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なんにんかで話すことの貴重さ


 心理面接というのは、原則的には一対一で行うものだと学んでいます。そして、実際そういう例が多いです。けれど、私の心理相談室では、ケースによっては、ご本人のほかに誰かが同席されている場合もあります。
はじめは、本人だけでは緊張するから……とか、本人の受診意欲がおおくないので、私についてきて、と家族が上手に誘ってこられた、とか、そういう形でした。

 そして、教科書の原則通りではないこのやり方が、そのクライアントの事情に沿って続くことがあります。時には、ご本人の都合が合わないからと家族の方とだけ面接するセッションもあります。原則通りではないのに、このやり方で、意外と、いつしかクライアントさんは回復してきています。これはいったいどういうことだろう。…私は最近読んだ本のことを思いました。

「オープンダイアローグが開く精神医療」斎藤環著・日本評論社。
ウエブサイトでは「オープンダイアローグ」とはこう説明されています。
――Open Dialogueとは「開かれた対話」を意味する。この「対話」は、診察室で医師と患者が行う「会話」とは異なり、患者とその家族や友人、精神科医だけでなく臨床心理士や看護師といった関係者が1カ所に集まり、チームで繰り返し「対話」を重ねていくというものだ。――
 フィンランドで産み出され、洗練されてきた方法です。一対一の面接ではなく、複数の人がチームになって患者さんと話をする、という方法なのです。治療が困難とされる統合失調症などの精神疾患が「ただひたすら対話をする」ことによって改善していく。そして、「単に手法というばかりでなく、実践のためのシステムや思想を指す言葉でもあります」と筑波大学の斎藤環教授は説明されます。

 多くの医療関係者・研究者に強く関心を集めているこの手法、私も興味を持ちました。
 それはもう、私の医療観、心理療法についての思索を大きく揺るがせ、刺激するものでした。そして、一方では、日本では実現するのがむつかしいだろう、という悲しい気持ちも刺激します。保険の医療点数の制度の問題や医療スタッフの配置の問題。…読書はとても有益で意義深いもので大変勉強になりました。しかし、私の実践の場にとっては少々縁遠いものだなあ、という感想は残念ながら避けられないものでした。
 
 ところが、私の援助現場の経験は、この本で読んだ内容を想起させるものでした。
 もちろん、私の経験した支援と回復の経験は、この手法そのものではありません。しかし、回復の機序は、この手法の思想に近いものがあるように考えます。本人を最も近い位置で支える家族の意見、観察は控えめながらこの面接の場で表明されます。
 本人と一対一であったら聴き、理解し、質問し、応え、それを聴き、さらに理解し、理解を得られて得心し……と進むはずの面接が、三人目の方の違った意見でまぜっかえされることがあります。わかったつもりになったのに、それはそれほど単純なことではなかった、じゃなんだろう?……こんな行ったり来たりが繰り返されることになったりします。それはまるで面接が進まないかのような印象も与えますが、本人にとっては問題が単純化されない、理解されない小さな違和感が残らず受容されるしごとになるのじゃないかと感じます。そして、本人にとっても、自分の問題を自分がどうとらえるか、について、多角的な意識が持てる。ああも考えられるしこうとも考えられる。もしかしたら四人目がいたらもっと違うのかな?……とやっているうちに絡まって固く結びあってしまってた糸の塊がいつのまにかゆるゆるとほどけていくことになる。そうした思索の「器」に、複数の声の場はなっているのかもしれません。

 また、本人と一対一であったらその場に現れるだろう沈黙が、家族のつぶやきによって埋められることがあります。それは「沈黙を味わい、そこから感じる」という心理面接の深さを小さくしてしまうという面もあります。けれどもうひとつ、深く鋭く焦点が絞られてつねに心に痛みをもたらすその話題の「集中」の度合いをゆるめ、拡散する役割が、その別の角度からのつぶやきにはあるのじゃないか。つまり、どうして三人だとかみあわなかったり、見事な一致や和音を奏でることにならなかったりするその不具合のあんばいが、不協和音の「ゆるさ」が、問題を語るときの環境になることは、「ゆるく話し合える」問題に、その問題を変容させているのかもしれない。問題自体の重さ、固さを、話し合う場のゆるさが軽減することになっているのかもしれない。
 三人だと誰かがふと雑音みたいな小さな笑いをもってきたり、タイミングの悪い咳ばらいをほおりこんできてしまったり、少々邪魔に感じる洟をすする音が聞こえてたりします。その日常的な雑音が、緊張と集中を阻害する雑多な気配が、非日常のレベルまで高まり深まってしまっている問題を、やわらげる。その中で話し合われる作戦の数々は、非日常的な集中の中では実行不可能に感じたり、困難さばかり先に思い浮かんだりするものでも、少々おおらかに楽観的な見通しの持てるものに感じられやすくなったりもするのではないか。

 また、やはり面接に同席していただける家族の方は、そのご本人にとっては一番近い存在です。いちばんの「環境」であったりします。その家族の方とともに問題を扱う、ということは、普段孤立気味に問題を負担している家族の方にとっては、その苦労を誰か他者から理解されている実感をほかのなによりももたらす時間になるのではないか、とも思うのです。家族が少し気が楽になれば、本人にとっての環境が少しよくなることにつながるとも言えます。
 そして家族は、その問題について、自分とだけなら話してくれない角度や気配で、本人が口にするのを聞くことができます。家族にとっては問題の受け止め方をあらたにする小さな材料にもなるでしょう。カウンセラーにとっても、家族に対して発せられる本人の表現は、一対一の面接では得られない情報です。問題を理解するのに有益な情報なわけです。おおむね心病む人は、「近い他者に理解される」ことで大いに救いを感じます。小さな幸福感すら感じるものです。健康な人にとっても、精神の安定、自己同一性の獲得、ということのためには、近い他者による容認が必須なのだ、というのは心理学の教科書に大きな文字で書かれていることがらです。
 
 以上、回復の機序はなんだったのだろうか、と思いめぐらせることのできる点はいくつもあります。ですが、支え、支えられるその関係をまるごと面接の場に迎え入れることが、ご本人にとって大きな利益をもたらすことは間違いなくありそうなのです。
 面接の場で、逆に、支えられている本人が、家族のいろんな面での支えをしていたり、その苦労を感じていることや、その支えに感謝を表明されるようなこともあります。決して本人は支えられているだけではなく、気づかれにくいけれど相互関係の中にある、というダイナミズムも観察できます。
 
 もちろん一対一の面接だからこそ得られる対話の深さ、というものもありますから、オープンな対話ばかり称揚すべきものでもありません。けれど、自然にしていればおおむね十分にご本人は自分の問題を集中してとらえ、深く考え込んでしまっている場合が多いのです。ときには問題のとらえ方自体をゆすぶるアプローチが有効だ、という考え方にはうなづけるものがあります。
 どんな剛速球の直球でも、単調に投げ続けると打たれます。ときにはあえてゆるい球を。おおざっぱな手のひらで握るチェンジアップをどまんなかに。…野球好きのカウンセラーはちょくちょくわかりにくいたとえ話で理解を確かなものにしてしまいます。ごめんなさい。
 
 多様な心理面接の可能性を考えています。そんな日々です。
                     (イラスト: 秋山ののの)

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