お母さんが1級身体障害者になって家庭崩壊した話
これを話すのは私の中でめちゃくちゃヘビーな話題で、これを書こうか相当悩んだ話だけど、今日は自分の殻をやぶって書いてみようと思う。
私の母は何を隠そう障害者1級だ。
半身不随という、脳からつま先までなぜか右側が機能していない。
けれど母親は元から障害者だった訳では無い。
母の歴史から話すと、母親は元々一人っ子で、おばあちゃんとおじいちゃんにめちゃくちゃ愛されてだいぶ過保護に育ち、大学まで出ているし、ごく普通の会社員だった。あとよくわからんバレーボール選手の大ファンだった。
そして父親と出会い、結婚。
長女(私の2つ上の姉)を産み、では、つぎは私の番。
そして私を産んだ何日か後に障害者になった。
わたしはそのことを知らなかった。
けど私が知ったのは小学校3年生くらいだったと思う。父親は大の酒飲みで、家にはよく友人が家に来ていた。
「kotoが産まれた時は大変だったもんな〜よく育てたよ。」みたいな会話だった。まぁ母親が障害者だから、ほぼ父親一人で育て上げたんだから、そりゃ大変だしな、そうだよなーなんて
当時その頃は冬で、ダイニングテーブルの前に小さなヒーターがあって、その前でわたしは、聞こえてるか、聞こえてないかくらいぼーっとアイスを食べながらテレビを見ていた。
そして次に聞いたセリフで私の人生は大きく変わった。
「産んですぐkotoは施設だったんだもんな〜」というセリフだった。
……え?私施設にいたん???
しらん、しらん、聞いてねーしどした?
もうなんか食べてたアイスの味なんかしなくなって、え?あれ?アイスってこんな無味だったっけ?みたいな思考がビックバン。
もうこれは耳をダンボにして聞くよね。そりゃそうだよね。もう次の日になってもいいからkwsk。
そして今まで脳内お花畑の坦々たる人生が、ボロボロと崩れ落ちていくのがハッキリとわかった。
……なんで?私のこと育てたくなかったの?
…なんで?私が好きじゃないの?
さすがに小学校2年生でも、それなりにもうわかる。
ああ…私のせいだ。
私のせいで右利きだったお母さんは文字すら書けなくなって、私のせいで自由に歩くことも出来ない、私のせいで喋れなくなって、一人でお風呂に入ることすらできない。私のせいで父親とお姉ちゃんからお母さんを奪ってしまったんだ。私が全部壊しちゃったんだ。
当時わたしはお母さんが恥ずかしかったし、嫌だった。
遠足や運動会で友達を見れば周りはみんなお母さんの手作り弁当を持っていて、応援にきてくれていて、わたしは父親が買ってきたマックかコンビニか自分で作った弁当。友達の家族に混ぜてもらうか、教室で先生と食べていた。
けどそれが嫌で恥ずかしくて、姉とわたしはよく自分で自分のお弁当を作っていたけど、友達のいう「今日のお弁当の中なにかな〜♪」という言葉にいちいち腹を立てながらも、(…わたしは自分で作ったから知ってるけどね。)と聞こえないフリをしていた。
そしてこんな思いをさせるお母さんが嫌だった。
なんで、私はお母さんの手作り料理が食べられないの?
なんで私のお母さんは授業参観を見てくれないの?
なんで私のお母さんは一緒に遊んでくれないの?
なんで私のお母さんは勉強を教えてくれないの?
なんで私のお母さんは歩くのが遅いの?
なんで私のお母さんは会話できないの?
なんで私のお母さんは褒めてくれないの?
私のこと好きじゃないの?
親を嫌いたい子供なんていない。
わたしはままの作ったご飯が食べたいだけなのに
…なんで????????
昔実家の隣にあるとんかつ屋さんで夜ご飯を食べていた時、父親に「なんでママのご飯食べれないの?お母さん替えてよ」って言ったことがある。今思うと相当ヤバい子供なんだけど、当時は子供の純粋という刃だったんだと思う。
その時の父親の顔は、びっくりして眉毛が八の字になったあと、物凄く申し訳なさそうな悲しそうな顔をしているのを今でも鮮明に覚えている。
けどそういうことじゃなかった。
お母さんのせいなんかじゃないじゃん。
…私が産まれてきたせいじゃん。
あの時の絶望は一生忘れないと思う。
自分が産まれてきたせいで大好きなお母さんを障害者にしてしまった。
取り返しようのつかない絶望。
当時は姉が全て家事や炊事をしていて、そういうのから父親と姉はよく喧嘩をしていた。この頃わたしは児童館に通っていて、帰ってくると罵声が鳴り響いていて私はよく冷蔵庫の横の端のスペースに座って怯えながらも、ただただ終わるのを待っているしかなかった。
父親は母親の世話、子供の世話、仕事からのストレスで大荒れしていて、毎日酒を飲み、酔った父親に殴られたり、夜中に起こされて掃除させられたり、説教されたり、竹刀で叩かれたり、水風呂に頭を押し付けられたこともあるし、とにかく毎日酒を飲んで当たり散らしていた。
その頃にはもう家族の形は崩壊しきっていて
父親はただただ恐怖の存在でしかなかった。
今でも夜中に掃除させられていた時を思い出させる、ホコリを吸うとランプが「強」になって音ががギュウンと上がる掃除機を見ると、音が鳴る度に殴られるんじゃないか、また父親が不機嫌になるんじゃないかと怖くて使えない程だ。
全てが地獄だったし、親から認められることも、褒められることも、味方になってくれることも支えになってくれることも、一度もない。
酔った父親は殴ってくるし、姉も戦意喪失の寝たフリだ。
けど、そんな風にしたのは母親を障害者にした自分のせい。
毎日がこの世の全てを呪いたい気分だった。
母親は半身不随になってもすごくいい母だった。
母らしいことは何一つしてもらったことはないが、父親に殴られるのを半身不随の身体で止めてくれたりもした。
だれかが家に来れば「ありがとう」と必ず言う人だったし、感動する15秒くらいのCMでも泣くような人だった。
母親が障害者になっていなければ、父親もこんな風にはならなかっただろうし、私も姉もあんなグレ方は絶対しなかっただろうと確信を持って言えるほど
お母さんは物凄くあたたかい人なんだなというのが伝わっていた。
だからこそ、自分が産まれてきたせいで障害者にしてしまったことに対して想像を絶するほどの悔しさや、産まれてきたことを後悔をした。
中学までは友達とツルんで逃げるように遊び回っていたけれど、高校に入ってからは夜の仕事が楽しくて、友達に会うくらいしか地元にも帰らなくなっていたし、地元にいても親とも姉にも会いに行かなった。
それからはもう結婚して、自分も親になって、やっとあの頃の家まじでカオスだったよね。って笑えるくらいにはなった。
いや、まじでカオスだった。地獄絵図。
今でも姉とあの頃の話をすると、ああまじカオス。そんなことあったっけ?てかよくあの家で今でも生きてたよねうちら!!!もう嫌すぎて記憶から消してたわガハハ!!!
なんて笑えている。
父親も、あの頃お前は家の中によくタオルやら椅子を作ってずっとその中にいたよな。家に居場所がないと思ってたんだろうな。ごめんな。ってそんな話をできるようになってきた。(それはまじで許さないけどな)
けど父親と普通にLINEや電話もするし、あんなに怖かったお父さんをジジイと呼んでいる。
自分のせいで母親を障害者にしてしまったことは父親も姉も「ことみのせいじゃないよ。お母さんがこうなることを知っていても絶対産んでいたよ」と言ってくれて、なんでもっと早くその言葉を言ってくれなかったんだよアホかと泣けるくらいにはなってきた。
まぁまず20歳になるまで一言も自分のせいでなんて言ったことなかったから知らんのは当たり前なんだけども。がはは
そして自分の子供が生まれて初めてきっと私がお母さんでも絶対に産んだことを後悔しないな。と思えた。
その為にわたしは幸せにならなくちゃいけないなとも思っている。
まだ久しぶりに会うと母親は私の名前を思い出せない時もあるから、その時はまた心にグサッとくる怖さで中々子供を連れて会いにいけてないけれど、コロナが落ち着いたらまた会いに行こうと決めている。
まぁきっと地獄な中でも笑ってる時はあったし、他にもたくさん家族エピソードはあるけれど、今日はもう眠たいのでまたちらほらと書こうとは思う。
久しぶりに心の奥底にしまってある自分を書けて少しの怖さはある夜中の3時だが、まだ外は暗いのに自分の気持ちは少しスッキリしたような、明るい気持ちで書けたことに今自分自身、一番びっくりしている。
まだまだ全然父親のことは許せないし、今でもクソジジイだと思っているが、家に帰ればまだまだわたしは子供のままだけれど、いつの間にか色んなことを乗り越えていたんだなあと改めて思えたな。
しゆ