口腔ケアの永遠
「上と下の入れ歯を外して、うがいしていきましょうか〜」
昼食を終えた方から順番に歯磨きへ。
洗面台の方へ案内する。
ひとりも取りこぼすことのないよう、奥のフロアにいく廊下には介護スタッフが配置されている。これをすり抜けることは不可能に近い。
「もう歯がないから」と、ETCカードを搭載している方もいる。「うがいだけはしていきましょうか」と洗面台の方へ体を向けられていたけど。
ぼくはというと、昼食後の歯磨きはしたりしなかったり。だいたい人にあれこれ言う人ほど、当の本人はやっていなかったりする。10回の昼食後、4回程度の確率。これは己を正当化するための意味を持たない歯磨きだ。
ひとりの利用者さんが、ぼくの国境警備をすり抜けようとしていた。
言わずもがな「歯磨きしていきましょうか」と声をかける。
「はは、まあね」と言って、洗面台の方へ体を向けようとしない。これはしょうがない。90歳近くまで昼食後歯磨きをしてこなかった・する習慣のない人間に、新しい習慣を身に付けてもらおうとすること自体が不自然なのだから。
たとえ、デイサービスでは自然なこととして組み込まれていたとして、どう考えたって、その方にとっては不自然なことで。ましてや他人から言われてやる歯磨きなんていう経験はない。
だがしかし、引き下がることはできない。ぼくは施設の定めと作業マニュアルによってプログラムされたETCゲートに過ぎない。
ぼくは、その人の進行方向半分のスペースを身をていして防ぎながら、右手にコップと左手に歯ブラシを持つ。冒険の旅にでるレベル1の勇者か。その方からしたら雑魚モンスターか。
「上と下の入れ歯を外して、うがいしていきましょうか〜」
「?」
おねがい。おねがいします。ぼくは心の中で祈る。口腔内を守っているのか、自分を守っているのか、わからなくなる。
「これ?」
「そう、それです」。そうだった。認知症のある方で伝わりづらい方だった。もう一度丁寧に。コウクウケアー!の呪文を詠唱してみよう。
「上と下の入れ歯を外して、うがいしていきましょうか〜」
申し訳ない気持ちと相手を思いやる気持ちと「やるしかねえ」という覚悟。この3色クリアクリーンの感情を人差し指に宿し、手袋を装着してその方の口元へと侵入しようと試みる。ミッションは入れ歯の救助(?)。
ぼくだったら嫌だ。他人の指が口の中に入ってくるのは。
でも、指を入れようとするこっちも股間が浮き上がるヒヤヒヤを感じているのだ。歯はギロチンだ。思いっきり噛まれたら第一関節首なんか「バスッ!」とちぎれてしまうだろう。
それでも施設の定めには逆らえない。プログラムは完了するまでループし続ける。
人差し指の第一関節が、利用者さん口の中へ入った。ここからは無理はしない。指を強引に押し込めばギロチンが待っている。相手も不快だろう。
数秒。唇の内側で指先を待機させる。体の内側だ。やわらかい感触が指先に伝わる。
「上と下の入れ歯を外して、うがいしていきましょうか〜」とコウクウケアーを詠唱。
ちゅっちゅっちゅっちゅっ。
「んお、んお」
ちゅっちゅっちゅっちゅっ。
指を吸い始めた。
90歳近い老人。指を座れるおっさん介護職員。
この永遠。
ぼくはチュッパチャプスになった。何味かは知らない。
授乳している母親もこんな気持ちなのだろうか。いやきっと違う。
・・・
次の日、別の介護職員がその方の口腔ケアを担当していた。
「上と下の入れ歯を外して、うがいしていきましょうか〜」と同じように声かけをしていた。
ぼくはニヤリとする。
お前はチュッパチャプス何味になるのか。
その方は、すんなり入れ歯を外してうがいを済ませた。
へへっ。だから介護はおもしろい。