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お米とお醤油と日常生活

「別に生きていく上で必要不可欠なことでもないのに、気づけば必ずやっているルーティン」ってありますよね。

自分の場合、朝のお茶とここでの執筆とか。

「当たり前」になってしまっているから気づけなくなっているんだけど、多分、自分にとってこの時間は「最高に幸せを感じている時間」で。

……「最高に幸せ」と言っておきながら、それなのに「多分」なの??(笑)

でも、
「最高に幸せ」なことほど、感覚としては「多分」程度になることも多い、ということなのかもしれない、と。




例えば「走馬灯」があるとしたら、これ、必ず入れて欲しい場面だなあ。
――何のことはない。
ただただ、一人で一心不乱に、自分の暮らしている部屋で、PCの前に座って、いつものお茶を飲みながら、カタカタカタカタやっているだけの時間なんだけれども。
(でも、そんなもんなんだろうな、「一番欲しい幸せの風景」って。)
(――ふと今更、そして今頃、気づきました。笑)


毎週木曜に出勤する場所が、週のうちで唯一、かなり家から離れている場所になるんですが、最近健康を考えて「徒歩通勤」にしているため、その日は行きと帰りに片道で40分往復で1時間半近く歩いていたりするんです。
(歩くこと自体はかなり好きなことなので、時間のやりくり以外は全く苦ではないのだが。)
この木曜だけは、「他の曜日以上に業務量も多いしね」や「仕事場への往復でこれだけ歩いたしね」等々を言い訳にして(笑)、帰り道にコンビニエンスに寄って、軽食なりおやつなりを自分に与えることを許していたりもしておりまして。

――いつの間にか自分に許可し、いつの頃からか定着した、この「ルーティーン」。
夜更けなので真っ暗な川沿いの道を延々と歩き(特にこの季節は星が綺麗です、かなり寒いけどね、笑)、家に近づくころ夜道の中に現れる明るく光るコンビニに、ふらふら何も決めずに入って、ぶらぶら店内眺めて、シュークリームだのアイスクリームだのをこれまた何となくテキトーで選んで、で、また歩いて、家に帰ってそれを食べる。
……うん、まあ、パッと見、「凡庸で退屈以外の何物でもない楽しみ」にしか傍からは見えないかと思われますが。
(で、それをまたここで知らされてもですよね?「ん?これの何がおもしろいの??」ですよね?笑)
でも、
な~んか、ふと、
これら一連、全てひっくるめて、
「いずれはこんなことすらできなくなる日も来るやもしれぬのかあ。」
と、
つまり、幸せとは
「こんなこと」でいいんだよなあ
……なんて、つくづく感じた次第。




人間、身体の筋力が落ちて弱まると、
それにつられるように、もしかしたら
気力やら張り合いやら高揚するような気分やらも、弱まっていきがちなものなのかなあ??
なんて、
退院後にすっかり筋力が衰えた母と電話で話していて感じる。


――自分の持つありとあらゆる身体機能の「全て」が、「当たり前のものではない」と、だんだん感じられるようになってきた。
そして、
身体機能の、やはり「全て」が、いちいち繋がりがあって、またそれぞれが日々の生活とも無意識の部分で密接に結びついていることにも、気づけるようになってきた。

そんな、今日このごろの自分。


「普通の生活を、自分で、淡々と、営んでいくこと」

自分が「何を置いても一番やりたいこと」「最も幸せを感じること」って
結局のところ、
実はそんな、
「無意識的に日々やっていること」なんじゃないか?
と、ここにきて改めて感じている、という話なのである。

「飽きる」すら通り越して、「当たり前すぎるくらい当たり前になっている」あらゆる「ただただ、日々の営み」よ。

う~ん、だって、
これが「やりたくないこと」だったなら、こ~んなにもおんなじことを、こ~んなにも長い期間、毎日毎日、苦にもしない「無意識的なまま」では、繰り返せないもんね?

これって
「毎日口にしているのにまず飽きることがない、お米とお醤油が、実は一番美味しい食べものである」
ということに似ているかもなあ。