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生命を止める日。

ドンドンドン、と強めに扉がノックされて、宙を揺らいでいた意識が急速に手元へ戻される。
ぱっと横を見ると、向こう側に夫らしき影がある。
なに、どうしたの。声をかけると、夫はそっと申し訳程度に扉を開けた。表情が分からない。
「あんまりにも出てこないから。気になって」
その言葉の意味が捉えきれず、2拍ほど間が空いた。
はたと気づいてデジタル時計を見ると、いつもの入浴より倍ほどの時間が経過している。
そんなに長風呂はしない質だと、長い付き合いの夫は知っていた。これは心配されても仕方がない。
ごめん、大丈夫。もう出るから。小さくそう告げると、ほっとした様子で夫は扉を閉めた。
我にかえれば、もう十分に温まった体に気付かされる。
私は祖母のことを思い浮かべていた。
今の年老いた姿ではなく、自分の力で活き活きと過ごしていた頃の姿を。
その合間に、つい数時間前、病院で見た祖母の姿が何度も浮かんでは消えていく。
延命治療はしません。
そう告げた、自分の声と共に。

おばあちゃん、ってよぶのかわいそうだから、ママってよぶ。
幼稚園児だった私は、ある日唐突にそう家族に宣言した。
祖父のことは自然に「おじいちゃん」と呼んでいた。あの時の祖父はまだ50歳を過ぎたくらいの年齢。それでも、幼心におじいちゃんという響きがしっくりくる人だった。
だけど祖母に「おばあちゃん」という呼び名はそぐわない。ちいさくて、可愛らしい容貌を持つひとだったから。
おばあちゃん、と名付けてしまってはいけない。きっと祖父を複雑な気持ちにさせつつ、以来私は彼女のことを「ママ」と呼び続けた。

おじいちゃん子だった私は、幼い頃の祖母との思い出が多くない。
深夜の職についていた母の代わりに食事をつくってくれたこと。
友達と近所の川に服のまま入って泳いで、初めて本気で怒られたこと。
炊き立てのごはんが食べたい、おかずはなくてもいいから、とわがままを言ったら、慌てて炊飯してくれたこと。
遠足のお土産でもらったミカンをあげたらお客様に出されてしまい、家族で食べたかったのにと静かに泣きついたこと。

やがて母が私を連れて祖父母の家から離れ、祖父が他界し、家族の距離感に変化が生まれた。
母と祖母の間に確執が生まれ、程なく祖母は私たちのマンションから出て行ってしまう。
いつしか祖母は我が家から徒歩5分のワンルームマンションで仕事をしながら一人暮らしを始めていた。
適度な距離間のおかげか、母との仲も緩やかに回復し、私も時々祖母のマンションへ遊びに行けるようになった。大学生になっていた。

小さめな部屋に、大きめのベッドと鏡台。
仕事道具と冷蔵庫。
いつも綺麗に磨かれているお風呂とトイレ。傍らには洗濯機。
大きな白物家電をいつ、誰が、どのように運んだのかは知らない。母と不仲な祖母の兄弟達かもしれないし、伝手のある電器屋さんかもしれなかった。
ベッドと鏡台の間の椅子にちょこんと座って作業する祖母を、ベッドの淵に座って眺めていることが多かった。
祖母の部屋の下の階には小さな書店があり、もうアルバイトもしていたのに甘えて雑誌や文庫本などを買ってもらったりもした。
祖母はいつも髪を綺麗に結って、丁寧にお化粧をしていた。
ママと呼び始めてから10年以上経っていたけれど、やっぱり可愛らしくて綺麗だ。
何を話すでもなく小さな部屋で静かに過ごすその時間を、私はひっそり気に入っていた。

社会人になり、結婚して引っ越した後はどうしても時間と距離の問題が生じて、あの部屋へ行く機会も徐々に減っていった。

ある日。母から悲痛な声で話がかかってきた。
祖母が認知症を患ったと。

外出したら家までの道がわからなくなる。
典型的な症状に、ようやく病院へ連れて行ったのだと言う。
あの部屋の奥には、トイレットペーパーやティッシュが大量にしまわれていたらしい。買ったこともすぐに忘れてしまうのだろう。

祖母を自宅へ引き取り、仕事をしながら必死に面倒を見ていた母だったが、すぐに限界はきた。
家の中ですら方向感覚を失い、トイレすら1人では行けないのだから無理もない。
実の母親というのは難しい。自分を育ててくれた頃の元気な姿とかけ離れた現実を受け止めきれず、祖母に八つ当たりする回数が増えていく。
母ばかりを責められない。その頃の私は自分の子供を育てることで精いっぱいで、母も祖母も助けに行くことができなかった。
時々会いに行っても、私のことを思い出すまでにかかる時間がだんだん延びていく。
私の子供たちを見ると「可愛らしいわねぇ」と喜んでくれた。が、それが自分の曾孫とわかっていたのかは定かじゃない。
数時間のデイサービスから、宿泊対応有りの介護施設へ。それでも母の精神は耐えきれなくなり、ついに施設で24時間介護を受ける生活へと変わった。

60代で他界した祖父を追わず、認知症でも元気に生き続けた祖母。
母は会う度に「私の方が先に死んだらどうしよう」と溜息を漏らしていた。
祖母はもう母のことも、私のこともわからなくなってしまった。
症状が重くなるにつれて値上がりする費用。毎月施設代に苦心している母を、自分の給料から僅かばかり支援する日々。
膨らむ費用と先の不安が何年も続いていた、夏の終わり。
唐突に祖母は入院した。
血液の癌です、と告げられた。

もう89歳なのに、そんな病気に今更なるのか?
母も私もその疑問でいっぱいだったが、医師の回答は「何歳でもなり得ます」だった。
内臓こそ元気でも、血液が正常に働かなければ身体は弱っていく。
食事がとれなくなった祖母は、たくさんの点滴に繋がれて意識が虚ろな状態になった。ほぼ、寝たきりだ。声をかけても反応はない。

この年齢から抗がん剤治療などできない。
治療をしない患者を病院に留めることはできない。
矢継ぎ早に降り注ぐ現実に、母は半泣きで毎日電話してきた。どうしたらいいんだろう、と。
その声を聞くたびに、私の胸に重たい石が積み重なるような思いだった。
点滴ができる緩和施設へ移る、という選択肢もあった。
だがそれは、またこれから終点の見えない道を進むことを意味する。
今よりも高額の治療費を払いながら、いったい何年。5年なのか。10年なのか。そんな果てのない道を、これ以上母に歩かせるわけにはいかない。

医師から提示された選択肢はもうひとつ。
「自然な形に任せる」というものだった。
それは、はっきり言えば点滴を全て抜きます、ということ。
点滴がなければ、栄養が取れない祖母は生き続けることができない。
母にその選択をさせるのは、あまりに酷だ。実の親に「もう生きないで」なんて、どうして言えるだろう。たとえ意識がないとしても。これまでどんなに苦労してきたとしても。

何も言えない母の代わりに、私が口を開いた。
延命治療はしません。
この日までには決断してください。そう告げられていたタイムリミット当日のことだった。
自然な形に任せます。延命措置はやめます。
もう一度はっきりそう意思表示すると、慰めなのか本音なのかは読めないけれど、今日も優しい顔の担当医は「これまでの経験からですが、それが本人にとっても一番苦しくない形になると思います」と返してくれた。無理に命を繋ぎ止めるよりも、穏やかなはずです。
隣でそれを聞いた母は、また静かに泣いた。

私は、祖母の生命を止める選択をした。
それは私が生きてきて初めてする決断。
祖母が旅立ったのは、延命をやめた翌る日だった。

もう、息が止まっちゃったみたい。
出勤する寸前に母から電話が入って、私は慌ててアルバムを引っ張り出した。
泣き暮れている母は葬儀場の検索どころか、遺影になる写真すら探していないだろう。
母が迎えに来るまでの 15分間、私は何冊ものアルバムを風のような速さでめくり続けた。
認知症になってから写真など撮る機会がない。あるとしたら、かなり前の写真だろう。それでもいいから何か見つけないと。
5冊目のアルバムを開いて、ようやく目に留まったその写真に心が大きく揺れる。
20年ほど前。仕事のイベントで着飾っている母、私、そして祖母の3人。その場にいた誰かに頼んで撮ってもらった、たった1枚。
そこには凛とした着物に身を包み、あの頃と同じように美しくお化粧をした祖母の姿。
私の記憶の中に生きている、ママそのものだった。


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