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「吉原大火」と「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則」(前編)
今年のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」は江戸時代の新吉原遊廓と関係の深かった蔦屋重三郎が主人公。日本で最も有名な遊廓ともいえる「吉原」だが、改めて考えてみると今回の大河ドラマはじめ、創作物でその舞台となるのは江戸時代がほとんどであり、吉原=華やかな江戸文化といったようなイメージが定着しつつある。
しかし、明治期以降の「貸座敷免許地・吉原」の姿については、個人的にも知らないこと、わからないことがあまりにも多い。吉原について学ぶことは、遊廓史の理解度と解像度を高めることになるはず。今年、2025年は「新吉原遊廓」の歴史についても積極的に情報を収集していきたいと思う。
今回の記事は明治末期から大正期にかけての新吉原遊廓について。同地の姿を大きく変えることになった「吉原大火」と「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則」からその姿を見ていきたい。
※吉原遊廓は江戸時代、明暦の大火前の吉原遊廓(現・中央区日本橋人形町一帯)と区別するために、以降「新吉原遊廓」(現・台東区千束一帯)と呼ばれていた。本稿では基本的に新吉原遊廓としました。
吉原の大火
明治44年、明治期の新吉原遊廓で最も大規模な火災が発生。この火事は後に「吉原大火」とも呼ばれ、映画『吉原炎上』東映(昭和62年)のモデルになった。
『浅草區誌 下巻』【1】によると、江戸期の新吉原遊廓における全焼の記録は「十有餘度に及ぶ」、小規模な火事は数えきれない程であったという。また、『明治大年表』【2】には、次のように明治時代の新吉原遊廓における計5回の「吉原大火」が記録されている。
・明治4年5月29日 廓内の3分の2が焼失
・明治8年12月12日 江戸町1,2丁目、揚屋町全焼その他被害大
・明治23年1月23日 全焼61戸、半焼16戸
・明治30年3月15日 全焼113戸、半焼26戸
・明治44年4月9日 吉原病院を除き全焼(吉原大火)
前述の通り、明治44年4月9日、午前10時30分頃に発生した明治期最大の火災が「吉原大火」と呼ばれる。吉原大火の発生及び被害状況については様々な記述が存在するが、ここでは大火翌日に警視総監名にて発出された「大火公報」を参考にしたい。
『大火公報』
吉原及び其附近に於ける大火の状況に付十日警視総監の公表せるもの左の如し。
▲發火の場所 淺草區吉原江戸町二丁目二十番地貸座敷鈴木濱之助方
▲發火の原因 取調中
▲延焼の模様 當日は風力強く、瞬時にして吉原廓内一帯に延焼し、同廓建物殆んど全部を擧げて烏有に歸せしめ火勢增々■(しき)烈となり。日本堤上の家屋を め、其の東北に延びたるものは地方今戸町、田中町、元吉町、山谷町、淺草町、玉姫町、橋場町等に、南方に延びたるものは東町、田町二丁目、千束町三丁目等は、西北に延びたるものは下谷龍泉寺町及び南千住の一部灰燼に歸せしめ、午後九時半鎮火せり。焼失戸數如左。(中略)
淺草區計五七五九戸、郡部計三七六戸、合計六千五百五十五戸
▲警察官吏の負傷二人(内一人は脳震盪にて稍重症、一人は兩眼に打撲傷を受けたるも輕傷なり)尚消防組合員の負傷に就ては追報す。
▲一般人民の死傷 死亡四、重傷八、輕傷一二三(記者云此公報後に於て死體の灰燼中より発掘せらるるものあり實際の死亡者は此の公報よりも多かるべし)以降略
有楽社,明治44年5月
当時の新聞紙面に掲載された記事、焼失区域図からは、この大火が遊廓内(左下)に留まらず、浅草区(当時)北部、南千住付近までの範囲に広がる大規模なものであったことがわかる。
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■大火後の吉原
大火後まもなく、業者たちの仮営業が始まった。復旧に向けては火災による被害を最小限とするため高層楼の制限、耐火構造などの要件を必須とすることなど当局での検証が進んだ。当時はその他にも遊廓自体の廃止や、移転なども議論されていたようだ。
警視庁消防本部長、室田景辰は大火となった第一原因として「望楼」と「烈風」をあげた。つまり、悪条件が重なったのだと。
彼の如く三階四階の大廈高楼櫛比せし地にありては平常に望樓より出火を發見することは甚だ困難なるに當日の如く風力強き時にありては煙は全く地面に擴がり上騰せず爲に望樓よりの発見一層後るゝなり……
東京朝日新聞社は三階以上の建物の消火活動が難しかったこと、構造及び建築材料に制限をかけるべきであるとした。
今日の消防力は三階以上に達せざるは今回の火災にて十分に實見し得たるなり、妓楼建築の制限は單回數及び高低のみにて滿足すべくもあらず更に進んで建築用物質に及び不燃焼建築にあらざれば許されざるべし(中略)貸座敷業者が鐵材、煉瓦或は石材等を用ひて立派なる建築をなす能はざるは自明の事なれば……
内務省技師、近藤氏も同様に家屋の再建については不燃性材料を用いた建築が好ましいとしている。
火災の豫防法としては不燃性の材料を以て家屋の建築すると共に室と室との間の壁を厚くする外なく……
また、新吉原三業組合の幹部は次のように語っている。業者の立場としては、限られた敷地内に建つ建物で少しでも多くの部屋数の確保をすること、そのために階層を設けることが必要だったようだ。
建物の建方に就ては石造又は煉瓦とか木造とか又通路は隧道と普通路を何う變更しろとか孰れ一週間内にはお達しがあるでせう假へば二階以上は可けぬと仰有れば敷地を擴げなければ三階で許して頂いて石造又は煉瓦で御命令通りに造るとか何とか其邊は御命令が出てからご相談が出來るだらうと思つて居ます……
■焼け落ちた大門
遊廓内で発生した火災は大門から日本堤を越え、東北方向へ延焼した。そのため、当時の大門の構造物は完全に焼け落ちてしまったという。
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小島又市(明治42年)
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大火で焼け落ちた大門のアーチ状構造物
『淺草區誌 下巻』には大火後、左右の門柱だけが焼け残ったと記述されている。
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東京府の「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則」
次に「貸座敷取締規則」(以降、取締規則)から
は遊廓内における娼家、貸座敷の建物構造や営業上の規則を示したものである。筆者が本拠地とする愛知県など多くの県では県知事名による県令(縣令)、東京府の場合は警視総監名で警視庁令(警察令)として発令されていた。また、その内容や発令、改正時期、題名は地域によって異なっている。
各府県の取締規則の一例
・東京府の場合、警視庁令(警視総監名)
「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則」
・愛知県の場合、愛知県令(県知事名)
「席貸茶屋取締規則」→「貸座敷取締規則」
・大阪府の場合、大阪府令(府知事名)
「貸座敷娼妓取締規則」→「貸座敷取締規則」
東京府における明治期の取締規則の改正履歴(明治20年以降)
次に、東京府における明治期(明治20年代以降)の取締規則の新設、改正履歴を調べてみた。※以下は筆者が都立公文書館などで収集した史料。
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東京府における取締規則の題名は「 貸座敷引手茶屋娼妓取締規則 」。明治期の改正履歴は次の通り、確認できるだけでも警察令、警視庁令の発令は10回に及ぶ。内容の「一部改正」の庁令については一部チェック漏れがあるかもしれないが、ご容赦いただきたい)。
❶明治20年5月、 警察令第10号
(明治15年乙第18号達の改正)
❷明治22年3月27日、警察令第12号
(明治20年5月、第10号❶の改正)
❸明治22年4月15日、 警察令第17号
(内容の一部改正)
❹明治24年12月2日、警察令第19号
(内容の一部改正)
❺明治29年7月7日、警視庁令第40号
(明治22年、第12号❷の改正)
❻明治29年10月24日、警視庁令第47号
(内容の一部改正)
❼明治33年6月1日、 警視庁令第23号
(内容の一部改正)
❽明治33年9月6日、警視庁令第37号
(明治29年、第40号❺の改正)
❾明治33年10月9日、警視庁令第38号
(内容の一部改正)
❿明治44年5月 6日、警視庁令第9号
(明治33年、❽第37号の改正)
※以降、大正・昭和期にも複数回にわたり改正が行われたが、戦後取締規則も廃止された。
取締規則、貸座敷の構造に関する規定
次に、明治期の取締規則から、貸座敷の構造について触れられた部分を抜粋してみる。
■明治20年の取締規則
構造に関する規定なし
■明治22年の取締規則
構造に関する規定なし
明治22年3月27日、4月15日
■明治24年の取締規則
構造に関する規定なし
■明治29年の取締規則
警視廳令第四十號
【中略】
第四條 前項ノ貸座敷引手茶屋営業用家屋ニシテ其房室ノ坪数十五坪以上三十坪マテハ少クモ幅員四尺以上ノ階子二箇ヲ設置シ尚三十坪ヲ增ス毎ニ一箇ヲ增設スヘシ
東京府では明治29年に貸座敷及び引手茶屋の建物に関する規定が初めて示された。構造に関するものは第4条。房室(客室)の坪数が15坪~30坪迄の場合は幅4尺以上の階子(階段)を2か所設置し、30坪増えるごとに1カ所追加する必要があった。しかし、これ以外の規定は存在しない。
■大火前、明治33年の取締規則
警視廳令第三十七號
【中略】
第三條
遊廓地内ニ於クル貸座敷、引手茶屋ニ在テハ三階以上ノ建物其ノ他人目ヲ惹クカ如キ構造及装置ヲ爲スヘカラス
第四條
貸座敷、引手茶屋営業用家屋ニシテ其ノ房室ノ坪数十五坪以上三十坪迄ハ幅四尺以上ノ階子二個ヲ設置シ尚三十坪ヲ增ス毎ニ一個ヲ增設スヘシ但シ房室ノ坪数七坪未満ノモノニ在テハ階子幅ヲ三尺迄ニ減スルコトヲ得
【以下略】
明治33年の取締規則は従前の明治29年7月、警視庁令第40号「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則」に変わり新設されたものである。建物に関する条項は第3条と第4条、3階建以上の建物を条件付にしたこと、階段については15~30坪までは2か所、4尺幅の階段設置が求められていた。ただし、7坪以下の場合の階段幅は3尺まで短縮可とされていた。明治29年の取締規則よりも詳細の規定が示されたことがわかる。
「遊廓の建物には表と裏の階段があって、登楼客が鉢合わせしないように配慮がされていた」という言説もあるが、階段を複数設置することは取締規則によって定められたもので防災対策のひとつであった。昭和2年に愛知県名古屋市の中村遊廓で発生した火災時には、娼妓たちが裏階段から退避したという記録が残っている。
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■大火後、明治44年改正の取締規則
警視廳令第九號
明治三十三年九月警視廳令第三十七號貸座敷引手茶屋取締規則中左ノ通改正ス
【中略】
第二條ノ二
遊廓地内ニ於ケル貸座敷、引手茶屋ノ構造ハ左ノ各號ニ依ルヘシ
一 家屋ハ幅員二間以上ノ道路ニ面接セシムルコト
二 家屋ハ間口四間以上ニシテ其ノ建坪ハ三十坪以上タルヘキコト
三 建物ハ石、煉瓦又ハ其ノ他ノ防火材料ヲ以テ構造シ若ハ塗屋ト爲スベキコト
四 非常口ハ幅五尺以上高サ五尺七寸以上タルヘキコト
五 非常口ノ扉ハ外開キ戸又ハ引戸ト爲シ其ノ戸締ハ内部ニ之ヲ設クヘキコト
六 家屋ノ層階ハ三階以下タルヘキコト
七 層階ヲ設クルモノハ各層階ニ於ケル房室ノ坪数十五坪以上三十坪迄ハ幅員内法四尺以上ノ階段二箇ヲ設置シ尚三十坪ヲ增ス毎ニ一箇ヲ增接スヘキコト但シ房室ノ坪数七坪未満ノモノニ在リテハ其ノ幅員ヲ内法三尺迄ニ減スルコトヲ得
八 三階ノ層階ニハ容易ニ屋外ニ出ルコトヲ得ヘキ装置ヲ爲スヘキコト
【中略】
第四條
一 燈火ハ電氣燈又ハ瓦斯燈ヲ使用スヘキコト但シ洋燈ト雖金属製ノ油壺及適當ナル油煙止ヲ備フルモノハ郡部ニ限リ特ニ之ヲ許可スルコトアルヘシ
二 瓦斯燈ニハ適當ノ場所ニ遮断機ヲ備フヘキコト
三 瓦斯管ハ鐵又ハ眞鍮製ノモノヲ使用スヘキコト但シ巳ムヲ得サル場所ニ在リテハコノ限ニ在ラス
【以下略】
■解説
吉原大火発生翌月の明治44年5月に発令された取締規則。建物の構造についてかなり踏み込んでいることがわかる。最も注目したいのは、この時に3階建て以上の建物の建設が不可となったこと、3階建ての場合でも直接屋外に退避できる設備を設けることを求めた。また、石・煉瓦・塗屋(モルタル・漆喰)などの防火材料を用いた構造とすること、非常口は開戸・引戸で建物内部から戸締、つまり外からを戸を閉めることは不可となった。そして建物自体も間口4間(約7.2m)、建坪30坪(約99㎡)以下は不許可とするなど極端に小規模な店を排除する形となった。さらに、第4条では電気灯、ガス灯を使用することが追加された。これが火災発生を最小限に抑えることを目的としたのは明らかだ。
しかし、後年の大正5年に改定された取締規則では防火材料を用いるという項目、30坪未満の建物を許可しないという項目がそれぞれ削除されている。詳細は不明だが、『新吉原遊廓略史』【3】によると、この時、警視庁は「私娼撲滅」と「公娼改善」の方針の元、張店の廃止、貸座敷の飲食店の兼業許可、そして防火材料と30坪未満の建物の不許可項目を削除したとしている。
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後編へ続く
記事後編は、現存する古写真や絵図、「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則」の変遷と条項を照らし合わせながらその撮影(製作)年代を確認してみたい。
※本記事を引用、リツイートしていただくのは大歓迎です。本記事の構成内容、本記事からコピーした画像を【動画投稿サイト】【ブログ】【SNS】【出版物】などでパクる(転用する)ことはお断りします。使用されるときは必ず筆者まで連絡をください。記事内に掲載した画像には転載対策として加工を施してあります。
■参考文献及び図・画像
・取締規則は各年代の『東京府公報』より(年月日は記事内に記載)
・画像の引用元はそれぞれ記事内に記載
【1】 『浅草區誌 下巻』東京市浅草区,文会堂書店,大正3年
【2】 小川多一郎『明治大年表』吉川弘文館,大正3年
【3】 市川伊三郎等『新吉原遊廓略誌』新吉原三業組合取締事務所,昭和11年