助けてくれる仲間がいるという安心感の中で育つということ
16歳。親の言うことは『全部NO!』といいたい
盛りの息子と話していて、ちょっと嬉しいことがあった。
髪はボサボサ伸ばしっぱなし。
スポーツもしていないのに、謎の日焼けをして
調子はいいけれど、
何かに熱中する様子もない息子。
だけど、先日ある会話から
『自分がいる場所にはちゃんと自分を助けてくれる仲間がいる』
っていう安心感と信頼の中で学校生活を送っているんだと
分かって、親としてはすごくほっとした。
そして、
同時に『自分はその安心感というのを持たずにこれまで来たんだな』
と改めて気が付いた、そのいきさつを残しておきたい。
学校の通学バス事情にびっくり!?
NZのオークランドは、学校ごとに市の経営するバスが
朝と夕方スクールバスとして運行されていて
そのバスに乗り合わせていくのが一般的だ。
バスの運転手はいるが、学校の職員や監督役の大人はいない。
話のきっかけは、あるところでルーマニア出身のお母さんが
12歳の息子が毎朝乗っているスクールバスの実情について
ぼやいたことだった。
『バスの後ろには、
ちょっと行儀が悪くてヤンチャな子たちが集団で座っているじゃない。
同じような雰囲気の子たちが、
まとまって座っていてなんだかあんまりいい感じがしないよね。
うちの息子が言うには、この前は11歳の子が、バスの中でキスをしていて
”I was so much embarrased.”
(僕は見ていて本当になんだか恥ずかしいような
いたたまれないような気分だったよ。)』
この話を聞いていた、私は
『欧米人がいくらキスやハグにオープンでも、おいおいだよな。朝のバスでキスかよ!そりゃ、やめてくれよ!っておもうよな』と内心つぶやいた。
『そういえば、以前いた息子の学校でもそのぐらいの年に
男の子が女の子にキスをしたって話が出ていたな。
さすがにあれから5年。16歳の息子たちの年齢は、さすがにバスの中はないだろう~。』
なんて都合のいい解釈をして自宅に戻った。
16歳男子ともなると、
自分から学校のことをほとんど言うこともないし、
あれこれ詮索しても、『都合の悪いことは言わないよな』という確信が母としてもあるので、日ごろはあまり学校のことを息子が話すとは期待していない。
ただ、『バスの中で朝からキスかよ~』とおばさんの頭がぼやいていたので
つい、息子に聞いてみた。
母:
『ねえ。今日こんな話を聞いたんだけど、あんたの学校はどんな感じよ?
16歳ともなると、まさか朝からバスでキスって子も、
もういないよね~。』と、親の期待を込めて聞いてみた。
息子:
『う~ん。うちの学校もおらんことはないよ。
いつもってわけじゃないけど。』
(あっさり肯定。( ;∀;)
母:
『へえ~。そうなの。
・・・・・"(-""-)" (←ちょっとした母の焦り💦)
そういう子をバスの中で見かけると、あんたはどんな気持ちになるの?』(旧世代の母親)。
息子:
『え?どうって?
まあ、いいんじゃん?あんまり関係ないし。』(学生現役世代)
母:
『でもさ、ちょっと古いかもだけど、なんかそんな話聞くと、
その女の子大丈夫なんかな?って思っゃうよ。
男の子だって、体触って
とかキスしてみたいって気持ちあるじゃん。
その子が好きじゃなくても、
バスの中でキスOKなら、なんか好奇心だけで近づいてくる男の子とか
居たら、レイプとかされないのかな??
レイプまで行かなくても、いやなことをされても、
誰にも言えなくて、助けてもらえないとか
困った状況にならないのかね。』と、私。(旧世代の母親)
おかしいことを誰かがしたときは、
仲間が助けてくれるという信頼感
息子:
『それは大丈夫だと思うよ。』と息子。(学生現役世代)
母:
『どうして?どうして大丈夫っておもうの?』
息子:
『えーっと。どうして?
うーん。きっと、チャラい感じの女の子(息子の語彙力だとこうなるらしいが、要は真面目っ子ではないが、勉強できる系とかではなく、クラスで面白おかしくのびのびやっている系の子たち)が、その子が変なことされたら、ちゃんと話をつけに行くとおもう。』
母:『へえ~!そんなことあるの???案外、健全なんだね。
そう思えるってことは、なんかそんなことが実際にあったの?』
息子:『うん。まあ。
その時は、男子同士で、お母さんの悪口を言われたとかで、一方が怒って
友達に頼んで 話をつけに行ったみたいなことがあったんよ。
こっちの場合は、結局手が出る、つまりぶん殴っちゃう!っていうオチが多いんだけど、そんな時も、結構周りにいるみんながすぐに止めに入るんだよ。』
母:『へえ~。16歳の男の子たちが、お母さんの悪口を言われたって言って、それで喧嘩までするんだ。
そのお母さんってどちらかが移民だったり、言葉がしゃべれないとか、アジア系だとかそういうのある?』
息子:『どっちとも白人だったね。
そいつの場合は、結局、泣きはらした顔で教室に戻ってきたから、すぐに校長室に行って話を聞いてもらえ!って授業の先生に言われて、すぐに校長室送りになって、関係していた人は全員呼ばれたけど、今は、お互いすっごく仲いいよ。』
母:『へえ~。じゃあ、もしあんた(息子)が誰かにいじめられたら、
誰かそうやって話付けに行ってくれるわけ?』
息子:『うん。多分、クラスのチャラい子(息子の語彙力だとこうなるらしいが、要は真面目っ子ではないが、勉強できる系とかではなく、クラスで面白おかしくのびのびやっている系の子たち)たちが、行ってくれると思う。
おもしろいんだけど、男の子のことは男の子が、そして女の子のことは大体女の子が解決するんだよね。
で、たくさんの人がいっぱいついて言っても、一杯だと相手も圧倒されるから、話をするときは、お互い一対一みたいな感じなんだよね。』
母:『へえ~。それは、さらにおもしろいね。
大昔で時代も、国も違うけど、お母さんが中学生の時は、
クラスでいじめられている子がいても、味方してかばうと
その子も一緒にいじめられるって感じだったんだよね。
だから、結構みんな ”ひどいな~”って思っても
表立ってやめろよ!って言えないって感じでさ。
だから、とっても暗くて陰湿で、本当に嫌だったんだよね。
ところで、もしも、誰かがそんなことをやめろ!って言ったとするね。
でも、それでもやめない酷い子はどうなるの??』
息子:『え~?みんなが見て明らかに悪いのに、それでも続けたら
みんなから、人間の屑みたいな扱いを受けて
そっちのほうがひどいことになるよ。』
母:『でもさ。映画とかでさ、学校で酷いいじめがあるのってよく出てくるじゃん。そんなことはないの?』
息子:『それは、映画だからだよ。
まあ、うちの学校がなんだかんだって言っても
平和ってことかもしれないけどね。』
安心感をもって暮らせるということ
息子との上のような会話をしてから、私はとかく大いに安心したのだ。
我が家は、ひょんなことから息子が日本の小学校を3か月通ったところで
家族の転勤で海外に出た。
そこで初めて、言葉が通じない中で異国暮らしを始めた。
最初の教室に送り出すときに、
『おしっこに行きたくなったら、Can I go to toilet?』というんだとの一言を教えて、それ以外の一切の準備なく始まった新しい学校生活。
幸いなことに
日本の学校にはないスナックシステム
(おやつを持参して休憩時間に食べてよい)
に助けられて、一度も泣くことなく、嫌がることなくなじんできた。
その分、夫が日本に帰ったときに
子供を日本の教育に戻すことが親としても苦しく
今日まで、親子で海外をさすらってサバイバル生活をしている。
息子2度目の転校は、12歳の時だった。
怖いもの知らずだった息子は、転校初日からバリ島の
当時通ったクラスでしゃべりまくり
『あいつは何人だ?本当に日本人か?』と言われた。
今回NZに来たのは、息子にとって3度めの転校で
2020年1月の末。
ちょうど世界がロックダウンに突入する直前に
NZのオークランドの西にある郊外の高校に転入した。
12歳の時は、
勢いで突破した息子も最初は、当時たくさんいた日本の留学生とも
そりが合わずに、かといって中学から持ち上がりでグループができている現地の子たちの中にも域内は入れず、しんどい時期を過ごしていたようだ。
地声がデカくて、Noisy 〇〇と名前の前に枕詞が付く息子だったが
昼休みに話す相手が居なくてぽつんと過ごす数か月を過ごした後
ロックダウンを経験した。
本当にしんどい時は、何も言わない息子で
『親に行ってもしょうがないし、心配するだけだから言わなかったけど、今回は結構きつかった』と後になって漏らした。
ようやく、現地の友達が遊びに来るようになって、NZに来てから一年がたつ頃だったな~。
大人たちの社会では
社会の出来事を巡って、価値が二分されて
ギスギスした社会になってきた。
全ての学校ではないだろう。
いや、同じ学校に通っていても『自分は一人だ』と思って過ごしている子供も多いだろう。
でも、誰かが嫌な思い。
不当だと思った憤り。
NOという思いを持った時に
SOSを出せる仲間が居て、そしてその仲間が集団として
バランスをもって働いているんだと思えるところに
息子がいて、安心して日々の学校生活を過ごしていることが
分かったのは、本当にうれしかった。
どうしても日本の古い価値観の手垢が落とせない親世代としては
『こんなに勉強しなくて大丈夫かい?』
『英語で生きていくのに、こんな単語も知らなくて大丈夫かい?』
『こんなにお気楽で大丈夫かい?』
と、心配を探していしまうのが常だ。
『何かあった手も大丈夫。仲間が守ってくれる。
家族が守ってくれる』という安心感。
息子と話していて、私にこれまで絶対かけていたものは、
この安心感。
自分が所属しているコミュニティーへの信頼感。
ココなんだな。
だから、必要以上にいつも心配を探して、備えていたんだな。
そしてそのために、リラックスしてその瞬間を楽しめずにいたんだなと
改めてきがつかされた。
一人の人間を育てるということで
自分をもう一度育てなおす。
もう不要な心配や恐れを手ばって、こういうことなんだ。