【生活は患い】絡み辛味からみ
人の目を見て話せない子供だったから、やたらと食べ物と目が合う大人になってしまった。
秋ですね。この間は好きじゃないんだよなと言いながら茹で栗をひとつかみ食べてしまった。
食べることは生きることらしく、それはもう一生懸命に食育を受けた記憶がある。これから頂く物は色々な人の手を借りてここにやってくるのですよ、と先生が大きな口で説明していた。よく動くなと思っていた気がする。
なぜだか分からないけれど、その頃から食べることはアウトプット的行為だと僕は思っていた。
多分ものを口に運ぶ動きが、好きなんだと思う。同じ質量のある食べ物が噛み砕かれて無くなっていく様が、理屈は分かっていても、不思議で不思議でならない。
頭の理解とは別のところでわからないままでいる。
喋ると出る音は、見えないままに意味として消化されていく。言葉という皿に載った意味を咀嚼して嚥下する。そんなことの繰り返し。会話。
口から肛門まで一直線に考えれば、僕たち人間は体の内部にすら空洞を持っていて、そんな人間同士で繋がっていたいから、喋る。
自分の中から追い出したくてたまらないものと、埋めたくてたまらないものとが空中を飛び交っているな。
読みたい書きたい喋りたい、そして食べたい。
御免。ただの食いしん坊だったようで。
やはりよく動くなと思う。人の喋りを堪能しながら食べたケンタッキーの「にんにく醤油チキン」は、にんにくのカラミが例年より強く感じたのだった。
満腹。
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