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奄美から見る日本経済史

昨日、某集落にてお住まいの方にアテンドしてもらい、その際に奄美の集落あるあるな、おそらく昔は集落で一番海が見えるベスポジに建ててもらったんだろうなぁ、というお墓をいくつか拝見し、手を合わせてきた。
既に墓仕舞いされているものもありはしたけれど、
「嘉永二年」とギリギリ読めるお墓に、今でも綺麗にお花が供えられていた。

1849年の薩摩藩では「お由良騒動」の頃。
以降、奄美には「南島雑話」でお馴染みの名越左源太や、その他の藩士が流刑となり送られてくる。
流刑者ではあるが一定の教養ある階級の者が、非役人としての立場で群島内あちこちに分散して入ってきたことで、奄美においての教育的な影響も大きかったのではないかと思うけれど、この辺はまだまだ確認不足。

後年、龍郷謫居してた菊池源吾さん(仮名)のように食い扶持が確保されてた訳じゃない人は自分で手習指導やら何やらやって、食い扶持確保しなきゃならないし。

ちなみに丸田南里が生まれたのが嘉永四年ごろ。
嘉永四年の薩摩では奄美の島民に対して生活必需品を販売(砂糖と物々交換)する海商、浜崎太平次が経営する山木屋に、家計を助けるためにと、15歳くらいの若い店員、正蔵が勤め始めた頃。
おそらくこのお墓のある集落にも、当時は海商の船がやってきて、積み荷と交換で砂糖を積んで帰ったんだろうとも思った。

その次に古かったのは「文久三年」(1862)のもの。
文久三年は薩摩藩が、それまでの攘夷論主体から一転、開国へと舵取りを大きく変えた年。
薩摩藩は対英国の交渉役として奄美から重野安繹を呼び戻し、御庭方として据える。
島を離れる直前、重野は大和村にいた桂久武に現在の状況や今後についての予想を語ったとされるが、何が見えていたのか。
一歳を迎えた娘ヤスと妻に「必ず迎えにくる」と約束した重野は、
3ヶ月後の夏、錦江湾に乗り込んできた英国艦隊のユーラリアス号の甲板にて英国側の要求を聞いていた。

その頃、大阪では海商、浜崎太平次が病で亡くなった。
番頭となっていた27歳の正蔵はこれを機に独立。自身も海運業主となるも、残念ながらこの時は船が暴風雨で海没し、失敗。
しかしこれで諦めなかった正蔵は、維新後の1869年に再度、琉球糖を扱う会社に就職し、その後は日本郵船副頭取となり琉球航路開設、砂糖の内地輸送を成功させるようになっていく。
海難事故に何度も遭遇した正蔵は、近代的造船業に強い関心を抱くようになり
やがて同郷の先輩であった大蔵省の官僚、松方正義らによる援助を得て川崎築地造船所を開設。これが現在の川崎重工となる。

川崎正蔵は松方正義の次男、幸次郎を株式会社川崎造船所の初代社長に据えたが、同じく松方正義の五男は常盤商会という輸入糖を扱う会社を経営した。
そこに勤めていた奄美大島の名瀬出身社員・山下が「今後の科学と医療発展を踏まえて、どうしても国産顕微鏡を作りたい」というので、常盤商会は山下に出資。
やがて山下は高千穂製作所(現在のオリンパス)を興して顕微鏡と体温計を販売するようになったが、体温計事業は来週から新千円札の顔となる北里柴三郎博士らが設立した会社(現在のテルモ)に譲渡した。
山下は後に東京奄美会の母体となる在京大島郡青年会発足時に「大いによろしい」と鼓舞し、戦後、奄美奨学会が継続困難となった際にも都心の土地を売却して寄付を行なったこともある。

時代を戻して維新直後の大阪では、重野安繹も薩摩を離れて私塾を開いていた。
そこに馴染みのある土佐の男が「大阪に転勤になったから、弟も一緒に連れてきた。これからはどんどん外国と商いをしなきゃならぬ。うちの弟に色々教えてやってくれ」と、歳の離れた弟を重野に弟子入りさせた。
この兄弟は岩崎弥太郎・弥之助。
この後、兄・弥太郎は三菱財閥を築き、弟弥之助は二代目社長として事業を安定させ、日本の経済をリードしつつ、一方では重野と共に静嘉堂文庫を設立して、民間による文化財保存を手掛ける事になる。

幕末から明治にかけ、鹿児島から出発して日本の経済的繁栄を築いた人達の背景には大なり小なり奄美の影響がある。
それをどれだけの人が知っているのかと思いつつ、集落見学を終えた後、古仁屋〜名瀬に戻り、県知事選挙に伴い遊説中の、塩田知事の「県民の稼ぐ力」強化に対する思い入れを聞いた。

170年以上前の、あのお墓に眠る先人たちもまた、自分たちの住まう集落と子々孫々の、繁栄と幸福を願っていたに違いない。

縄文時代以来交易の道の島であった奄美では時代の節目節目で何かしらが生まれてつながっていく。
170年後の島は、令和の世に生きている我々から、どうつながっていくのだろう。

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