レモンみっつと、とうもろこし。
2年前の暑い夏の日だった。
ミドサー、独身、一人暮らし、パニック障害。
そこに重なるパンデミック、仕事、私生活、あらゆる要因で心がすっかり疲れていた。
一時は休職もし、毎日良くないことばかりぐるぐる考えていた。
それでも外出自粛も緩和され、出社するようになり、流石に傷みに傷んだ髪が気になった。
久しぶりの美容室で髪を綺麗にしてもらって少し気が晴れたものの、それをはるかに超える8月の空。
暑い。暑すぎる。とにかく暑かった。
自宅までの帰り道、徒歩10分弱。
普段はどうってことのない距離が、炎天下ではあまりにも遠く感じた。
・・・だめだ、倒れる。お茶をして帰ろう。
幸い近くにお気に入りのケーキ屋がある。
イートインもある店だった。
大好きなチョコレートケーキ、あるいはパフェを食べて帰るのもいい。
そうだそうしよう!
・・・休業日だった。
ちょっと泣きそうになった。
やはりまっすぐ帰るべきか。
足を家へ向ける。
照りつける太陽と、アスファルトからの熱気。
数歩で心が折れかけたところに、カフェの看板が見えた。
マンションの一階にある、小さな入口。
営業中の看板。
手書きのメニュー表にはコーヒーの文字。
外観もシンプルかつオシャレで悪くない。
ただ中の様子がうかがいにくく、暫し躊躇。
比較的、初めての店にも飛び込むタイプだが、正直戸惑う。
でも暑い。このままでは倒れる。
勇気を出してドアを開いた。
向かえてくれたのは、母と同い年くらいのマダムだった。
どうやら自身が大家をしているマンションの一階で、カフェを営んでいるようだった。
店内は感染対策が徹底されており、入店できるのは3組まで。
幸い席が空いていたので、コーヒーをいただくことに。
確かに美味しかったのだが、実は当時の記憶が朧気なのである。
そのくらいあの頃の私は心が疲れ切っていたのだと思う。
それでも覚えているのは、帰り際にレモンをみっついただいたこと。
香りも良く、お店で出しているレモン水に使っているものらしい。
驚いたものの、有り難くいただいて帰った。
はじめましての方の優しさに触れて、嬉しくてみっつのレモンを並べて写真に収めた。
自炊もままならない生活が続いていた私が、久しぶりに包丁を使い、スライスしてレモン水を作った。
今度はランチをいただきに行こうと決めた。
2度目の来店。
少し遅めのランチへ。
魚の紫蘇入りパン粉焼きだった。
めちゃくちゃ美味しかった。
今でも舌が覚えている。
あの時の衝撃ははっきりと思い出せる。
彩りも豊かなプレートランチで、私は久しぶりにお腹いっぱい、きれいに平らげた。
久しぶりに食べることに幸せを感じた。
自分がどれだけ義務感で「食事」をしていたか気付いた。
食後のコーヒーも、もちろん美味しかった。
今度は帰りに茹でたとうもろこしを一本いただいた。
その日の夕飯にした。
とうもろこしを丸かじりするなんて幼少期ぶりだ。
甘くてとても美味しかった。
胃袋を掴まれるとはこのことだろう。
気付けば月に2回ほど通うようになった。
ご飯が美味しい。食べることが幸せ。
それを感じられるだけで十分だったのに、彼女はいつも帰り際に夕飯に食べる物をくれた。
それにどれだけ救われたことか。
あの時、勇気を出して店に入っていなかったら今頃どうなっていたか。
恐ろしくて、あまり考えたくない。
いわゆる常連となり、会話もするようになった頃、私は彼女に手紙を書いた。
とても喜んでくれて、家宝にするとまで言ってくれた。
本当に本当に私はあの日の出会いに救われたのだ。
手紙くらいでは伝えきれない。
この恩を返しきれる日なんて、一生来ないだろう。
なんたって、彼女は今や私の大家さんだ。
そして二人目の母になった。
ここは私の第二の実家になり始めている。
今日も胃が弱った私に、特別メニューを作ってくれた。
美味しくて美味しくて、たくさん食べてしまった。
これを書き上げたら、夕飯に、ともらったお惣菜をおかずに白米を美味しくいただくつもりである。
胃が弱っていたなんて、きっと勘違いだったのだ。
彼女の優しさと彼女がつくった食事に元気をもらった私は、今週もなんとかやっていけるだろう。
そして今週も、もらった元気と優しさを、誰かに返していくだろう。
そうして生きたら、今週末も美味しい「食事」が待っている。
とても幸せなことだと思っている。
2年前の暑い夏の日だった。
カフェのドアを開いた瞬間に、人生が変わっていた。
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