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理由なく腹にワンパンを入れる
久々の歯医者。
診察台に座りリクライニングに体を預ける。多少の待ち時間があるのでスマートフォンだけお腹の上に置き、ちょろちょろとSNSやらnoteやらを眺める。ぼくの人生が終わったとき、スマートフォンを眺めている時間は一体どのくらいの時間になるのだろうか。1年か?2年か?はたまた10年か。
スマートフォンに費やしている時間をそのまま別の情熱を持てる何かの時間に使えたのなら、ぼくの人生はもっと充実するのかな。まぁいい。今はこの白い壁に覆われた歯医者の緊張感。何か野獣に狙われているような静けさを紛らわせることが重要だ。今日はラッキーだ。隣の診察台からは断末魔は聞こえてこない。
歯科助手が頭の上から話しかけてきた「うがいしてくださいね」と、ロボットの電子音の声で発する。紙コップが置かれしょんべん小僧から水が出てくる。毒なんじゃないかという色のイソジン。口に含み吐き出す。
そのタイミングで満を持して恰幅のいい歯医者が登場してきた。ぼくはスマートフォンを裏返してメガネとマスクを外した。覚悟を決めた。
「ちょっと染みると思うけど、一瞬だから麻酔しないからちょっと我慢してね」
これを翻訳すると「理由なく腹にワンパン入れるけど、腹筋に力を入れて我慢してね」ということになるだろう。
白い悪魔はぼくの口をこじ開け、先週入れていた詰め物をガンガン叩き外しにかかる。鈍痛が目の上の頭蓋骨をノックする。詰め物は取れた。
そして次に、型を取ってできた別の詰め物を歯の神経を閉じ込めるようにしてグッと押し込んだ。その瞬間、恰幅のいい腹にワンパン入れたくなるくらい刺激的な痛みが走り、ぼくはつま先をバタつかせた。白い悪魔を親の仇ぐらい睨みつけ、ロボットにもメンチを切ってやった。
もう嫌だ。歯医者。いきたくない。
そういえば、今日。
「歯磨きとうがいしましょうね!」
「俺、歯無いのに歯磨きしろってお前どうゆうことだ!」
昼間デイサービスで怒られた日だった。今日は歯の呪いにかかっているらしい。いやいや歯なくたって「うがい」はしましょう。きっと食べ残しもあるだろうし。
歯医者の受付で次の予約をとっている時、先生がぼくに話しかけてきた。
「介護の仕事されてるんだよね。うちもね、認知症の方が数人来られるんだけど、なかなか大変でね。中にはワー!ってなっちゃう方いるから、あっ!もう今日ダメだ!と思ったら、もう5分でやめちゃう」
そうか、ぼくも「ワー!」って言え、ば、じゃなくて、認知症の方の歯の治療はどうしているのか、ずっと気になってた。「もう、抜いちゃいましょう!その方が早い!」って歯医者として言えないよな。とかなんとか。
ぼくは、静まっていく歯の痛みと、ちょっとした先生との友情を持ち帰った。
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