「幸運」とは「自分が愛するもの」の姿をして既にそこにあるのだ
「愛しましょう」と促されても、
「愛してください」と頼まれても、
ましてや
「愛せ」なんて命令出されても、
こればっかりはどうにもならない。
それに従って
「愛しました」というのでは、
多分、それは
既に変質してしまって
もはや「愛」ではないと思う。
「愛」こそ、
自然発生的なものだろう。
且つ、
他人の意思ではなく、
自発的なものでなければならない。
――そうでなければ
「愛」ではなくなってしまうから。
そう考えると、
「自分が愛するもの」というのは
ありがたいものである。
「愛せるもの」が
そこにいる、あるということ、
それだけで既に。
(誰にも「愛する」ということ自体は
「用意」できないわけであるから。)
「愛するもの」
――人・その他の生物……のみならず、
場所でも、ものでも、時間でも、
どれもが
ありがたいということに変わりはない。
できる限りそういうものを集めながら、
私は暮らしていくのだと思うし。
自由な時間は、
それらに埋もれ、
「完全防備」「完全包囲」されて
生活していくことを、
更に「意識的に」していこうと思う。
――「ありがたい!ありがたいねぇ~!」
って手を擦り合わせ拝みながらね。(笑)
「私は愛するものに囲まれている」
改めてこう思うと、
なんだかそれらのものが、
自分というものを
「守ってくれている」ということを、
再度実感し直せるということもある。
だから、
そんな私の「守護神」たちを招集できる
「自由」もまた、
私は大好きなのである。
(まあ、
「自由」これそのものもまた、
私が最大級に「愛している」
そんなものの一つなのであるが。笑)
例えば、仕事上のストレス。
(――常日頃より、
まるで日銭を稼ぐように、
大切な自分の
「自由」と「時間」を
自分の身から削るような思いで、
そんな「仕事」に差し出しては、
少しずつ、
どうしても最低限必要な、
日々の生活費に替えているわけであるが。笑)
まあ、「仕事」というものは、
「理不尽」なストレスが
必ずと言っていいほど、
立ち塞がり付いて回るもののようである。
――一個人の心中でそれを、
割り切っても割り切っても、
逃げても、避けても、かわしても、
そしてそれに真摯に向き合ったなら尚更。
とてもじゃないが
「たまらない」わけである。
「やってられない」わけである。
そのままでは
「心がどうにかなりそう」なわけである。
そんな時、いつだって、
私を守り救ってくれてきたのは
「自由」な時間の中にいる
「愛するものたち」の、
その「砦」である。
「この中にいられれば、私は大丈夫」
何度もそう思って私は
なんとか持ちこたえやってきた気がする。
人見知りが災いして
(まあ、それだけが原因ではないか?)
あまり「人の愛」には
恵まれているとはいえない私であるが、(笑)
本や音楽、
そして、
「文章を書くことと、それができる場所」
これもまた
私が「愛するものたち」であり、
私を、私の生きていく日々を、
常に守ってくれているものなのである。
繰り返しになるが。
「愛する」「好きになる」
これは誰かに命令されてできることではないのだ。
そしてその「誰か」の中には、
案外「自分自身」も含まれている。
いつの間にか、愛していたのだ。
自然と、好きになっていたのだ。
――それでしか、
「愛するもの」「好きなこと」には
私は巡り合えてこなかった。
「自発的なもの」でありながらも、
ああ、これもまた、
さりげなく「縁」であり、
そして「運命」なのだなあ。
そうなのである。
この、幸せな「運命」、
――この「幸運」は、
いつでも、
割とさりげなく、
でもしっかりと、
既に私を包んでいるものだったりするのだ。