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43歳の既婚女性です。 今年3月に、父親が癌を患っていて数か月で死ぬかもしれないという…

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43歳の既婚女性です。 今年3月に、父親が癌を患っていて数か月で死ぬかもしれないという事態に直面し、自分の生い立ちを振り返るようになりました。 ずっと目を背けてきた家族の秘密に、改めて向き合い始めたところです。 自分の感情を昇華するまでの課程を綴っていきます。

最近の記事

今まで死にたいと思ったことはなかった。

父に虐待されていた時でも、その後の苦しい同居生活の中でも、死にたいと思ったことはなかった。 それは私が怖がりだったからだ。 死ぬ時はどこかしら痛いだろうし、単純に怖かった。 でも、父が痴漢騒ぎを起こして思ったのだ。 生きていても何もいい事がないな、と。 ここ半年ほど無職なため、私は家事のほぼ100パーセントをこなしている。 私がするのが当たり前で、むしろ「家事だけして楽をしている暇な人」という扱いになってしまった。 もちろん仕事をしていないのだから家事をすることはあたり当

    • お金がない毒親の老後②

      預貯金が五百万円しかない父。 施設費用は年金で何とか賄えるとは言え、これから何が起こるかわからない。 父が死んでも数十万円程度しか手にできないかもしれない。 その状況でも私が父の面倒を見ようと思ったのは、父がかけている一千万円の生命保険の受取人に私がなったからだ。 当初は弟が受取人だった。それが、面会に同席してくれた叔母の一言で私に変わったのだ。 父は保険の外交員の言われるがままに6本も保険に入っていて、そのうちの2本が死亡保険だった。 私はこの保険金は慰謝料だと思っているが

      • 施設でやらかしてくれた父

        夫の実家に帰省中、近くの駅ビルでお土産を選んでいた時のことだ。施設からの着信に気付いた。 (死んだのかな) 少し期待しながらスマホを耳に当てると男性の声が聞こえた。簡単な挨拶を交わす。 「娘さんと情報共有したいことがありましてお電話しました。」 彼は遠慮がちに続ける。 「お父様が女性職員を触る、ということがありまして。」 「えっっ!?」 途端に嫌な汗が顔から吹き出してきた。 「お父様には注意したのですが、娘さんからも言っていただければと思いまして。」 男性の言葉は

        • 父より母の方を許せないのはどうしてか

          これは私が自分の中の疑問としてずっと抱き続けていたものだ。 私が虐待を受けていた数ヶ月は本当に怖かったし、辛かった。 だけど、その後の生活は更に苦しかった。 母にこれからも一緒に暮らしてほしいと言われてから2年くらいの記憶が、ほとんどないくらいだ。 私が高校生になった時には父に対して何も感じなくなっていたし、現に結婚して家を出るまで一緒に暮らすことができた。 だけど、今思うと高校生くらいから社会人までの私は異常だったと思う。 必要以上に母にべったりしていたし、休日はたいて

        今まで死にたいと思ったことはなかった。

          お金のない毒親の老後

          父の財産を整理して、あまりの少なさに驚いた。 現役時代はそこそこ稼いでいたし、再雇用で65歳まで働いていた。その退職時には2000万円あったと叔母から聞いていた。 それなのに、銀行口座の預金をかき集めても500万円ほどしかない。 なぜそんなに少なかったのかは、モノ屋敷となった実家を見れば明らかだった。 ディアゴスティーニやアシェット、趣味のカメラなどの高額品から、専門雑誌や付録付きのお菓子のような安価なものまで、何百万円もモノにお金を注ぎ込んでいたからだ。 このまま父

          お金のない毒親の老後

          「お母さんのこと、嫌いでもいいんだよ。」

          「私、自分のお母さんのこと嫌いだよ。」 当時の同僚からその言葉を聞いた時、目から鱗が落ちた。 父の病気がわかる半年ほど前の話だ。 私が「母と合わない」というようなことを話した時の、彼女の言葉がそれだった。 「んー、わかるな。星野さんの気持ち。」 と前置きしてから彼女はさらりと言ったのだった。 聞いた瞬間、お母さんのことをそんなふうに言ってもいいの?と驚いた。 それから「私もそうなのかも」と思ったのだ。 「お母さんのこと、嫌いでもいいんだよ。」 なんて事ない、というよう

          「お母さんのこと、嫌いでもいいんだよ。」

          今まで見ないふりをしてきたもの。

          夫は父の性的虐待のことを知っていて結婚してくれた。 その夫に言われた事がある。 「離婚して養育費もらえば良かったのに」 私はこの言葉を聞くまで、養育費なんて全く思いつかなかった。 母からこれからも父と一緒に暮らして欲しいと言われた時、私はうちにお金がないからだと思っていた。 そうでなければ、母は1人で育てていくことはできないなどと言わなかったはずだ。 今年の3月、父が入院してしばらく家に帰れないとわかり、実家の片付けを始めた。 父と母は17年前に離婚しており、父が1人で

          今まで見ないふりをしてきたもの。

          家族ごっこ

          私は父からの性的虐待を告白してもなお、父と暮らさなければならなかった。 幸いあれから再び被害にあうことはなかった。 母は弟の代わりに一緒に寝てくれるようになった。私の部屋のドアには鍵を付けてくれた。 何も知らない弟は、自分の部屋ができて喜んでいた。 それから中学3年生くらいになるまでのことはあまり覚えていないが、一つだけ覚えているエピソードがある。 私はもうお父さんのことは平気だよ、と後ろから父の両肩に後ろから捕まってアピールしたことがあった。母に心配をさせてはいけない

          家族ごっこ

          北海道に行きたかった。

          父には当時北海道に住んでる姉がいた。 夏休みや冬休みになると、毎年のように私と弟はそこに遊びに行っていた。 伯母は小学校の先生で、子供好きな人だった。 遊びに行くといつも歓迎してくれたし、同じことを何度聞いてもイライラすることなく教えてくれる、大らかな人だった。 「伯母さんの家に住まわせてもらう?」 父のことを告白した後、母からそう提案された。 この時父はホテル住まいをしていて、家には帰って来ていなかったと思う。 北海道に行きたいと強く思った。 とにかくもう父と一緒に暮らし

          北海道に行きたかった。

          夜になるとお父さんが部屋に来る。

          寝ている、正確には寝たふりをしている私の体を触りにくる。 嫌だけど、目をあけてはいけないと思っていた。 胸を触られるだけだからと我慢していた。 母に言ったら大変なことになるとわかっていたし、そうじゃなくても仲の悪い父と母が、自分のせいで離婚してしまうんじゃないかと怖かった。 虐待されていた期間はたぶん5か月くらいじゃなかったかと思う。 私が中学1年生の8月に決定的な出来事があり、このままだと犯されてしまうと怖くなり、母に虐待のことを告白したのだった。 私の話を聞いた母は今ま

          夜になるとお父さんが部屋に来る。

          叔母からの電話

          「一昨日お父さんが入院して、その日のうちに手術をしたよ。もしかしたら癌かもしれない。」 電話を切ってから、心臓がドキドキしているのを感じた。 そして私はずっとこの時を待っていたんだと気付いた。 父が死んでくれる日を。 早く死んでほしいと思ったことはない。でも、私に1円でも多く残して死んでくれと、ずっと思って生きてきた。 父親と聞いて思い浮かぶイメージは人それぞれだと思う。 私の場合は、「娘に性的虐待をする人」だ。 もう30年以上、私にとって父親は「性犯罪者」なのだ。

          叔母からの電話