なかったことにしてあげる、という許し(小林賢太郎氏に思うこと)
スピリチュアルカウンセリングを行う者として、ここのところ「全てなかったことにして、水に流してあげる」「勘弁してあげる」「見逃してあげる」、ということについて思いを巡らせていました。
なかったことにしてあげる、って、すごい境地で、深い愛だなぁ、と思うのですよね。
大岡越前の名裁き、ではないですが、時代劇とかでよく出てきそうではないですか。私たち、本来は心の深いところで、そういうお話が好きなんじゃないかと思うのですよ。
遠い昔、誰かを憎んで「見逃してやってたまるか」「水に流してたまるか」と思いはじめた時、好きじゃなくなっていったのでしょうね。
などと思っていたところに
東京オリンピックの開会式の楽曲担当だった小山田圭吾氏が、過去の雑誌記事でのいじめ発言を元に辞任。
さらには、開閉会式のショーディレクターを務める小林賢太郎氏が、過去にユダヤ人の大量虐殺を揶揄するセリフをコントで使用していたことが判明し、解任。
それぞれの方の問題になった事柄については、ここで申し上げることは差し控えますが、、
「全てを水に流してあげる、という心を受けとらせてください」
と祈っていた中で起きた出来事だったので、あまりにタイムリーで、私たちの集合意識はこれほどまでに過去をなかったことにしたくないのか・・・と正直がっくりしましたし、当然、自分の中にもまだまだそういう心があるのだなぁ、と思って、内面を見続けていました。
当たり前じゃないか、あんな過去をなかったことにしていいわけないだろう、という方がおられることもわかっていますが、まあこういう奴もいるんだなあ、と思ってお読みください。
私はコーネリアスもフリッパーズ・ギターも微妙に世代ではない(ちょっと年上の、おしゃれなお兄さんお姉さんが聴いていたイメージ)ので、小山田氏のことはあまり知らないのですが、
小林賢太郎さんのことを敬愛しており、何なら世界の男の人の中で一番格好いいと思っている人間なので(好みは人それぞれ、、)
彼の出した謝罪文には、心が痛みました。思うように笑いをとることができず、人の気をひこうとしていた時期だった。良くないと考えをあらため、人を傷つけない笑いを心がけるようになった。愚かな言葉選びが間違いだったと反省している。ということが、真摯な言葉で綴られていたから。
それで、やっぱりどうしても少し気持ちが落ち込んでしまっていたのですけれども、、
先日の開会式で、「ピクトグラム50個連続パフォーマンス」が話題となって、称賛されているのをたまたま目にしました。
ネットでちらっと目にしただけだったのですが、一目見て、「ふふっ」と思わず笑ってしまいました。
見る人が見ればすぐにわかりますよね。
これは、紛れもなく小林賢太郎さんの作品だ!
各国入場のふきだし風のプラカードも、国の入場順があいうえお順だったのも、勘違いだったら申し訳ないし何の証拠もないのだけれども、小林さんの色を感じて仕方なかったです。
極めつけに、開会式の途中で「ボレロ」が流れたそうで、観ていた人はなんでここでこの曲?と思った人もいたそうなのですが、彼の昔のコントの中で「ボレロ」を歌うシーンがあるのですよ。そして、そのコントの題名が、「バッハ」。
やっぱりあなたは最高だ!
まあ、偶然と言われればそれまでなのですが、そういうウィットを効かせる人なんです。わかった人はみんなにやにやしていたようですよ。
たとえエンドロールから名前がなくなっても、過去にどんなことがあったとしても、今のあなたとその仲間たちの作品で、世界が明るくなってる。
誰も傷つけない、みんなを笑顔にする表現を本当に模索し続けて、この大舞台で実現させたんだなぁ。そう思ったら、じーんとして、なんだか最近オリンピックについて考えるといつも薄暗い気持ちになってしまっていたのですが、その世界が初めて明るい光でサーッと照らされたような気がしたのでした。
ますます世界は混沌としてきてはいますが、たとえどんな局面にあろうとも、自分の心がすべてをつくっているから、自分の中心に火を灯していれば大丈夫なんだな、とあらためて思いました。そして、あらゆる創作や表現って、本来それを助けてくれるものなんだよなぁ、と思いました。
そういえば、数年前に小林賢太郎さんが夢に出てきた話をブログに書いていました。
この時も小林さん(夢の中で)いい事言ってたなぁ。笑
→「イリュージョンのつくり方」
最後に、私見をひとつだけ。
いくつもの名作コントを生み出してきた彼らの、いわゆる代表作とは呼べないであろうわりとマイナーな部類の、20年以上前のコントの、ごく一部のシーンが切り取られて、今この時期に拡散されたこと。
そもそもあのコントはNHKの『できるかな』という日本人にとっては馴染みの深い番組のオマージュで、のっぽさんとゴン太くんが「到底言わないであろうこと」を言う(だからこそ面白い)、という肝心の前提があるのだけれど、
当然海外の人にはそんな細かい背景まで伝わることはなく、しかも絶妙にニュアンスの異なる翻訳で広まったこと、
という辺りに、何らかの人々の思惑が絡んでいないことはないだろうな、と残念ながら感じます。
けれど、それを批判して、誰かを悪人に仕立て上げるのもまた違っていて、けっこう、いろんな人のいろんな(潜在意識、無意識レベルの)望みが交錯している問題なのです。
ただ少なくとも言えることは、本来、私たち日本人は「水に流す」という美しい言葉をもっている民族です。もう一度そのことを思い出して、大事にし直す時期に入っているのではないかな、と私は思っています。
もしも小林氏が今傷ついていたとしたら、その痛みが癒されるように、私たちの心の咎が楽になるように、私自身が「水に流してあげる」という許しの心を受けとって大切な人にお渡しできるように、さらに望みます。