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苦しい時が使命に導いてく

このタイトルはある友人にいただいた言葉です。
自分はこれまで大した大きなこともなく人生を送ってきた、と思っていました。
両親と年の離れた兄が二人、兄達は大学、私は短大まで行かせてもらって、幼い頃に叩かれたり、家族から酷いことをされた覚えもなく、食べるものにも着るものにも困らず、にもかかわらず、なぜか自分は大切にされていないような居心地の悪さをいつも感じていました。

それが、明確になるきっかけとなったのは最初の結婚と長男の出産・育児でした。

ちょうど長男が生まれて半年くらいした頃だったでしょうか。
ニコニコと人懐こく、人見知りもあまりなく、保育園でも人気者の長男だったが、初めての子どもで親元からも遠く、周りに気軽に頼れる人もなく、職場では就職してまだ5年も経たずに産休明け復帰となり、当時は育休が無給だったので育児時間で残業免除にしてもらっていましたが、肩身が狭い思いをしながら早めに帰らせてもらっても保育園へのお迎えはいつも最後でした。
夫は子どもを望んでなくて、妊娠が分かった時には中絶のために無理やり産婦人科に連れていかれたこともありましたが、生まれてしまえばやはり可愛かったようでよく子どもをかまってはいました(世話をしていたわけではない)。
妊娠中に浮気疑惑があった夫ですが、子供のためにと私もそれ以上は追求しなかったけれど、その間に相手と深い仲になったらしく、度々不倫相手から図々しく家に電話があったり、手紙を見つけたこともありました(当時は携帯がなかった)。
だんだんと夫に対する不信感が大きくなり、それとともに少し育てにくい部分もあった長男を可愛いと感じる時と苛立つ時のギャップが大きくなっていました。
長男が泣きやまないときや、なかなか寝てくれない時、離乳食が進まない時など、自分を必死で制することにエネルギーの大半を費やしていました。
そんな時に、母親による虐待のニュースを目にすると、自分も同じように長男に危害を与えてしまわないだろうかと不安になりました。
かわいい、と感じる時間よりも、なぜなかなか寝ないのか、なぜせっかく忙しい時間の中に手間暇をかけた離乳食をなかなか食べてくれないのか、そんなことにイライラする時間が増えていたからです。
長男は愛想がよくだれにでもニコニコと可愛がられたので、母親としての自分の存在とは何なんだろうか、と感じていました。
夫も自分の方を見ていない、息子も誰でもいい、それならば、私がいなくてもいや、いつもイライラしている自分がいない方が、夫も息子も幸せに毎日を過ごせるんじゃないだろうか、私がいなければならない理由はあるんだろうか?とだんだんと小さな自傷行為が増えてきました。

そしてある時、夫の不倫相手から夫あてに電話があり、その電話の間に私は大量飲酒とオーバードースで意識が薄れていき、気がついた時には知らない病院のICUのベッドの上でした。

最初に目が覚めた時に、そばにいてくれたのは夫…ではなく、息子のことで大変お世話になっていた当時の保育園の担任の先生でした。
まるで私を娘のように、息子を孫のように親身に気にかけてくださっていて、度々、親元から離れていた私の相談にものってくれていました。
その先生が、涙を流しながら目が覚めた私の顔を見てホッとされていたことだけ覚えています。
ただその時の私は、助かったことを素直に喜べず、周りの人に迷惑をかけてしまったことへの罪悪感だけがあり、なぜ死ねなかったのかと考えていました。

迎えに来てくれた両親、特に母は私に怒っていました。
最初から彼との付き合いも結婚にも反対していたので、ほら見たことか、と言わんばかりに怒っていたような気がします。
その頃の自分の感覚も、どこか自分に居ないような感じがあったので曖昧ではあるのですが、母の物言いはあまり遠慮がなかったような気がします。

そして、当然のように実家に戻ることを勧められましたが、その時に言われた言葉がさらに私を生きる気力を奪いました。
「もう、こんなこといややで。これからは大人しくお母さんらの言うこと聞くんなら、帰ってきてもいい。」

なんのために生きるんやろか。
失敗作みたいに、恥さらしかのように言われて、それでも今は両親を頼るしかなくて、これから先はただ生きるために生きるしかない。
子供がいるから、子供のためにお金を稼ぐためにだけ働いて、子供に自分が要らないくらいになったらもう生きることから解放されていいかな。
そんなふうに思っていたような気がします。

その当時は、かなり自分でも自暴自棄な感じで生きていたような気がします。
そんな中でも、日にちは生きながら死んでいたような自分を少しづつ取り戻し、自分のために動いてみようかな、と思い始められるようにもなってきました。

続きます。

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