「疲労できる」カラダ
先日も書いた、入院中の母の話から。
腰椎損傷で只今入院中なのだが、ようやく「完全寝たきり」状態からは脱し、リハビリ(主に歩行訓練)も活性化してきている模様。
(と、いうわけで、やはり予想通り、「85歳が寝たきり」で数週間いたので、著しい筋力の衰え等から歩く動作に支障をきたしており、それを「なるべく元に戻そう」=「一人で歩けるように」と治療の一環としてリハビリも病院内で行ってくださっている次第である。)
現在、(LINEはやっていないので)ショートメールで母とはやりとりしているのだが、リハビリの先生の介助と歩行器付きで数十メートル進むだけで「すごく疲れる」「もうヘトヘト」と書いてくる。
(「でも頑張る」とも書いているのでエライのであるが!)
そこで私は先日こう返信した。
――我ながら(入院治療中の患者に対して適切な返信かはさておき、笑)
「これ、自分に対しても、当てはまる言葉だなあ」
なんて思ったり。
「疲れる」ことで「能力」は(アタマもカラダも、そしてココロも)鍛えられ、維持もできるのだとしたなら、「疲労」自体を、あまりネガティブにとらえないようにしたいものだな、と。
(無論、「一晩熟睡しても回復しきらない」くらいになれば「疲労させ過ぎ」である。
――最近の私のテーマは
「過ぎたるは及ばざるが如しというかかえって無駄足になる」
なので、
「一生懸命」も「熟慮熟考」も「栄養補給」も、やり過ぎには何事もブレーキをかけたい、
と、こうなるわけでもあるのだが。)
(話を戻して。)
(――とはいえ、)
そうなのである。
「生物は、個体として所有している全ての能力については、いずれ完全に失って、生物であることを終える」
と考えるなら。
脳もそれ以外の身体部位も、精神・心も、そして「感情的なもの」すら、「動く状態」であること自体が(その中身がなんにせよ)まず既にありがたいものなのだよなあ、なんて思うのだ。
――「一見ネガティブなもの」すら場合によっては、「ポジティブはもちろん、ネガティブでさえもない」状態に比べれば、まだありがたいもの、なのかも???と。
実は私自身、ここ数年「そこそこピンチ」状態ともいえるわけなのだが(何やってもそんなにうまくいきません!笑)、
でもまあ、考えてみると、この小さいながらも生傷絶えないヒリヒリ試行錯誤状態のほうが、むしろ「生きる」という体感をより感じているのかも?なんていうようにも思えてきました。
身体だけでなく、頭の中の思考も、心の中の感情も、よいものはもちろんですが、何なら悪い事すら含めて(笑)、「より動く・動かせる・自ずと動いている状態になっている」ことこそが、「生物・人間」にとっての「生きる」により値している状態なのかもなあ、なんて。
――うん、まあね。
『このベルトコンベアーの上に乗っていれば、「安泰」で、「自動的」に、人生は過ぎていき、そして人生の終わりに向かってただただ「何事もなく」流れていく』
……って、そういうのはそういうので、まあ、「憧れる」部分は個人的には大いにあるのですが!(笑)
が、しかし「自ら齷齪動かずとも安泰で自動的」というこれは多分、「生物」より、「(ただの)物」のほうに近い状態ともいえるわけで。
で、それこそ、
「いずれただの物体へ、そこからまた物質へ」と還っていく「近道」にも、もしかしたらなっているのかも?という気もしてくるのです。
つまり、
その「近道」の流れに「抗う」ことって、即ち「疲れる」わけですが、それをしないとそのうち「疲れる」ことすらできない「物」へとなっていくんでしょうね?と。
――とはいえ、ま、誰しもがいずれは遅かれ早かれ、ただの人体という「物体」になり、そして姿かたちを失って「物質」へと還っていく、という、その道を辿ることに変わりはないし、「ただの物体ではない生命体」その道の長さを多少引き延ばしたところで大差はないだろ?という考え方も、まあまあアリかな?ともまた思いますが。(笑)
それでも、(あくまで)私個人としては。
せっかく人間という生命体に生まれたから――これは「私」にとってはもう、最初で最後の機会のような気もするから――「人間としての生命体の時間」は、十全に(とはなかなかいかないけどさ!)使い切りたい気持ちでいるんですよね。
もちろん今回のこれは「寿命・その年数をただただ延ばしたい」という話では全くなくて、「人間として与えらた生きる能力を、自分なりに育て切って、使い切って終えたい」という話であります。
「人間ならモノじゃくて人間として人間らしく、
(壊れない程度までなら)藻掻いてでも」
=「(壊れない程度までなら)疲れることも肯定していくか?」
という気持ちで、最近はおりますです、ハイ。
(だって、そう考えたほうが、実際、力もムダなくスムーズに湧いて出るからさ!)
(そして、どうせ齷齪せねばならないのなら、それを否定しながらではなく、肯定的に明るい気持ちでやったほうが、たぶん心身の筋力も効率良くつくしね!)
(とは言いつつも、そんな前向きなイメージが、どうも、どうしても、持てなくなった時にはその時で、今記事で私が挙げたような理屈は全て一度捨てて、ちょっとダラダラ・ゆっくり、できるだけ休めたら理想的だよね、とも思う。)
(筋力は「回復の過程」で強くなるので。――そうなると、いつまでも回復しない(自らさせられない)くらいの疲労なら、やはりそれは「トレーニングのやり過ぎ・負荷のかけ過ぎ」=「壊れる原因」となるわけなので。)
(と、またまた長くなっちゃいそうなので、この「かなり大雑把な見解」のまま、本日の「自論の展開」はここまでで留めておきたいと思いますが。笑)
というわけで、結論。
こういった「身内の心配事」すら、一つの「気づき」を与えてくれるのだから、「生きていることに、一つのムダもなし!」ともこれまた言えるのでは?