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まぼろしの五色不動 ~大江戸《霊的都市計画》伝説の真相~

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江戸五色不動は江戸時代には存在せず、五色不動が揃ったのは明治末以降でした。その伝説がいつ、なぜ、どのように生み出され、定着したのかを検証しています。 2005年2月~2006年9…
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まぼろしの五色不動 解題/ごあいさつ

解題松永英明著「まぼろしの五色不動 ~大江戸《霊的都市計画》伝説の真相をさぐる~」は、「マチともの語り」というサイトで2005年2月~2007年9月に連載されていた作品である。 この作品では、緻密な歴史的検証により、「江戸五色不動」は江戸時代には存在せず、そのすべてが出そろったのは明治末以降であることを明らかにした。この研究成果により、それまで無批判に語られていた五色不動は近年の創作であることが事実として受け入れられるようになっていた。 しかし、その後、「マチともの語り」

まぼろしの五色不動【1】「大江戸五色不動」伝説の謎

(1)山手線に乗って 駅の東西に壁のようにそびえる百貨店ビルの谷間――東京の北西に位置する池袋駅から山手線に乗って南に向かう。  東京という巨大都市の一つの枠組みが「JR山手線」だ。東京、上野、池袋、新宿、渋谷、品川といった主要ターミナルタウンは軒並み山手線上にあるし、東京の鉄道路線図は山手線を中心に描かれている。また、地価なども含めて山手線の内側と外側では大きな違いが出てくる。江戸時代末には、江戸の内と外を分けるラインとして「朱引」というものがあったが、現代東京では、山手

まぼろしの五色不動【2】五色最古の目黒不動を歩く

(1)目黒駅から目黒不動へ 何はともあれ、五色不動を訪ねてみよう。私は仕事の合間を縫って、五色不動まで実際に歩いてみることにした。最初の目的地は、もちろん、五色不動の中でも最も由緒の古い目黒不動である。  ところで、インターネットでの情報公開はここ数年で急速にしっかりしたものになったわけだが、以前は図書館で「目黒区史」でも探しに行かなければ見つからなかった「目黒」という地名の由来も、今はちゃんと目黒区ウェブサイトの「目黒の地名 目黒」というページに書かれている。  ここには

まぼろしの五色不動【3】目白不動のにぎわい

(1)存在しなかった「改撰江戸志」の謎  目黒と並んで古くから知られていたのが目白不動である。  目白不動についての基本データを調べるのに、まずは『角川日本地名大辞典 13 東京都』から調べてみることにした。  ここに挙げられている出典はすべて調べてみた。『南向茶話』『江戸名所図会』『江戸名所記』は資料がある。ところが、『改撰江戸志』だけはどうしてもみつからない。この説が正しければ、江戸時代の「四色不動」説(黄色がない)が裏付けられることになるのだが……。  いくら調べて

まぼろしの五色不動【4】赤目の目赤不動

(1)修験道の祖・役小角  奈良盆地の西側は、南北に走る山脈によって大阪と区切られている。  大きな山でいえば、北から順に、宝山寺(聖天さん)のある生駒山、毘沙門天をまつる朝護孫子寺の信貴山はタイガースファンの聖地でもある。そして大和川を挟んで、南に大津皇子ゆかりの二上山、楠木正成も戦った金剛山、その南に葛城山がある。そこから先は吉野山地(紀伊山地)につながっていく。  この葛城山のふもとに、賀茂という一族がいた。その本流ではなく、分家筋で、本家に仕える立場の「賀茂役君(か

まぼろしの五色不動【5】江戸時代、五色不動はなかった

(1)『続江戸砂子』の三つの不動  さて、こうして目黒・目白・目赤という江戸時代に存在したことが明らかな三つの不動を見てきたわけだが、そのどこにも「天海」の文字は出てこない。ましてや「五色不動」としてセットで建立された形跡もまったく見られない。むしろ、将軍家光と鷹狩りというテーマが共通して出てくる。もっとも、これも目黒に合わせて目白・目赤の縁起が作られた可能性も捨てきれない。さらに、対立する宗派がそれぞれに絡んでいる。  要するに結論は「三つの不動は別々に発展した」というしか

まぼろしの五色不動【6】増殖する目黄不動

(1)三ノ輪・永久寺の鼠不動  私の知る限り、目黄不動は四つある。すでに述べたものも含めて、列挙してみよう。 ・浅草勝蔵院にあった明暦不動(江戸時代にメキ不動と呼ばれた可能性あり) ・台東区三ノ輪の永久寺 ・江戸川区平井の最勝寺(不動尊像はもと東栄寺にあった) ・渋谷区神宮前の龍厳寺  明暦不動は今はない。一般には永久寺と最勝寺が「二つの目黄不動」として知られている。最近になって、龍厳寺の名前が浮上してきた。  そこで、永久寺から一つずつ順番に見ていくとしよう。  再度

まぼろしの五色不動【7】目青不動の流転

(1)不動の旧跡を訪ね歩く さて、残るは目青不動である。目青不動とされたものは二つある。 ・明治14年、横浜野毛新田に安置されたと報じられた目青不動。成田山延命院の野毛山不動尊のことであろうと思われるが、建立時期は合致するものの、目青不動と呼ばれたという資料はほかに見つからない。 ・現在、世田谷区三軒茶屋にある教学院の目青不動。  横浜野毛山の不動尊についてはすでに記したとおり、明治初期の報道が一件あるだけで、その後、五色不動と関連づけられて呼ばれたことはない。現在の「天

まぼろしの五色不動【8完】五色不動伝説の誕生

(1)五色不動の実態  以上の内容をまとめると、以下のようになる。 ・目黒不動 古来、不動尊像で有名。家光の鷹狩りと関連する説話がある。 ・目白不動 家光が鷹狩りのときに目白と名付けたという説がある。 ・目赤不動 伊賀の赤目に由来する不動像を家光が目赤と改めさせたという。 ・目黄不動(浅草勝蔵院明暦不動)江戸時代中期にメキ不動と呼ばれた可能性があるが、現在には伝わらない。 ・目黄不動(三ノ輪永久寺鼠不動)目黄不動の名は明治13年に新設された可能性が高い ・目黄不動(本所最勝