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戦前名古屋に存在した名所「多加良浦遊園地」とその歴史②


多加良浦遊園地はどのような施設だったのか

前回の記事では名古屋市の港湾部に多加良浦遊園地が開設される経緯、そして遊園地を経営していた多加良浦海水浴株式会社と築地電軌株式会社について触れた。

今回は現段階で確認できる複数の史料から、遊園地の過去と現在の姿を明らかにしていきたいと思う。

【多加良浦の水の公園 海水浴場と遊園地と名古屋唯一のプール】
名古屋にはまだない水泳プールを造るべく濵名湖プール岐阜加納プールなどを参酌し男女に別つて八コース五十米競技を行ひ得べく遊園地にはブランコ、シーサー食堂玉突物賣場貸店無料休憩所又水上には水泳練習所、ボート遊覧用モーター等の備へもあり……

『新愛知』1925年(大正14年)6月16日

【海水浴場として評判よい多加良浦】
市内唯一のプールを新設した南区寶神町多加良浦は(中略)新舞子、大野兩海水浴場と共に其の名高まり今日では市民はをろかな事近縣下にも多加良浦海水浴場の名聲は傳はり下記の海水浴季節には浴客で非常な賑ひを呈して居る

『新愛知』1925年(大正14年)9月5日

主に其の水泳場として知られて居る。入場料は勿論全體としては取らないが、貸ボート、貸席、温浴場等は各々所定の料金を取る。川中には飛込臺浮臺、ケーブルなどがあり、陸上にはブランコ、スベリ臺等の児童遊具がならべてある。毎年來園者の一番多いの八月一日か十五日で、電車で來るものばかりで昨年は二千五百人を數へた日があつた。

『都市公論14(8)』1931年(昭和6年)

遊園地には種々の娯楽の設備あり、池には竹生島から移された辯財天が安置されて居る。夏、一日の仕事を終へてから、湯かたがけで出かける處としては先づ申分あるまい

『新愛知』1927年(昭和2年)11月17日

これらが遊園地の設備だったようだ。庄内川畔には海水浴場、水上には飛び込み台や貸ボート、陸上には名古屋市内で”唯一”の競泳用プール、種々の遊具、貸席や温浴設備(浴場?)が、敷地内の池には島が築造され弁財天が祀られていた。『名古屋市鳥瞰図』でも記述のとおり、池内の島に弁天堂が浮かぶ様子、また周辺に遊園地の設備のようなものが描かれていることがわかる【図1】。

図1.当時の鳥瞰図に描かれた多加良浦遊園地

次の2枚は多加良浦遊園地の様子を知ることのできる数少ない写真だ【図2】【図3】。とにかく写真が少ない…どこかに絵葉書や、写真が残っていないものだろうか…。

図2.(上)竹生島辯財天と(下)多加良浦海水浴場 というキャプションがある
図3.当時市内唯一だったという水泳プール

現地でのヒアリング〜見えてきたその姿

多加良浦遊園地がどのような場所であったのかを知ることはできた(史料上で)。しかし、海水浴場、プール、遊園地などはどこにあったのかは全くわからない。これだけの遊園地であれば案内図のようなものが残っていてもおかしくはないのだが。

次の画像は多加良浦町一帯の現在【図4】、そして1935年(昭和10年)頃の地図【図5】である。周囲を池に囲まれた場所に辯天寺という寺院(寶生山 辯天寺)が建っている【図6】。当時の鳥瞰図にその様子が描かれていること、また新聞記事に池内に弁財天が安置されていたことが報じられていることからも、この一帯に多加良浦遊園地があったことは間違いなさそうだ。

図4.現在の地図、池に囲まれた場所には
現在も辯天寺が建っている
図5.昭和10年頃の地図。池は現在よりも
かなり広かったようだ。
図6.現地、辯天寺の様子

どうしても当時の遊園地のことを知りたい。そう考えていたが、なんと幸運にも現地で長くお住まいという方から下記のようなお話を聞くことができた。その姿がかなりリアルに見えてきた。

・海水浴場は庄内川の堤防を降りたところにあった。昔は蜆(しじみ)がたくさん採れた。
・戦後にはすでに遊園地はなくなっていたと記憶している。
・昔は公園(惟信第一公園)や辯天寺の周りはすべて池であった。
・遊園地やプールは辯天寺の敷地南側にあった。プール開きの日には前畑秀子が来た。


遊園地の配置を推測してみた

現地で聞いた話と収集した史料を基に、戦前(陸軍撮影・撮影時期不明)の国土地理院の空中写真に多加良浦遊園地の設備を推測、加筆してみた【図7】。築地電車は遊園地の東方を下之一色方面へ走っていた。池内の島には現在の辯天寺があり、堤防を降りた庄内川畔に海水浴場が、遊具や貸席などの設備は辯天寺の南側の敷地にあって、少し離れたところにあるのがプール?。電停から遊園地へ向かう道沿いには、家屋のようなものが等間隔に並んでいる。これは住宅(別荘)だったのか、あるいは店舗?。正確なところはわからないが、とにかく興味が尽きない。 

※1936年(昭和11年)の『名古屋市土地宝典』【1】を確認したところ、辯天寺北側に広がっていた広大な池は埋め立てられ住宅地になっていた。この空中写真はそれ以前、1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)の間に撮影されたものと推測される。

図7.国土地理院・空中写真に加筆
(一部推定)【画像転載禁】

【3】へ続く

次回は多加良浦遊園地跡地の辯天寺、稲永遊廓との関係、その他について記していきたい(次こそ最終回に…)


■参考資料
【1】井田耕司『名古屋市土地宝典 昭和11年南区西部』大日本帝国市町村地図刊行会,1936年(昭和11年)

■図・画像
【トップ画像】【図1】
吉田初三郎『名古屋市鳥瞰図』名古屋汎太平洋平和博覽會事務局 ,1937年(昭和12年)東海遊里史研究会蔵
【図2】『中京名鑑 昭和3年版』名古屋毎日新聞社,1928(昭和3年)国立国会図書館デジタルコレクションより
【図3】『新愛知』新愛知新聞社,1925年(大正14年)8月1日
【図4】  国土地理院地図Vector、筆者加筆
【図5】『名古屋都市計街路及運河網図並公園配置図』都市計画愛知地方委員会 ,1935年(昭和10年)愛知県図書館蔵
【図6】 多加良浦辯天寺 ,2024年(令和6年)5月撮影
【図7】 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス、整理番号B27/コース番号C1/写真番号14、筆者加筆