【仕事編・たい焼き屋 応答が十分なとき心地いい】 0ポイントと出会う旅
少し長いが前回に書いた内容を引用する。
相変わらず集団に自然と馴染めるような人間ではないが、
かといってこの頃は、「集団の輪っか」に自らを寄せていくことに「無自覚」でない。
ああ、いま、集団の輪っかに向かって寄せていこうとしたな、とか、自らの行為のベクトルをキャッチできているように思う。
自動思考で「集団の輪っか」に「寄せていく」運動は、
わたしに受け取られるようになってきた。
もう、「見えていない」わけじゃない。
見えるようになってきた。
これまではわたしは自分が「集団の輪っか」に寄せていっていると、
どこかでわかってはいたが受け入れていなかった。
見えなくしていたと同じことだった。
これは、自分が自分に正直でなかったということだろう。
上記のたい焼きを焼いていたとき感じた感覚は残っている。
自分が自分で立っていた。
周りの情報を流れてくるままに受け取っていた。
そのことに「やりすぎ」も「間に合わない」も「足りない」もなかった。
受け取れる分だけ受け取って、自分に変化が起きて、行為に連続していく。
周囲とモノと自分が混ざり合いながら変化していく。
このどこにも無理がなかった。
それは、心地いいものだった。
自分が自分を責めなければならない側面がない。
過不足ない。
多すぎもしないし、少なすぎもしない。
なぜなら変化しつつ交わっているからだ、情報同士が。
わたしは人間として操作する必要を感じない。
受け答えをしているだけだった。
環境とモノと人間との運動「有機的自律運動」のはたらきに、意図的な介入の必要がない。
このことはきっと幸福なことだった。
※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。
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