英語学習について
数学(算数?)の話ばかりしてきましたので、ちょっと趣きを変えて英語学習の話をしたいと思います。
私の両親は貧しかったのですが「財産は残せないが、学だけはつけてやる。それを使って自分で財産を築け」といって、(あくまでも自発的に)何かを学びたいと言ったら借金を厭わずに学ばせてくれました。
なので、小4のときから英語教室に通っていました。
色々とプライベートなことに絡むので詳しいことは書きませんが、その当時の先端的な指導方法でフランチャイズ展開していた英語教室です。
とても楽しく、先生方も魅力的で、何よりも大好きな女の子が来ていたのでというやや不純な動機もあったのですが、中3まで通っていました。中3の途中で、ウチにはもう君に教えることはないよといわれ、放逐されたのです。今では中学生が英検2級をとるという話は別に大したことではないと思いますが、私が育った地域では、少し珍しかったようです。
その英語教室では、文法用語をあからさまに使うということはありませんでした。明示的な文法知識なしに、4技能を身につけさせてもらったのです。当時の教材はどこかにやってしまいましたが、今でも通用するよくできた教材だったと思います。大切に取っておけばよかったのにと少し残念です。
しかし、高1のときに遭遇した英語の先生がガチガチの文法至上主義者で、文法知識を強力に教え込んでくることが嫌で英語と距離を置き始めました。文法の問題(間違い訂正とか)は、ロジカルにというよりは何となくおかしいという形で正解できていましたが、自分の教授法を嫌っていることをあからさまに態度に顕す私に対して「何でここが間違っているのか説明して見ろ!」と詰めてきたりして、「え、間違ってるから間違ってると言っているだけです」と私に激怒したりする場面もあったりしたため、単位取得に必要な授業日数を計算して、それが満ちたら自主休講してその時間は遊んでいました。学校や塾の先生の中に少々大人げない方がいるというのはアルアルですし、高校生にもなって上手にお付き合いできなかった自分も大人げなかったなと今は反省しています。
英語という科目は、他の科目と大きく違っていると思います。それは、言語学を専攻しようと思っている人以外にとっては、あくまでも自分の人脈を広げたり、知性のフロンティアを開拓したりするためのツールに過ぎないということです。
英文法の歴史についてはちょっとググったり、ChatGPTに尋ねたりすればすぐにわかることですが、ギリシャ語やラテン語の文法研究がルーツのようですね。
それを幕末あたりから明治時代までに日本に輸入したのが日本での英文法の始まりでしょう。明治時代における欧米の知識の輸入は、不平等条約の根拠をなくすという意味合いもあり、とにかく「誤訳もいとわず」スピーディーにやれということで色々なものが一気に入ってきたようです。例えば「連鎖関係代名詞節」などという何が連鎖していてどういう関係なのか訳の分からない文法用語が産出されたこともそのような背景からではないかと思います。
文法には大きく分けて2つのものがあります。
1つは母国語話者のアタマの中に存在している文法です。私などはそうですが、多くの日本人は国語の文法のテストで満点はとれないと思います。しかし、ちゃんと日本語を使ってコミュニケートできますよね。ということは、完璧かどうかは脇において、不自由なく自分の意思を伝える日本語を作り出すためのルールがアタマの中にあるということです。家庭によって使う言語に差異があっても、幼稚園でできたお友達と話ができないということはありません。実はこれは非常に驚くべきことだと思います。
社会で交わされている会話やメール、SNS、そして文書の中で観察されることを言語現象と呼ぶことにしますが、言語現象を生み出すもとになる文法がこの1つ目の文法です。
もう1つの文法は、言語現象に対する注意深い観察に基づいて提唱された説明としての文法です。一定の年齢をこえ、かついきなり違う言語の環境に飛び込むハメになったというような特殊事情がないノン・ネイティブの英語学習は専らこの文法に基づいて行われます。通常、英文法というときの文法はこちらの文法だということです。
サイエンティフィックな考え方をするならば、ある文法理論があった場合、その理論によって言語現象がプロージブルに説明できる限りにおいて正しいということになるのではないでしょうか。逆にいえば、そのような説明は1つであるとは限らないのではないかということです。
言葉というのはある意味で「民主主義」的な側面を持ちます。ある言葉に新しい意味が加えられたり、従来の文法に反する表現が出てきたり、新しい単語が作り出されたりということが起こった時、多くの人がそれを使うようになったらそれはもう「禊」が済んだといういうことです。
アイスクリームを食べて「このアイス、ヤバいよ!」という表現を50年前の人がきいたらどう思うか、「全然大丈夫です!」という表現を日本語の正統派がどう受け止めるか、等という例を挙げれば私の言っていることをお分かりいただけると思います。
同じ日本語なのに、文法学習なしに「古文」を読解できないという事態は、言葉が何度何度も選挙にかけられてきた結果の現れでしょう。
話を元に戻します。
英語を用いて意思疎通ができるようになりたいという学習者からみたときに、「複合関係詞」などといった文法用語は必要なのでしょうか?教えている方にいったい何が複合しているのか?と訊いたことがありますが、答えは「そういう用語だから」というものでした。「不定詞」については、「不定詞になっている動詞の時制が定まっていないからだ」という説明をうけましたが、そんなことはなくI want to be a doctor. (I wanna be a doctor.の方が英語らしいというむきもあるでしょう)の不定詞は未来のことだということが分かりますし、He seems to have been rich.といったときには「(過去に)お金持ちだったように(今)見える」という風にいつのことなのか分かります。また不定詞の名詞的用法と動名詞の違いとして、不定詞はこれから未来志向で動名詞は過去志向というちょっと違和感のある説明をする方もおられるようです。なので時制が定まっていないというのはちょっと違うよなという気がします。
病床にあってお亡くなりになるまで執筆をされたという「予備校の英語」という伊藤和夫先生のご著書に、勝手に新しい文法用語を作り出すことへの戒めのような記述があったのを覚えています。時代的に直接指導を受けることはできませんでしたが、大手予備校の英語科のトップとして、受験英語の理論体系をつくり上げたビッグネームで、先生のご著書は今でも書店に並んでいます。黄金期には、その予備校の講師採用試験で、先生のご著書をちゃんと踏まえているかのチェックが入っていたという、真偽は分かりませんが、そのようなまことしやかな話を聴いたこともあります。
しかし、私ごときが申すのは本当に身の程知らずで恐縮ですが、意味不明な文法用語は変えてしまった方がよいと思います。今は映像授業が当たり前になっており、タレントのような扱いの先生がビッグセラーとなる著書をいくつもお書きになっていますが、かなり際どい「分かりやすい」説明を展開されています。正直にいって、この類の本はバッタもんです。
私が期待し注目しているのは、生成AIを支えている自然言語処理研究の知見をうまく活かした文法研究です。
(to be continued … かどうかは分かりません)