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【仕事編・たい焼き屋 応答が十分なとき心地いい】 0ポイントと出会う旅

少し長いが前回に書いた内容を引用する。

タイミングか、
わたしは思った。
わたしは自分の「集団で馴染めない」ことを自分にも他人にも隠していて無自覚になっていた。
無自覚なまま、他人に受け入れられる方法を欲していた。
だから、「売る」ことができなかったのだ。
「売る」ことは、自分を肯定できていないと叶わない。
なぜなら、売ることで交換されるものを自分が持ち合わせていないと思い込んでいるから。
思い込みを外せるのは、自分でしかないから。

社長からもらったヒントと、Mさんを観察して、その通りだと納得していたわたしは
徐々に売れるようになってきた。
売上も上がっていった。
見て、おいしそうでしょ、食べたらわかる、アンコが均一に入っている、どこをかじってもアンコがちゃんと出てくる。硬さも皮の厚さも自覚できている。どこから見られても大丈夫。
口で説明しなくても大丈夫だった。
わたしは堂々とたい焼きを焼き、人通りが出てきたら焼き足していく。
どこにも無理がない。

あのとき、わたしは拾いあっていたと思う。
たい焼きの生地と焼き機とスーパーの場所と人の流れと時間とタイミングと、
様々な目の前の環境やモノの情報を受け取り続け、わたしを示し、拾われて、成り立っていたと思える。
結果として、たい焼きを買ってもらえて、一旦そこで運動は終わる。
その繰り返しをやれていた。

集団においてわたしは、拾いっぱなしで、結果的に空気を読む割合が多かったと思う。
そのことが「集団の輪っか」に寄っていく、指向していくわたしを生んでいた。
たい焼き屋の経験は、拾うことでモノが出来上がっていき、最終的に商品となって「人」に受け取られていった。
人と直接関わることが難しくっても、関わりようはある、ということを
社長の態度と、Mさんの態度と、じぶんでやってみた経験で、知ったのである。
ことこ・ざわり

相変わらず集団に自然と馴染めるような人間ではないが、
かといってこの頃は、「集団の輪っか」に自らを寄せていくことに「無自覚」でない。
ああ、いま、集団の輪っかに向かって寄せていこうとしたな、とか、自らの行為のベクトルをキャッチできているように思う。

自動思考で「集団の輪っか」に「寄せていく」運動は、
わたしに受け取られるようになってきた。

もう、「見えていない」わけじゃない。
見えるようになってきた。

これまではわたしは自分が「集団の輪っか」に寄せていっていると、
どこかでわかってはいたが受け入れていなかった。
見えなくしていたと同じことだった。

これは、自分が自分に正直でなかったということだろう。

上記のたい焼きを焼いていたとき感じた感覚は残っている。
自分が自分で立っていた。
周りの情報を流れてくるままに受け取っていた。
そのことに「やりすぎ」も「間に合わない」も「足りない」もなかった。
受け取れる分だけ受け取って、自分に変化が起きて、行為に連続していく。
周囲とモノと自分が混ざり合いながら変化していく。

このどこにも無理がなかった。
それは、心地いいものだった。
自分が自分を責めなければならない側面がない。

過不足ない。
多すぎもしないし、少なすぎもしない。
なぜなら変化しつつ交わっているからだ、情報同士が。
わたしは人間として操作する必要を感じない。

受け答えをしているだけだった。
環境とモノと人間との運動「有機的自律運動」のはたらきに、意図的な介入の必要がない。

このことはきっと幸福なことだった。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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