂本龍馬を好きになったきっかけも、司馬遼太郎著『竜馬がゆく』を読んでからだとされている。司馬作品は、その熱心な読者によって「布教」され続けているのだ。

◎大河ドラマの影響

 竜馬伝説については今もなお「司馬遼太郎時代」と考えられるので、この後の流れは多少端折ることにする。
 昭和四十三年(一九六八年)は「明治百年」キャンペーンが展開され、この年のNHK大河ドラマは「竜馬がゆく」であった。これにより龍馬ブームが再したという。六年目の大河ドラマとなった「竜馬がゆく」は視聴率は過去最低だったようだが、原作本はよく売れた。また、テレビドラマ化されてサラリーマン層以外の視聴者にも受け入れられたと考えられている。
 そして二〇一〇年の大河ドラマ「龍馬伝」へと至る。今回の大河ドラマでは司馬説に準拠はしていないが、岩崎弥太郎(三菱の創始者)を「語り手」役に持ってくるなど、明治維新・近代化を礼賛する視点から描かれていることには注意したい。そのため、幕府側の「腐敗」が強調されるなど、やはり「龍馬へのサービス」が盛り込まれているといえる。「龍馬伝説」は今もなお増強され続けているのでいる。

参考文献

松浦玲「歴史小説と歴史学は違う 司馬史観を持ち込む愚」(Ronza一九九七年五月号)
松浦玲『検証・龍馬伝説』論創社(二〇〇一年)
松浦玲『坂本龍馬』岩波新書(二〇〇八年)
箱石大「坂本龍馬の人物像をめぐって」(歴史評論一九九四年六月号(No.530))



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