「靖国神社」の教義はどのようにして生まれたのか【事物起源探究創刊号】
※松永英明個人誌『事物起源探究 創刊号』(2010年5月)より。
「近代」再考1
「靖国神社」の教義はどのようにして生まれたのか
◎事物起源から「近代」絶対視への懐疑
私、松永は「近代」懐疑派だ。
事物起源を探っていると、どうしても日本の近代化、あるいは明治維新という時代における「断層」にぶつからざるを得ない。今、私たちが特に批判も持たずに「日本的なもの」と思っている事物の非常に多くの部分が、実は明治維新・近代化によって生まれたものであるという事実が、事物起源研究によって次々と浮かび上がってくるのである。
簡単に列挙するならば、「神前結婚式」は西洋風の結婚式を日本にも導入すべく、明治三十三年に作り上げられたものである。今の日本人が桜といえば思い出すソメイヨシノも、幕末に駒込染井村で品種として確立し、同じ(明治三十三年に「ソメイヨシノ」と命名された。
日本の領域が「北海道から沖縄まで」とする概念も明治以降で、それまで琉球国も蝦夷地も異国だった。開国前の「鎖国」体制にあっても、長崎で清とオランダ、対馬の宗氏が朝鮮国、薩摩の島津氏が琉球国、松前八が取夷と交易をしており、この四か所が「外国との接点」だった。
「君が代」の歌詞は古いが、メロディは明治以降に作曲されたものである。
正月元旦の初詣は電鉄会社が宣伝してから広まったものであり、正月の年賀状は明治の郵便制度が整備されたことによって定着した。喪服はそれまで白だったが、明治中期から西洋に合わせて黒となった。家に神棚を置くようになったのも明治初期から。
そして「国語」としての現代語が生まれたのも明治ならば、いわゆる「歴史的仮名遣い」が完成したのも、ひらがな・カクカナが確定した(変体仮名が変則のものとして排除された)のも、明治になってからのことである。
このあたりはきちんと整理すると大変なことになるだろうが、ともかく、明治とそれ以前にはつながりはあっても大きな「断層」がある。ここで私は「断絶」という言葉を避けた。まったくとぎれているわけではないが、大きなズレが生まれたからだ。
終戦の前と後でも大きな変化があったが、それ以上の巨大な断層が明治維新には存在している。だからこそ「明治事物起源」というそのものずばりの本が出たりもするわけだ。こうして考えてみると、「近代」に始まったいろいろなものはたかだか百五十年ほどの「伝統」しか有さないわけで、そこまで絶対視するほどのものではないと感じられてくる。
◎神道的じゃない靖国神社
さて、そんな中でふと疑問が浮かんだのが、靖国神社のことだった。靖国神社も戊辰戦争前後からの「新しい」神社だが、その発想というか教義がどうも他の神社と違っているような気がする。
たとえば、日本的な御霊信仰というのは、基下的に「収者」の鎮魂をすることで怨みを鎮めようとするものだ。九州に流された菅原道真を天神様として祀ったりするのが最大の事例といえる。勝ち組だろうが負け組だろうが関係ない、むしろ敗れた人たちを手厚く葬るというのが日本古来のやり方である。
ところが、靖国神社では戊辰戦争の「官軍」や人日本帝国の兵士を祀っている。戊辰戦争で幕府軍側についた戦死者、たとえば新撰組の近藤勇や土方歳三は祀られていない。上野で官軍と戦った彰義隊も、会津で自刃した少年たち白虎隊も、土方とともに五稜郭で闘った「蝦夷共和国」軍も、一切祀られていない。また、官軍と西南戦争を戦った西郷隆盛も靖国神社にはいない。
旧来の日本神道であれば、ここで挙げたような人たちをまっさきに祀るのが「筋」というものである。さもなくば新政府は彼らの怨念によって滅ぼされるはずだ。ところが、靖国神社は政府軍(薩長または明治新政府、大日本帝国)に従った兵士のみを顕彰する。「神社」の意味がまったく違うのである。
中曽根康弘元首相は「靖国参拝派」だが、政治的問題を回避するためにA級戦犯を分祀することを主張している。さらに「靖国神社の神主さんが(分祀に)反対しているが、どうも明治に国家神道になって、それで神主さんの視野が狭くなった。昔のように、もっとおおらかな神道に帰ったらどうか」と発言しているという。
◎合祀・分祀の教義について
二〇〇八年夏、私は「人力検索はてな」で以下のような質問を提示した。
この質問についてはなかなかズバリの回答は得られなかった。しかし、いくつかのことが判明してきた。
まず、そもそも松平永芳宮司自身が言っているように、「『座』が一つしかない」というのは、靖国神社が「他の神社とは異な」るもの、つまり靖国独特のものだということだ。したがって、靖国神社の前身である招魂社が幕末に作られてからの新興宗教教義といってよい。
◎古来の神道と定義の違う「合祀」「分祀」
次に問題になるのは、「合祀」という言葉の定義である。靖国の「合祀」と、他の一般的な神道の「合祀」は微妙に違うことを指しているようなのである。「一般の神道では「合祀」とは、一つの神社で複数の神格を祀ることと考えられる。たとえば、南方熊楠の『神社合祀に関する意見』の中に、「従来一社として多少荘厳なりしもの、合祀後は見すぼらしき脇立小祠となり」とある。『神道事典』では合祀を「(一)本殿合祀」「(二)境内合祀」「(三)飛地境内合祀」の三種類に分類している。いずれも、同じ建物の中に別の神様を「合わせ祀る」状態であって、つまり複数の神々を合祀しても、座は別々なわけである。
今、ちょっと大きな神社などに行くと、その境内に小さな祠がいくつも並んでいたりする。あれが「合祀」の実例なのだ。
だから「分祀」の例も存在する。最も有名なのは江戸の神田明神だ。神田明神はもともと大己貴命が祀られていたが、後に平将門がこの神社の「相殿神」とされた。つまり「同じ社の中でともに祀られる」という、本来の意味での「合祀」である。
ところが、将門は新皇を自称した「逆賊」である。明治七年、明治天皇が行幸することとなったとき、将門は祭神から外されて境内摂社に移された。つまり「分祀」されたわけである。その代わりに大洗磯前神社から少彦名命が勧請された。つまり祭神の入れ替えが行なわれたわけである。今はまた将門も本社に戻り、三神が祀られている。
しかし、靖国神社の主張における「合祀」「分祀」という用語はこれとは違っている。神田明神の場合は、大己貴命・将門・少彦名命がそれぞれ別の座にあって「合祀」されていたのだが、靖国神社の場合は「座」が一つしかなく、「二五〇万柱の霊が一つの同じ座ぶとんに座っている。それを引き離すことはできません」と主張されているのである。
靖国神社は極めて特殊であると言わざるを得ないだろう。
◎某大学神道研究会の見解
調べているうちに、どこをどう調べればいいのかわからなくなってきた。そこで、某大学の神道研究サークルにメールで尋ねてみることとした。丁寧な返答が返ってきたのだが、大学名・サークル名を出さないでほしいという要請があったので、その部分は伏せさせていただくこととする。まず、私が送ったメールの骨子は以下のとおりである。
これに対する返答は以下のようなものだった(匿名を守るために一部編集したところがある)。
◎納得のいかない回答
残念ながら、私はこの回答には納得できなかった。
「神道には教義がない」というのだが、たとえば吉田神道、度会神道、復古神道、伯家神道、山王一実神道など、明らかに教義を持つものは多い。もちろんドグマとしてすべての神社に貫かれている明確な教義が定められているか、キリスト教のように「これを信じる人が信者」という定義があるか、といえばかなり曖昧ではあるが、では神道とは何でもありかといえばそうではないだろう。
そもそも靖国神社で「座は一つ」「分祀できない」と主張することこそ、それが靖国神社の教義であるということではないか。
もちろん「一社の故実」を重視する(言い換えれば神社ごとにバラバラ)という事実は、たとえば作法などの部分において存在するだろう。ちなみに「一社の故実(いっしゃのこじつ)」とは、その神社の特殊な由緒、あるいは古儀により、明治以降継続して行なわれている事柄を指すという(『神社祭式同行事作法教本』)。「少なくとも明治以降」というのが、非常に新しさを感じさせるところではある。
また、この回答では「調べればそういうのもあるんじゃないの?」というニュアンスが全体に漂っており、明確に「こうだ」というものではなかった。靖国の教義を裏付けるものも「あるんじゃないの?」程度の回答であるが、逆にもし明確にそういうものが存在するなら、靖国自身がそれを持ちだして呈示するはずである。ここでも、「たくさんあると思う」と言いながら、具体的な反例は一つも示されなかった。
この回答で興味深かったのは、「そういうのもあるんじゃない?」と言いながら、「それは靖国の一社の故実かも、靖国に聞かないと」と主張される項目が多々あり、つまりそれは神道一般とは外れているという事実を逆に裏付けていることである。
この回答を得て、私は「靖国神社の主張は、一般的な神道とはかけ離れているのではないか」という思いをさらに強めることとなった。
◎招魂社・靖国という「新しい宗教」
別冊宝島『ニッポン人なら読んでおきたい靖国神社の本』なども読んだのだが、私の抱いている疑問の解決にはならなかった。
そこで手にしたのが村上重義『天皇制国家と宗教』(講談社学術文庫)であった。この本には私が抱いていた疑問を確かに裏付ける記述が多く見られた。「第二章国家神道の確立と近代天皇制」の「5日清・日露戦争と靖国神社」がまさに該当する項目である。
靖国に関する記述は「靖国神社は、近代天皇制下の創建神社の中でも、きわだった特異性をそなえた神社であった」から始まる。靖国神社は特殊なのである。
靖国神社の前身は招魂社で、これも幕末、長州に始まった独特な存在だった。同書および村上重良『慰霊と招魂』(岩波新書)ならびに三土修平『靖国問題の原点』(日本評論社)の記述をもとに年代順にまとめると、靖国創建に至る流れは以下のとおりとなる。
○文久二年(一八六二年)十二月二十四日、津和野藩士の国学者・福羽美静(ふくばよししず)が京都霊山において私祭を行ない、安政の大獄以来の弾圧に斃れた志士たちの霊を祀る。招魂祭のはしり。
○慶応元年(一八六五年)、下関の桜山に桜山招魂場(現・桜山神社)が作られた。招魂場を発案したのは奇兵隊の創設者・高杉晋作である。社殿と鳥居があり、背後に戦没者等の共同墓地が設けられた。着工は前年(文久四年)。
○同年七月四日、長州藩では各郡に一か所ずつ招魂場を建設する布令が出された。長州藩では長州征伐(二度)と下関戦争で多数の藩兵が戦没したため、招魂祭がさかんに行なわれ、幕末には十六の招魂場があった。
○慶応四年(一八六八年)に戊辰戦争が始まる。四月、江戸開城。
○同年五月、新政府は京都東山の霊山(りょうざん)に招魂社を設ける。嘉永六年(一八五三年=ペリー来航)以来の尊王派「国事殉難者」と、鳥羽伏見の戦い以降の官軍戦没者の霊を祀った。
○同年六月、東征軍大総督府が江戸城で官軍戦没者のための大規模な招魂祭を営む。
○明治二年(一八六九年)、東京奠都にともなって、東京に招魂社を創建することが決まる。推進したのは、元・奇兵隊幹部で東征軍を指揮した大村益次郎(今の靖国神社に像がある)。六月に造営が始まり、十日で竣工。六月二十八日深夜に霊招式(招魂式)が行なわれ、戦没者三五八八名の霊を仮本殿に鎮祭した。
○同年八月、明治天皇は永世祭祀料として社領一万石をあたえる。
○明治五年(一八七二年)、神明造りの社殿が完成。
○明治七年(一八七四年)、鳥羽伏見戦争記念日の例大祭に明治天皇が行幸して参拝。
○明治八年(一八七五年)、勅旨により、京都東山の招魂社に祀られていた国事殉難者が東京の招魂社に合祀される。
○明治十二年(一八七九年)六月四日、社号を靖国神社と改め、別格官幣社(臣民を祭神とする神社に授けられる最高の社格)に列格される。
○明治二十八年(一八九五年)十二月十七日、日清戦争の戦没者を合祀する臨時大祭。合祀は直接の戦死者のみ一四九六名。
○明治三十一年(一八九八年)十一月五日、戦病死者一万一三八一名を特別合祀。
○明治三十八年(一九○五年)五月、日露戦争中にそれまでの戦没者三万○八八三名を合祀。
○日露戦争後、国レベルの靖国神社、府県レベルの招魂社(のち護国神社)、市町村レベルの忠魂碑というシステムが整備される。
つまり、靖国神社は長州の「招魂」の場として高杉晋作が原型を造り、大村益次郎が東京招魂社を建て、それが次第に巨大化していったということになる。
◎「招魂」は神道ではありえない
『天皇制国家と宗教』で特に興味深いのは、このような記述である。
「招魂祭は、神儒仏の葬祭とは異なる新しい形式の祭り」という部分を素直に受け取れば、招魂思想は神道・儒教・仏教のいずれとも異なる、いわば「新宗教」あるいは「独自信仰」の儀礼であったということになる。後に神社システムの一つとされたので神道のように思われるが、幕末に長州で生まれた新宗教であると認識するならば、それが一般的な神道とは大きくかけ離れたものであり、むしろ「神道ではない」と考えた方がよい理由が素直に理解できるように思われる。「一社の故実」どころか、新興宗教招魂教だったのだ。
ところがこの長州から生まれた新宗教は、新政府による「国家神道」の一つの柱となっていった。調べてみればわかるが、この国家神道そのものが明治以前の神道とはかなり毛色の違う救えを多分に含んでおり、しかも靖国/招魂という新しい教えがそれを支える一助となっていたのでいる。
また『慰霊と招魂』にはこのような記載もある。
招魂社・靖国神社は幕末長州生まれの新宗教儀礼施設であって、神道でも何でもない。ましてや「日本古来の伝統」などではありえない。そう考えれば多くの迷が解けてくる。
◎それまでの伝統にない新しい祭祀
三土修平『靖国問題の原点』(日本評論社)には以下のような記述がある。これもまた、靖国の特異性をよく示していると思われる。
死者を没後すぐに祀ることは御霊信仰以外にはなかったが、戦死者の怨みを鎮めるためではなく、むしろ「賊軍」をうち捨て、権力宣揚の手段として官軍の死者を顕彰するというのは、まさに招魂社・靖国の「独自教義」であると言っても過言ではない。
◎靖国神社思想は水戸学(朱子学)から生まれた
ここまで見てくれば、もはや結論ははっきりしている。靖国神社は確かに国家神道の重要な一部ではあったが、幕末の長州藩や尊王攘夷派によって作り出された新興宗教であって、日本神道の伝統とはまったく呼べないということである。
ではその特異な教義はどこから生まれてきたのか。小島毅『靖国史観――幕末維新という深淵』(ちくま新書)では、この死生観が儒教の一つ朱子学の理気論から生まれてきたと述べている。
靖国神社に祀られている「天皇のために死んだ人たちの霊」は「英霊」と呼ばれている。だが、この語はもともと生死を問わず「すぐれた人」のことだった。それが「すぐれた人の霊魂」とか「死んだ人、特に戦死者の霊」という限定された用法になったきっかけは、藤田東湖の「追和文天祥正気歌」である。原文と、小島訳を併記しよう。
この詩にみられる理気論(水戸学的な理解におけるもの)について、小島は以下のように解説している。
ここで水戸学というキーワードが出てきた。実は、明治維新を牽引した近代思想の多くがこの水戸学(とその影響を受けた国学)にルーツを持つ。明治維新は水戸学思想と西洋思想の合体による社会革命といっても過言ではないと思っている(たとえば維新の志士たちが愛読した会沢正志斎『新論』は国体思想の出典として有名だが、会沢は天皇崇拝という一神教的思想をキリスト教から着想している)。これについては調査・研究を続けているところである。
さて、このあたりで今回は結論を出しておこう。靖国神社の教義は、神道の伝統によるものではなく、朱子学の水戸学における受容(藤田東湖)を思想的背景として、神道的なスタイルで作り出された幕末の新興宗教である。であるから、その教義の端々に一般の神道と異なる部分が多いのも当然のことである。中曽根元首相の「昔のように、もっとおおらかな神道に帰ったらどうか」という発言はすでに引用したが、靖国神社は招魂社の時代から「もっとおおらかな神道」であったことさえなかったのだ。
靖国神社が「A級戦犯の分祀はできない」と主張するとき、それは一新興宗教団体の教義としては理解されるが、神道的には何の裏付けもない独自教義ということになる。なお、その教義に対して、国がどう関わっていくかということは政治的な話なのでここでは触れることはしない。ただ、靖国の教義が「宗教ではなく日本古来の伝統」などという言説は完全に誤っていることだけは明らかだ。少なくとも明治以前において、靖国神社のような形式の追悼は、日本の伝統としてはありえなかったのである。