旅に出てました
時差投稿になりますが、少し前に旅に出ていました。
お気に入りの秘密の場所で、ここいらはスマホの電波も届きません。
割と近場ではあるので定期的に訪れていますが、今月はお誕生日ということもあり、お祝いに宿をとって何もしないことをしに行ってきました。
一作目の長編小説を描き切ったタイミングで、あぁちゃんと私にも愛っていう感情があるじゃないか、ってなんの前触れもなく思ったんです。
元々ジェットコースターみたいな人生だけど、小説を書き出してからも本当にいろんなことが現実世界で起きていました。
こいつまじでぶっ飛ばしてやろうか?みたいなことも多々あったけれど、それでもなぜだか感謝できることが日々の中で増えていった。
きっと、心が開くには感謝が必要なんだなとしみじみ思った期間だったな…
そしてこの作品では、ひとりぼっちで戦ってきた幼い頃の自分の背中を撫でてあげたかったんだと思う。
実話とか、体験談とかそういうものではなく、自分の中にある顔を出したい何かが作品となって出てくるんだと思う。
人によってズタボロに傷つけられても、その傷は人との関わりの中でしか癒せない。
心のどこかで私自身、そのことをわかっていたんだと思う。
そしてその次に出てきた感情が、これまで世の中に抱いてきた恨みや憎しみ。
ネガティブな感情は世の中では嫌われがちだけれど、私は恨んだり憎んだりすることで自分を支えていた時代があった。
生きている間に色々なことがあるのは仕方ない。
自分では選べない。そういう意味では人のせいなのかもしれない。
けれども、こんな自分に誰がしたと恨んで憎んで前進しようとしないのは自己責任だ。
人のせいにして、歩むことをやめた人間の末路は哀れだ。
それは鬼と言ってもいいかもしれない。
今回の作品では、その鬼を浄化したいんだと思う。
とんでもないものに手をつけてしまったな、という気しかしていないし、これがなかなか筆が進まなくて困る。
何を好き好んで、自分や人の醜さなど描いているんだろうと心底思う。
今書いている作品に出てくる僧侶は、もう何年も前からふとした瞬間に頭の中に映像として見えていた。
初めて彼の姿が頭の中に浮かんできたのは5年ほど前だろうか。
かかりつけの鍼灸院の待合室でぼんやりしていた時だった。
まだ小説を書くことにすら辿り着いていない時だ。
その頃から、もう私の潜在意識は燻っていたのかもしれない。
いつもは後ろ姿しか見せてくれなかったこの僧侶が、突如として語りかけるように自身の生活や人生を見せてくれるようになったのは一昨年。
前作も今作も、正直なところ、クライマックスなんかわかりもせずに書き出したんだけれども、物語を追いかけていく中できちんと終わりに行き着くから面白い。
何か大切なことに気づいていなし、拾えていない感覚があったけれど、今日ようやく書いている作品のクライマックスが見えた。
前回の教訓から、この作品を描き切るまでに現実で何が起こるのかもう恐怖でしかないけれど(笑)
それでも書いている方が帳尻があって調子が良いのだから仕方ない。
過去に戻って生き直すことなど出来ないし、後ろを振り返ればゲロを吐いた道しかない。
道は前にしか開いていないのだ。
まだまっさらなゲロのない道を歩いていくことが、過去にあったことの癒しであり上書きだ。
それをするためには、小さな小さな生きててよかったを積み重ねていくこと。
たまたま食べたクッキーが美味かった。
好きな人と話ができた。
そんなことでいい。
あぁ生きててよかったありがたい。
そう思う瞬間を、これからもたくさん探していきたいな、と思う。