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『 死について ! 』 スタッズ・ターケル ~ 死について語るとき、僕たちの語ること

ここに語られるのは、「死」によって縁どられるがゆえに、目を細めたくなるくらいにまぶしく輝く「生」。

本を読みながら知らないうちに泣いていた、なんて体験は、カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」以来だ。
(……いうほど前じゃない。)

相変わらず続く、地中海灼熱の旅。
海を目の前にしたら盲目的に飛び込まずにはいられない異人種の親戚から解放されて、冷房の効いた涼しいカフェでスタッズ・ターケルの「死!」の続きを開く、この幸福。
だが、冷房の効いた涼しいカフェでこの本を読んでいることがいたたまれなくなるのに、数分はかからなかった。

先々週、日本から戻ってきて以来、落ちついて読む暇がなかったこの本。

そういえば、飛行機の乗り継ぎロビーで、嬉々としてページを開いた時、表紙に書かれた文字に目をやって、明らかに何人かが顔をしかめていったっけ。
そうだ、経由地は香港だった。みんな漢字が読めるのだ。
私だってこんな題名の本を嬉しそうに開いている人間と、これからの飛行を共にするのはちょっと遠慮したい。
次回からはも少し、公共の空気を考えようと反省した、そんな表紙の本。

ここに綴られるのは、哀しくもユーモアにみち、悲惨なのに美しく、残酷でそして優しい、市井の人々の克明な生と死の数々。
今読んでいるのは、医者の章、警官の章、そして戦争の章なので、そう、彼らの日常生活は、まるで砂糖菓子のようにいろんなかたちの死に満ちあふれている。それを、遠いものと自動的に分類したがる自分の愚鈍な感性に間断なく晒される。

なのに、おもしろい。
ページをくる手が止まらない。
不思議な魔法でちょっと人と人の距離が近くなった夏祭りの夜、飲み屋でとなりになったどっかのおじさんかおばさんが、身近な人々との思い出やその死を、ビールを注ぎながらちょっと話してくれる、そんな感じ。
語っているのはほぼアメリカ人なのに、なぜかみんな洗いざらしの浴衣に片手うちわで、つんつるてんの甚平を羽織ったまるで子供な私は「で、それで?」「その人はどうなったの?」と物語の続きを急かす。
人種も時代も文化も超えて、読む者と語る者の間にこのありえない距離感を創り出すのが、聞き手の名手、スタッズ・ターケル。

口承の歴史というジャンルを文学にまで高めた筆者その人の声は、不思議なくらいどこにも記録されていない。
記録されていないのに、彼は絶えずそこにいる。
そしてじっと耳を澄ましている。
それはどこか、あるのに見えない死にも似て。

そう、人々は彼が聴いているからこそ、語るのだ。
死があるからこそ生きるように。
死とはもしかしたら、むかいあって語りかければ、あるいはとても温かいものなのだろうか。
そんな気さえする。

ほんとうにこの本に出逢えてよかった、と心から思う。
そう思いながら「死!」と題された本を抱きしめる構図は、ただ、見る人をものすごく選ぶ。

追記:
もう今日にでも死んでしまいと思いつめていたり、
これから駅か商業施設で爆発物のピンを抜こうと考えている人がいたら、
おずおずとこの本を勧めたい。
きっと少しの間、思い留まりたくなるような気がする。
そこにいる人々が、語りかけている間は。
せめてこの話をすべて聞いてしまうまでは、と。


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